結婚したくない令嬢・1
吹き荒ぶ雪の中、フランチェスカは叫んでいた。
「帰れと言われても帰りませんからっ。わっ、私をっ、あなたの妻にっ、してくださいませ!」
体の前で毛皮のケープをかき合わせ、これ以上凍えて倒れないように願いながら、目の前に立つ山のような大男を必死になってにらみつける。
帰れと言われる前に『帰らない』と告げる。
相手より先に行動して、言論を封じてしまうのだ。
案の定、フランチェスカの夫になるはずの男マティアスは、馬車から降りた途端いきなり戦闘態勢で噛みついてくる小娘を見て、戸惑い絶句しているようだった。
(ふふん……先制パンチが効いたようね!)
思った以上の効果に笑みを浮かべ、フランチェスカはマティアス・ド・シドニア中将を見上げる。
初めて見た彼は、とにかく目を引く男だった。
見上げるほどの長身で、真っ白な雪が映える燃えるような赤い髪に、しっかりとした太い眉。夏の緑を思わせる目じりが吊り上がった切れ長の目。軍人らしい逞しい体に似つかわしい精悍な顔立ちをしている。
簡素な軍服に毛皮のマントを羽織った彼は、まるで数百年の時を刻み、なおも生き続ける大樹のようにまっすぐ立っていた。
(まるで炎のように赤い髪……。とってもきれいだわ)
王都にいる、ほっそりなよなよした貴族青年とは明らかに違う、人間としての迫力のようなものを感じる。
いつものフランチェスカなら即、脳内で彼を主役にし、あれこれといらぬ妄想をして楽しむところだが、馬車の旅と緊張で心身ともに疲れきっていて、その余裕はなかった。
今はただ、彼に受け入れてもらうこと、その一心しか頭にない。
たとえこの男が自分を嫌っていても、疎ましく思っていたとしても、帰るという選択肢はないのだ。
(私はこの、辺境のケダモノと呼ばれている中将閣下にお嫁入りするしか道はないのよ!)
ここに来れば、自分がやりたいことをやれる――かもしれない。
自分勝手なのは百も承知で、希望を胸に抱いてここまでやってきたのだ。
「フランチェスカ様。シドニア領は王都とは違います。御身がお過ごしになるには、いささか」
こちらを見おろしながら、ためらいがちに繰り出されるマティアスの声はかなり低いが、活舌はよく声もよく通った。なめらかなビロードのようなしっとりとした色気がある。
(あら……とっても美声だわ)
体が大きく分厚いからだろう。体は楽器のようなものだから、当然と言えば当然なのだが。
そんなことを考えつつも、フランチェスカは背中を仰け反らせながら、長身のマティアスを見上げる。
「確かに私は『十歳になる前に死ぬ』と言われて育った箱入り娘です。病弱な妻など、妻として機能するかどうかご不安にもなるでしょう」
そう言い切った瞬間、マティアスの眉が少しだけ下がる。
「妻としての機能など……別にそういうことを言っているわけではないのです。ただこの地は王都に比べて不便も多いですから、都会育ちのあなたには無理だと言いたいだけです」
ためらいながらもはっきりとキツイことを告げる彼の言葉から、不思議とフランチェスカを心配しているような気配を感じて、ほんの少し気持ちが楽になったがそれはそれだ。
「マティアス様、私は王都で貴族として暮らすことになんの魅力も感じておりません。私もなんだかんだと十八まで生き延びましたし、今は元気です。このシドニア領主の妻として、立派に責任を果たす所存ですっ!」
フランチェスカには、どうしても失いたくない夢がある。
その夢を今後も追いかけ続ける代わりに、侯爵令嬢の自分に差し出せるものは、なんだって差し出すつもりだった。
与えられるだけの人間でいたくない。
意気揚々と、自信満々に見えるように胸のあたりをバシッと手のひらで叩いたのだが。思いのほか力が強すぎたらしい。
次の瞬間、くらりと眩暈がして――一瞬で、目の前が真っ暗になった。
自分を必要以上に良く見せようと、調子に乗ってしまった。後悔先に立たずである。
(あ、まずいわ)
焦ったが、ゆっくりと体が前のめりに倒れてゆくのを止められない。
「うわぁっ!」
案の定、いきなり目の前で倒れられたマティアスが声をあげ、フランチェスカを慌てて抱きとめる。
「大丈夫ですか!?」
「ええ、ごめんなさい……だいじょう、ぶ……で……」
そうは言ったが、膝ががくがくと笑って足に力が入らない。
(やっぱり寒い……体が凍えそう……)
王都からシドニアまで丸三日の馬車の旅は、休み休みではあるが、非常に体力を削られるものだった。正直言って無理を通した自覚もある。フランチェスカは自分の体がとうに限界を超えていたことに気づいていた。
「お嬢様!」
やや遅れて、一緒に馬車に乗っていた侍女のアンナが悲鳴をあげて背中をさすったが、相変わらず足に力は入らず、瞼が急激に重くなる。
冷たい雪の上でもいいから、今すぐ横になりたいと思うほどに。
(大丈夫だって言った矢先に倒れてしまいそう……情けない)
このままでは病弱なのを理由に追い返されるかもしれない。
いやだ、いやだいやだいやだ!
