旦那様をその気にさせる方法・3
マティアスは部屋の中をゆっくりと見回す。
この日のため用意した夫婦のための天蓋付きのベッドの横に置かれたランプに火が灯っているが、部屋の中は薄暗い。花瓶にはたっぷりの深紅の薔薇がいけられていて、濃厚な香りを漂わせている。
緊張しながら妻が待つベッドのもとに歩み寄り、ビロードのカーテンを手の甲で端に寄せて、驚いた。
「っ……!」
思わずうめき声をあげて、その場に崩れるようにしゃがみこむ。わーっと叫びたい気持ちを必死に抑えて口元を手のひらで覆った。
なんということだろう。シーツの上に天使が横たわっている。
(待て待て。落ち着け、マティアス。これは夢じゃない、現実だ)
なんとか己を励ましつつ立ち上がったマティアスは、フランチェスカを見おろした。
薄い夜着をまとったフランチェスカは、黄金の稲穂のような髪をシーツの上に広げてまるで子供のようにすやすやと眠っていた。伏せたまつ毛も金色で、毛先がくるんとカールしている。鼻筋は細く高く、唇は薔薇色で、呼吸とともに柔らかな胸のあたりが、穏やかに上下していた。信じられないくらい圧倒的な美だった。
もちろん花嫁姿も愛らしかったが、着飾らずして、ただ寝ているだけでこんなに美しい人をマティアスは見たことがなかった。
額に入れて教会に飾られていないとおかしいレベルだとしか思えない。
「え……は……? ベッドに天使が……」
背中に天使の翼か妖精の羽根が生えているのではないか。
何度かぎゅっと目を閉じたり開けたりしたが、夢から覚める気配はない。
マティアスは大きく深呼吸してフランチェスカの枕元に腰を下ろした。
そうやってしばらくフランチェスカの寝顔を見つめていると、次第に落ち着きを取り戻し始める。
「疲れたんだろう……当然だな」
象牙のような滑らかな頬にかかる髪を指でかき分けながら、マティアスは目を細めた。
フランチェスカは生まれつき体が弱く、医者からは十年生きられないだろうと言われていたらしい。なのでジョエルや両親は、彼女を普通の貴族の娘のように育てず、それこそ珠のように慈しみながら育てたのだとか。
だが彼女はその寿命を乗り越え、花のように美しく育った。
そうなれば侯爵令嬢は結婚しなければならない。資産はあるのだから、独身のまま実家で過ごさせればいいと思うのだが、それは平民の考えなのだろう。
力ある貴族であっても、その世界の常識から外れることができない。そればかりはどうしようもないことなのだ。
『フランチェスカが君と結婚すると言い出したのは、王都中のめぼしい貴族や豪商との結婚を断って、どうしようかと途方に暮れていた矢先のことなんだ。帝国貴族も考えたが、そうなるともう二度と娘には会えなくなるかもしれないだろう? だから今はホッとしている。一般的な貴族の娘とは少し違うかもしれないが、優しくて素直ないい子だよ。娘のことをよろしく頼む。大事にしてやって欲しい』
結婚式に参列してくれた侯爵にそう言われたときは、恐縮するやらなんやらでうなずくことしかできなかったが、やはりフランチェスカは少し変わっている。
(兄に言われたから俺と結婚すると決めたらしいが……)
マティアスは叙勲されてから一度も王都に上がっていない。貴族との付き合いはほぼゼロだ。
もともとなんの縁もゆかりもないシドニア領だったが、八年の間にマティアスはこの土地に愛着を持った。おそらく自分はここで一生を終えるだろう。
だがフランチェスカはどうだ。
自分と結婚しても、彼女は華やかな場所で咲くことはできない。
「こんな若くて美しい娘が、かわいそうに……」
マティアスは彼女を起さないようにゆっくりと頭の下と膝裏に手を入れる。ベッドの中央に寝かせて、上から毛布をかけた。
それから自分はベッドの横の長椅子に向かい、クッションを頭の下に入れつつ、両足を投げ出すようにして横になった。ちらりとベッドを見つめると、フランチェスカは相変わらずすやすやと眠っている。
カーテンの隙間から注ぎ込む月光が、彼女の金髪を鮮やかに輝かせていた。
自分はいい年をした三十男だ。しかも人に言えない、男らしくない趣味を持っている。どう考えても侯爵令嬢の夫になる器ではない。
(彼女には考える時間が必要だ)
のちのちフランチェスカが後悔することにならないよう選択の余地を残すことが、侯爵から言われた『フランチェスカを大事にする』ことなのではないだろうか。
(少なくともここで欲に負けて抱いちまったら、取り返しがつかねぇよ……)
三十五年生きてきて、据え膳を食わなかったのは生まれて初めてだが、仕方ない。
マティアスは何度も深呼吸を繰り返し、己の煩悩を必死で脳内から追い出しながら、目を閉じたのだった。