旦那様をその気にさせる方法・2
「旦那様、いつまでドアの前に突っ立っているんですか。早くお入りください」
「こら押すなっ、ダニエル!」
背中をグイグイと押して寝室に押し込もうとするダニエルの手を振り払い、マティアスはすっかり乾いてしまった赤毛をかき上げる。
だがダニエルはなにを言っているのかと言わんばかりに、
「花嫁をいつまでも待たせるわけにはいきませんよ」
と眉間に皺を寄せた。
そう――ダニエルの言うとおり、湯あみを終えたマティアスは夫婦の寝室のドアの前で体が冷え切るまで突っ立っているのだ。
「わかっている」
「本当にわかっているんですかね」
ダニエルが眼鏡を中指で押し上げなら、ため息をつく。
「花嫁を不安にさせるなんて言語道断です。ここはもう夫として決めていただかないと」
「ああ……そうだな」
ダニエルの言うことはもっともだ。いつまでも踏ん切りがつかず立ち尽くしていたが、式はもう挙げてしまったのだ。もう腹をくくるしかない。
「部屋に戻っていい」
重々しく言い放つと、
「畏まりました。なにかあればお呼びください」
ドアノブに手をかけたマティアスを見て、ダニエルはようやく首肯した。サッと一礼して踵を返す。
「……はぁ」
そしてひとり残されたマティアスは何度も深呼吸を繰り返した後、ドアノブを引いて寝室へと足を一歩踏み入れていた。
「――フランチェスカ様」
思い切って妻になった人の名を呼ぶが、返事がない。聞こえるのは暖炉の薪が燃える音だけだ。
フランチェスカも緊張しているのだろうか。
そう――マティアスの心臓はバクバクと跳ねている。ついでに喉もカラカラだ。
花嫁衣裳を身にまとったフランチェスカを見てからずっと、彼女の姿が頭から離れない。
上品なドレスに身を包み、シドニア領地の名産のひとつである豪華な貂の毛皮のコートを羽織った彼女は、妖精の女王のように神々しく美しかった。
若い娘に畏敬の念のような感情をいだいたのは生まれて初めてで、自分でも戸惑っている。
もちろんマティアスは三十五歳の男なので、それなりの経験はある。
一応過去には恋人と呼べる関係ももったこともあるが、軍人という職業上どうしてもすれ違いが多くなり、長続きはしなかった。中にはそんなマティアスに『結婚したい』と告げる女性もいたが、一度もその気にはなれなかった。
自分は軍人だからいつ死ぬかわからない。だから好ましいなと思ってもそれまでだと割り切っていた。他人を本当の意味で、自分の心の中に踏み込ませることができなかった。
おそらくマティアスは、他人の人生を背負うのが恐ろしいのだ。
自分ひとりだけのことならどんな結果になったとしても、己が責任を負うだけで済むが、赤の他人と結婚して家族になると、相手の人生を自分のせいで壊してしまうのでは? という漠然な恐怖がある。
おそらくこれは自分の生まれ育ちに関係しているのだろう。
戦争で両親をなくしたマティアスは、辛い子供時代に「なぜ自分を産んだ」「なぜ自分を残して死んだ」と親を恨んでいた。成長しても軍の同僚や部下たちが愛する女と家庭を持つのを祝う気持ちに嘘はなかったが、自分はその気になれなかった。死ぬまで一生ひとりがいいと思っていた。
この八年間、爵位目当てとはいえ、怒涛のように押し寄せてきた縁談を断り続けていたのは、そんな自分を人として欠陥品だと自覚していたからだ。
(本当に、いいのか……?)
そしてこの期に及んでまだ、マティアスはフランチェスカを妻にすることに怯えている。
とっさに左胸あたりを手のひらで押さえる。
式の間もずっと、儀礼服の内ポケットにポポルファミリー人形を胸元に入れていたのだが、薄い夜着ではそれはできない。
(ええい……もうなるようになれだ)
大きく息を吐き、半ばやけっぱちな気持ちになりながら、
「フランチェスカ様」
もう一度、妻の名前を呼んだ。
「――」
だが返事はない。寝室は水を打ったように静かである。
(もしかして、逃げた、とか……)
美しい花嫁は『野良犬』と呼ばれる男と結婚することに、土壇場で怖気づいたのではないか。
あり得ない話ではない。
最初から貴族の女を妻にする気などなかった。花嫁に逃げられたとしたら、また世間の笑いものになるだろうが、最初に戻っただけだと思えばそれほどの変化はない。
だが脳裏に、花嫁衣装に身を包んだフランチェスカの姿を思い出して、彼女が逃げたりするだろうか、とも思う。
式が始まる前、マティアスの言葉をなにひとつ聞き逃さないといわんばかりに、彼女はまっすぐにマティアスを見つめてきた。
『とてもきれいな目をしていらっしゃるんですね』
至近距離でそう言われたときは、驚いてひっくり返りそうになったが、彼女はニコニコと微笑んでいた。
お披露目で馬車に乗った時も『マティアス様は領民に愛されていらっしゃるんですね』となんのてらいもなく口にしていたし『私も頑張らねば』と謎の闘志を燃やしていた。
こう言っては何だが、フランチェスカはまったく貴族令嬢らしからぬ肝の太さであるような気がする。