帰りたくない!
フランチェスカは唇をかみしめる。
必死に立とうと、足に力を入れようとしたところで、突然、ふわりと体が宙に浮く感触がした。
「すぐにベッドの用意をしてくれ!」
頭の上から声が響く。
彼が身に着けていた毛皮のマントで体が包み込まれた。その瞬間、ごうごうと吹きすさぶ雪の音が消える。
状況から察するに、マティアスがフランチェスカを抱きかかえているようだ。
「――マティアス様、お部屋を用意いたしました。どうぞこちらに」
年かさの声は家令だろうか。
「ああ、頼む。医者も呼んでくれ」
マティアスはそう言って、いきなりずんずんと歩きだす。
その途中、何度か確かめるように「フランチェスカ様」「起きていらっしゃいますか」「フランチェスカ様、しっかりしてください」と呼びかけられたが、ここで目を覚ますと『お帰りください』と言われる気がして、そのまま気を失ったふりをすることにする。
(私は木! 私は石!)
心は緊張したまま、体からはだらんと力を抜いた。
そんな涙ぐましい努力に、どうやら彼らは騙されてくれたらしい。
結局、ふたりだけで会話を始めてしまった。
「それにしても予想外ですね。まさか侯爵令嬢が、こんな辺境の地まで来られるとは」
少し先を歩く家令の声には、どこか好奇心を隠しきれないような気配があって、若干弾んで聞こえる。
一方、主人であるマティアスは心底迷惑そうで、抱かれているフランチェスカの体がぐらりと揺れるような、大きなため息をついた。
「はぁ……屋敷に入れる前に追い返そうと思っていたのに、計画がおじゃんだ。そもそもあれほど断りの手紙を送ったのに、無視されるとはな。見ろよダニエル。これこそ実に貴族らしい傲慢さだ。俺が最も嫌いなものだ」
マティアスの声には貴族に対する怒りと苛立ちがにじんでいる。
『貴族らしい傲慢さ』『嫌いなもの』
知っていたが、直接言われるとちょっぴり傷つく。だが彼が領地に引きこもっている理由を考えると、これは当然の反応だろう。
自分がやったことはまさに『貴族の権力をかさにきた』やり方だったのだから。
「まぁまぁ……フランチェスカ様のご実家は、王家とも血の繋がりが深い侯爵家ですから。なにかしら事情があったのかもしれませんよ」
主人をなだめる家令――ダニエルの言葉を聞いて、フランチェスカは後ろめたくなる。
(この結婚に貴族の事情なんてないわ。だってこれは、私のわがままを家族が聞いてくれただけなんだもの)
だがさすがにこの場でそんなことを言えるはずもなく、フランチェスカは唇を引き結んだがマティアスは呆れたように声をあげる。
「事情? なぜそれに俺が巻き込まれるんだ。貴族の妻なんて冗談じゃない! こんなことになるなら、適当に平民の女と結婚しておくんだったな」
「適当だなんて、そんな心にもないことを」
ダニエルがくすりと笑うが、本当に『心にもないこと』なのだろうか。
マティアスの声からは、彼が心底戸惑っているのが伝わってきて、強引に押しかけた自覚があるフランチェスカもまた申し訳なくなった。
(ごめんなさい。でも私も必死なんです。マティアス・ド・シドニア閣下……どうか私を、受け入れてください……!)
この人に妻として受け入れてもらえなければ、フランチェスカはこれから先、堅苦しい貴族社会でがんじがらめになって生きて行かねばならない。
それこそ、文字通り死ぬまでだ。
そんな人生はいやだった。
せっかく十八まで生き残れたのに、後悔だらけの人生を送りたくない。
「おねがい……おいかえ、さないで……」
気を失ったふりを忘れて、とっさに必死で声を振り絞ると、マティアスがすうっと息をのむ。
フランチェスカを抱き上げた手に力がこもった。
(もしかしたら、このまま地面に放り投げ出されるのかしら)
まぶたが落ち切る前に、夫となる人の顔をじっと見上げる。
こちらを見おろすマティアスは、精悍な眉をほんの少し下げて相変わらず困り切っていたけれど。
「まったく……困った姫様だ」
そう呟く緑の目からは、女性の体を乱暴には扱わないに違いない、そんな人の良さを感じた。
(あぁ……マティアス様って……やっぱりいい人だわ)
彼に一度も会わないまま、勝手に結婚を決めてしまったフランチェスカだが、案外自分はこの人とうまくやれるのではないだろうか。
不思議な予感を感じたフランチェスカは、えへへと笑う。
そしてそのままぷっつりと、今度こそ糸が切れるように意識を手放していた。
「はぁ……」
マティアスはまた深くため息をつく。
「ほんと困るよな……。こんな、かわいくてちっちゃくてふわふわして可憐な女の子が、俺みたいな男の奥さんになりにきたってさぁ……ありえねぇだろ。自制できる自信がねぇよ」
夫となる中将の泣き言は、フランチェスカの耳には残念ながら届かなかったのだった。