結婚したくない令嬢・10
「お嬢様……本当に、本当に、ほんと~~~にっ、美しいですっ……!」
顔の前で両手を合わせたアンナが、花嫁衣装に身を包んだフランチェスカを見て、祈るように目を潤ませる。
「ありがとう、アンナ。おばあ様のドレスのおかげね」
フランチェスカは苦笑して鏡の中の自分を見つめた。
今朝は夜が明ける頃に起床し、湯船に漬かった後にたっぷりのマッサージを受けた。普段は化粧などしないが、ダニエルが用意してくれた化粧師や髪結いたちが、フランチェスカをこれ以上なく美しく飾ってくれた。我ながら本当によく化けたものだと思う。
かつて祖母と母が身に着けた花嫁衣装は、のべ二百人のお針子が手縫いしたと言われている、最高級のエンパイヤドレスである。
首や鎖骨、肩や背中はすべて手編みのレースで覆われ、ビスチェには星屑のようにダイヤモンドが縫い付けられており、長い裾のロングトレーンにはアルテリア王国の国章である百合の花をかたどったレースがたっぷりの銀糸で刺繍されている。
いつもは下ろして自由になびかせているフランチェスカの金の髪は、複雑な形に編み込まれており、頭にはフランチェスカの瞳と同じ、目が覚めるようなブルーサファイヤがはめ込まれたティアラとヴェールが飾られていた。
「いいえっ、これはお嬢様の手柄ですっ。お嬢様は本当にきれいですっ!」
アンナはキリッとした表情でそう言い放つと、目の端に浮かんだ涙をさっとハンカチでぬぐって「侯爵様たちの様子を伺ってきますね!」と控室を出て行った。
(私、いよいよ結婚するのね……)
フランチェスカがマティアスの屋敷に入ってから二週間。
『任せてください』と言ったダニエルの言葉に嘘はなく、とんとん拍子で準備が進み今日フランチェスカはマティアスの妻になる。
アルテリア王国からは両親と兄が昨晩到着しており、結婚式に参加してくれることになっていた。
ちなみに式はシドニア領内の教会で行われるのだが、急に決まったことにもかかわわらず、領民たちは大盛り上がりで、すでに町中がお祭り騒ぎだった。
(耳を澄ませば、太鼓や笛の音が聴こえてくるわ)
窓を開けてよく見てみたいが、そんなことをするとアンナに怒られてしまうのでグッと我慢する。そうやってしばらく待っていると、ドアが軽くノックされる。アンナだろうかと「はぁい」と返事をすると、ドアがガチャリと開いた。
「フランチェスカ様」
「っ……!?」
男性の声に驚いて振り返ると、そこには濃紺の儀礼服に身を包んだマティアスが立っていて、フランチェスカの心臓は、信じられないくらい跳ねあがっていた。
「マティアス様っ!」
彼とこうして顔を合わせるのは、約二週間ぶりだった。
なにか言わなければならないという思いに駆られ、フランチェスカは慌てて立ち上がり、マティアスのほうへと歩き出す。だが次の瞬間、長いドレスの裾をつま先が踏み、体がバランスを失った。
「あっ」
「あぶないっ!」
ぐらりと傾くと同時に慌てたようにマティアスが大股で近づいて来て、フランチェスカの体を正面から抱きとめる。初めて会った時も思ったが、彼の体は大樹のようにがっしりとしていて、自分がぶつかった程度ではぐらりともしなかった。
(やっぱり軍人でいらっしゃるから、私とは体つきが全然違うのね)
そんなことを考えながら、フランチェスカはマティアスを見上げた。
彼はフランチェスカより頭ひとつ以上背が高く、見上げるだけで首が痛くなりそうだし、話しづらい。
だがフランチェスカはどうしても彼の目を見て話がしたかった。
自分でも不思議なことだが、彼の美しい緑の瞳を見ていると、なんだか心が落ち着くのだ。
「すみません」
「いいえ、こちらこそ驚かせて申し訳なかった。アンナにドアを開けさせるべきでした」
マティアスは困ったように視線をさまよわせた後、それからフランチェスカの手をとり、椅子へと座らせる。
そしてその場にサッとひざまずき、真摯な表情で言葉を続けた。
「準備ができたのでお迎えに来たのです。これから馬車に乗って教会に行き、教会で結婚同意書にサインをしたあとは、お披露目を兼ねて馬車で領内を周ります」
