旦那様をその気にさせる方法・8
「すぐに屋敷まで送らせます。少しお待ちいただけますか」
領主の仕事は一日休むとあっという間に増えていく。今日はもう少し片付けてから帰りたかった。
だがフランチェスカはうなずかなかった。
「マティアス様の仕事が終わるまで、本を読んで待っています。一緒に帰りましょう。お食事も一緒にしたいです。朝、一緒にお茶も飲めなかったので」
「は?」
「邪魔はしませんから。大人しくしています」
そしてフランチェスカは部屋の中を見回し、執務室に置いてあった予備の椅子にちょこんと腰を下ろすと、胸に抱えていた紙袋から一冊の本を取り出した。うっとりした表情で表紙を眺め、指先でタイトルをなぞった後、恭しい態度で本を開く。
マティアスは生まれてこのかた『きちんと椅子に座って本を読む』経験を一度もしたことはなかったので、その姿に祈りに似たようななにかを感じ、なんだか尊いものを見た感覚になった。
(ルイスが『奥方様は読書が趣味』だと言っていたが……本当だったんだな)
部下から新妻の趣味を知らされたことに関して若干癪に障ったが、女性に対して『趣味は何ですか?』と聞けるような人生を送ってこなかったので、これはこれで助かったように思う。
「それはどんな本ですか?」
ちょっとした興味から尋ねると、フランチェスカはパッと笑顔になって上品に微笑む。
「シドニアの風土を綴った軽い読み物と、植物図鑑です」
「図鑑?」
腰に手を当てて本を覗き込むと、フランチェスカは図鑑を開いてこくりとうなずいた。
「馬車でシドニア領に入った時、よく見た緑の花です。真冬なのにお屋敷でも咲いているのを見ました。あれはなんだろうって気になっていたんです」
「あぁ……」
「スピカって言うんですね。花だと思っていたのはガクだったなんて、思いもしませんでした。しかもこれから数か月後には色が変わるなんて、なんて不思議なんでしょう」
フランチェスカはページをめくり挿絵の部分を指でなぞると、それからまた熱心に文字を追い始める。
(好奇心の強い女性なんだな……)
マティアスの人生では、見たことのない花を見たから図鑑を買って調べようなんて、人生で一度も考えたことがなかった。そして今後もないだろう。半分くらいの年齢なのに、自分は彼女の半分も好奇心を持っているだろうかと、そんなことが気になった。
(いや、これは貴族の余裕というやつだな)
食べるために軍に入った。生きるために必死だった。それが何の因果か領主に任ぜられてしまい、自分だけならまだしも、赴任先に部下が付いてきたものだから、彼らと彼らの家族を食べさせるために必死になった八年だった。
花の名前などいちいち調べたりするのは、道楽だ。花でメシは食えない。所詮、彼女とは住む世界が違う。
貴族は気楽な身分なんだととひねくれた目で見つつも、本を腕に抱えてのめり込むように熱心に読んでいるフランチェスカに関しては、やはりいやな気にはならなかった。
「これを膝にかけてください」
マティアスは着ていた上着を脱いでフランチェスカの膝にかける。彼女は一瞬驚いたように顔を上げ、それからやんわりと目を細めた。
「ありがとうございます、マティアス様」
フランチェスカの感謝の言葉は心地よかった。
彼女を妻として、女性として愛することはできないが、ひとりの人間として大事にしよう。
そんな思いを胸に秘め、マティアスは無言でうなずいて机に戻ったのだった。
それから数時間後、仕事を終えたマティアスはフランチェスカを連れて屋敷へと戻った。
食堂で一緒に食事をとり、彼女に付き合ってお茶を飲んだ後はそれぞれの私室に戻ったのだが、
時計の針が深夜に差し掛かろうとした頃に、夜着の上にガウンを羽織ったフランチェスカが部屋を訪れて、仰天してしまった。
「どうしたんです?」
『白い結婚』では当然、寝室は別だ。彼女は自室で眠るだろうと思っていたので、まさかここにやってくるとは思わなかった。
「お仕事をされていたんですか?」
フランチェスカは軽く首を伸ばすようにして、マティアスの背後の書き物机の上の書類を見て目を細める。
「え……えぇ。昨年度の資産管理の書類の最終チェックをしていただけなんですが」
若干言い訳じみた言葉になってしまったのはなぜだろうか。新婚早々、仕事ばかりで呆れられただろうかと、おかしな気持ちになる。
彼女を受け入れる気もないし、できれば今でも王都に帰ってほしいと思っているくらいなのに。矛盾する気持ちの中で尋ねる。
「それで……フランチェスカはなぜここに?」
その瞬間、フランチェスカはパッと頬を赤く染めて、胸の前でぎゅっと手を握り締める。
「あの……えっと……その……そうっ、おやすみのキスをしていただこうと思ってっ」
「オヤスミノキス」
バカみたいにおうむ返しをしてしまったことに関しては許してほしい。フランチェスカは妙に気合の入った表情で、こちらを見上げる。
「だって夫婦ですし」
「いや、でもそれは」
「……だめですか? でも、して欲しいんです。私たち、表向きでは一応夫婦ですよね?」
フランチェスカは青い瞳に力を込めて、そのまま顔を持ち上げると目を閉じてしまった。これはもう完全にキス待ちである。
ここまでされると、さすがにもう拒めなかった。
マティアスもひとりの男であるからして、抱くつもりはなくともかわいい新妻のちょっとしたおねだりくらい、否定したくない気持ちもある。
脳裏には『白い結婚』でもキスは許されるのだろうかとか、ねだられたくらいで言うことを聞いてしまう己が情けないとか、いろんな言葉が浮かんだが呑み込んだ。
「――わかりました」
マティアスはごくりとつばを飲み込んだ後、おそらく自分の体重の半分以下に違いない、フランチェスカの背中と腰を引き寄せておそるおそる額に口づける。
ガウンを羽織っているとはいえ、手のひらからフランチェスカの体温を感じる。身を寄せると彼女の体からふんわりと石けんの香りがして眩暈がしたが、なんとか耐えきった。
「これでいいですね? フランチェスカ」
念押しのように尋ねる。
絶対に、唇にしろと言わないでくれ。言われたらとても耐えられない。
ひとりの人間として尊重しようと思いつつ、欲に目がくらむ己が恥ずかしいが、心の中で言い訳をするくらいのことは許してほしかった。
そんな気持ちの中、極力声を抑えてささやくと、フランチェスカは唇が触れたところに指をのせて、なにか言いたげに軽く目を細めたが、
「はい。おやすみなさい、マティアス様」
そのままくるりと踵を返して私室へと戻っていった。
彼女の姿が見えなくなってから、ドアを閉じる。
「はぁっ……!」
大きく息を吐き、その場に崩れるようにしゃがみ込んでいた。
いきなり王都から押しかけて来た貴族の妻がかわいくて困るなんて、思いもしなかった。
フランチェスカは不思議な女性だ。距離を取ろうと言っているのに、なぜかあちらからグイグイと近づいてくる。いくら信頼する兄から勧められた縁談とは言え、箱入りの貴族令嬢からしたら自分は『ケダモノ軍人貴族』のはずなのに、いったいなにを考えているのだろう。
もしかしてこれから毎日キスをしろとねだられるのだろうか。
そして自分は、おでこへのキスをいつまで耐えられるのだろうか。
(若い娘の考えることは、本当にわからない……)
マティアスはよろめきながら、頭を抱えこんだのだった。