旦那様をその気にさせる方法・5
「――え?」
「あなたが王都に帰りたくなった時のために我々は『白い結婚』でいたほうがいい」
マティアスは非常に真面目な顔でそう言い放つと、それから名案だと言わんばかりに、少しだけ表情を緩めて柔らかに微笑む。
『白い結婚』
フランチェスカの頭の中で、その言葉がぐるぐると回りはじめる。
白い結婚。それは初夜を済ませない結婚である。いわゆる政略結婚でよく使われる手で『いたしていないので結婚自体が成立していない』という名目により、離婚を可能にする手段だった。
(う……嘘でしょ……)
フランチェスカは驚いてあんぐりと口を開ける。
寝てしまった自分が悪いのだが、いまさらだ。
なにか言わなければと必死になって声を絞り出した。
「で、でもそんな……私は、あなたの妻になるつもりで、ここまで来たのです。私の家族も喜んでくれたし、帰るつもりなんてありませんっ……!」
フランチェスカだってもう子供ではない。侯爵家の立場を利用して押しかけたのは自分だ。
作家でい続けたいという下心あってのことだが、それでも覚悟して『妻にしてくれ』と押しかけた。だからこそ、彼もまたフランチェスカを利用するべきだと思っていた。
(だって、私なんて、貴族に生まれたくらいしか価値はないのよ……!)
体も弱い。社交界にすら出たことがない。
家族に甘やかされて好き勝手に生きてきた自覚はある。
だから彼の血を引く子供を産み、次の後継者として育てる。己の責任の果たし方くらいはちゃんとわかっているつもりだった。
だがマティアスは顎のあたりを指で撫でて、少し思案する。
「――では、当分の間は夫婦として振舞い、表向きは内緒にしておくというのはどうですか? そうすればご家族の気持ちを乱すこともない。王都に戻るときに打ち明ければいい」
「――」
フランチェスカは言葉を失った。
物言いは優しいが、彼は自分の考えを微塵も変える必要を感じていない。その口ぶりからして、フランチェスカと一年かそこらで離縁するつもりなのではないだろうか。
(どうしよう……)
マティアスの考えていることがわからない。
なんと言っていいかわからず黙り込んだフランチェスカは、ぎゅっとこぶしを握る。
一方マティアスはどこか肩の荷を下ろしたようなホッとした表情で、フランチェスカの手をそうっと両手で包み込んだ。
「貴方のためです、フランチェスカ様」
その瞬間、なぜか胸がズキッと痛くなった。
言葉もこちらを見つめる瞳も、冷えた体を温めるような体温も、なにもかも優しいのに、突き放されている気分になる。
きっと彼はもう決断してしまったのだ。
初夜に寝いってしまうような子供を見て、妻にはできないと心に決めてしまったのだろう。
目の奥がカッと熱くなって、喉がつまる。
不安を振り払うように叫んでいた。
「っ……ではせめてフランチェスカとお呼びください。仮に表向きだとしても私はあなたの妻になったのですからっ!」
咄嗟にそう言い返していたのは、いったいどういう感情からなのだろうか。
自分のことなのになぜかわからない。だがフランチェスカは、マティアスに他人行儀に扱われたくなかった。
どこか思いつめたようなフランチェスカを見て、マティアスは一瞬驚いたように緑の目を見開いたが、
「わかりました、フランチェスカ。あなたは表向き、俺の妻です。いいですね?」
そしてフランチェスカの前髪をかき分けて唇を寄せる。
口調も、触れるだけのキスも子供に言い聞かせるような雰囲気はあったが、もとはと言えば自分のせいだ。
「はい、マティアス様……」
フランチェスカはしぶしぶうなずいたのだった。
「なるほど……。それでお嬢様は相変わらずぴかぴかの生娘、ということなんですね?」
あの後、マティアスは『急ぎの仕事があるから』とさっさと夫婦の寝室を出て行った。
「そういうことなのよ、アンナ……」
フランチェスカは不貞腐れながらうなずく。
どうやら朝食も一緒にとる時間はないらしい。なんとなく取り残された気分でいると、それからしばらくしてソワソワした様子のアンナが部屋に入ってきた。ぬるま湯で顔を洗い身支度を整えた後、朝のお茶を飲みながらフランチェスカはアンナにすべてを打ち明けていた。
「マティアス様、本気で私が帰りたくなった時のために、白い結婚でいようっておっしゃってるみたいなの」
「まさかの展開ですね。あたし、お嬢様の子供のお世話をするのを、すっごく楽しみにしていたとこあるんですけど」
一夜明けて人妻になったフランチェスカから、ウキウキするような話が聞けると思っていたアンナは、拍子抜けしたような顔をしていた。
フランチェスカも確かに落ち込みはしたが、これで終わらせるつもりなどない。
「でも私、王都に帰るつもりはないわよ。実は『白い結婚』でしたってことになったら、結局元の木阿弥じゃない」
「お嬢様は新しい結婚相手を見繕って嫁がないといけないでしょうね」
「そんなの絶対にいやだわ」
フランチェスカははっきりそう口にして、窓の外に目をやる。
「こうなったら、私が『使える女』だってわかってもらうしかないわ!」
「え?」
謎の闘志を燃やし始めるフランチェスカを見て、アンナが眉を顰める。
「だから、王都に返すのがもったいないって思えるような働きをするのよ。そうすればマティアス様も、私を妻として認めて、手放すのを考え直してくれるかもっ」
そうはっきり口にすると、本当にそうするしかない気がしてきた。
「本気ですか?」
アンナが眉をひそめ、茫然とした顔になる。
「ええ」
フランチェスカはしっかりとうなずいた。
来るなと言われたのを無視して無理を通してきたのだから、疎まれても仕方ないと思っていたが、マティアスはフランチェスカの想像以上に善良な男だった。
『白い結婚』は意地悪で言っているわけでも何でもない。フランチェスカのためを思って言っているのだ。
それをひっくり返そうと言うのだから、やれることはなんでもやってみるしかない。
「そうと決まれば領内を見回りに行きましょう」
「はい?」
「まずはこのシドニア領がどんなところなのか調べなきゃ。お忍びで買い物に行くとかなんとか言って、ダニエルに外出することを伝えてちょうだい」
「わ、わかりました」
アンナはたじたじになりながら「王都じゃほぼ引きこもりだったのに……」と首をひねりつつ部屋を出ていく。
アンナを見送ったフランチェスカは、紅茶のカップを口元に運びながらそんな自分をどこか他人事のように、不思議に感じていた。
(確かに我ながら、必死だわ)
王都にいた頃のフランチェスカは、本を読む、小説を書く以外のことはどうでもよく、外の世界とはほぼ隔絶されたまま生きていたし、そんな自分に不満もなかった。
だが今はどうだ。マティアスに『白い結婚』を言い渡されてから、自分を認めてもらいたいと思い始めている。
(追い返されては困るからっていう、それだけなんだけど)
そうだ。気楽な田舎暮らしで執筆生活を楽しむために頑張ろうと思っているだけだ。
他に意味などない、はずだった――。