「はい」
「今日は運よく天気もいいですが、花嫁衣裳を領民に見せるのは教会に入る前と後だけでいいでしょう。馬車の足元には火鉢を置いておきますが、移動中はかならず毛皮のケープを羽織ってください。それと領内の整備はこの八年でかなり進んでいますが、馬車道に関してはすぐに悪路になってしまうこともあり、万全とは言えません。気分が悪くなったら、すぐにおっしゃってください。それから――」
マティアスは恐ろしく真面目な表情で次から次に、注意事項を口にした。
完全に仕事の雰囲気である。夫の妻に対する態度というよりも、貴人に対する振舞いそのものだった。
一方フランチェスカはすぐ目の前にあるマティアスの赤い髪が、初めて会った時は下ろされていたけれど、こうやってアップにすると額の形がいいのがわかるなと思ったり、きりりとした眉の下の緑の瞳は、近づいて見ると虹彩が金色に輝いていることに気づいたり。
そして彼のたくましい体を包む儀礼服に、八年前に祖母が彼に与えた勲章が燦然と光り輝いているのを発見して、誇らしいような気持ちになり、また無性にドキドキし始めていた。
初めて彼と会った時は馬車の旅に心身ともに疲れていて、マティアスに対してもなんとなくふわっとした記憶しかなかったが、改めて見ると、マティアスの男ぶりに目がいってしまう。
(マティアス様って、もしかしてかなりの美男子なのでは……?)
生まれてから十八年、王国一の美男子と誉れ高い兄の顔を見て育ったせいか、兄は別格として、書物の中の美男子のほうが現実よりずっといい! と思っていた。
だがこうやって近距離で見ると、マティアスは眉も鼻も頑固そうな唇も、シャープな顎のラインもどこをとっても魅力的に見える。
それこそ『フランチェスカがいつも書いている、好ましいと思うタイプの男性』レベルだと思えるくらいに。
「――あの」
マティアスが少し強張った声でうめき声をあげる。
なんだろうと軽く首をかしげると、彼はぎこちなく首を傾けて、目を伏せる。
「お顔が近いです」
「――あら」
言われて初めて気が付いた。フランチェスカは彼の顔をかなり至近距離で見つめていたらしい。
「失礼しました。マティアス様のお顔をよく見たいと思って」
「えっ?」
マティアスが不意打ちをうけたような、きょとんとした表情になる。
「とてもきれいな目をしていらっしゃるんですね。瞳の真ん中が濃い緑色で、そのふちが金色に輝いて、グラデーションになっているんです。キラキラ光って宝石みたい。つい見とれてしまいました」
フランチェスカはえへへ、と微笑んだ。
周囲から結婚を急かされていたときは、夫になる人の造形などどうでもいいと思っていたが、いざマティアスと式を上げる段階になってみると、自分が好ましいと思うタイプの顔であるに越したことはないような気がしてきた。
(マティアス様のお顔を見ていると、なんだか妄想がはかどりそうだわ。彼を主役にするのなら、どんな青年を相手役にしようかしら)
これは執筆が進みそうだと考えていると、
「――グッ」
地面をにらみつけているマティアスから謎のうなり声が聞こえた。
おなかが空いているのだろうか。
「マティアス様?」
「――大丈夫です。なんともありません」
マティアスはなぜか左の胸のあたりを手のひらで押さえ、何度か深呼吸をしつつ視線をさまよわせた後、思い切ったように立ち上がった。
「さ、参りましょう」
「……はい」
様子がおかしかったのは気のせいだったようだ。
とにかく少し話しただけでわかった。マティアスはとても親切な男性だし、フランチェスカをひとりの女性として尊重してくれるタイプの人間だ。
もしかしてフランチェスカが部屋にこもって小説を執筆していても、内容さえバレなければ、文句は言わないかもしれない。
(私は運がいいわ。やっぱりこの結婚は間違っていなかった)
フランチェスカは彼の手を取り、改めて自由な生活のスタートを切れる幸福をしっかりとかみしめたのだった。