6話『計画と実行』
人に勉強を教えるということは、とても難しい。
……精神的な面でも、単純な技術的な面でも。どちらの面を鑑みても、僕からすると『教える』ということはとても難しい行為だったのである。
竜舞坂緋色。
彼女は元とはいえ、優等生だ。
そんな彼女に僕なんかが、本当にしっかりと勉強を教えられるのだろうか? ───いや、無理だが?
出来る出来ないはともかく。
まず僕が『何を』教えればいいのか、分からないのだ。
「えーとっ、何からやるか……」
「どうしようねえー」
「むむ。……今までしっかりと勉強に励んでこなかった自分を恨みたい」
何を教えればいいのか?
僕、氷室政明は……『僕のせいで成績が落ちた竜舞坂に再教育』しなければいけないわけなのだが。具体的に何の成績が落ちたのか。
勉強の中でも、どのような部分で力を落としてしまったのか。
……そんなの、分かるか?
もしかして保健体育カナ? 保健体育なら、いつでも僕はオッケーだし、ティーチャーになれるぜ!?
という冗談はさておき。
つまるところ、うん。分かるわけねえのだ。なにせ事を僕に任せてきた貝絵先生が何も教えてくれなかったのだから。
彼女が落とした教科の成績、その教科は何なのか? それを当てるなんていう芸当、出来るわけない。
つまり、これは無理ゲーである。
「ひむろっちは、勉強得意そうだからねえ」
「あんたに言われるとな、それはただの暴言なんだよ?」
「そう?」
「……うぐっ。その天然さは、暴力だ!」
ごめん。これが人を傷つける言葉だとは知らなかった。そんな無知を披露しながら他人を破壊する邪知暴虐のドラゴンダンススロープ。略してドダス。ドダスさんは、やはり悪魔なのだ。
そして無知は良くないと改めて思い知らされる。
なにせそんな無知のおかげで、一人の人間がこうして死ぬところだったのだからな。その天然っぷりに、僕は撲殺されるところだったのだ。
「えへへ、そんなに天然かなあ? 私」
「───少なくとも、僕はそう思うけどな。って……それよりもだ。聞きたいことがある」
「?」
さて、話題を変えよう。
話題を変えようというか、本題に戻すというか。
「言いにくいかもしれないけどさ」
「うん」
「お前は勉強の成績をこの一か月で落としてしまったんだろう? ……で、その落とした成績が何の科目のやつなのかって、さ。これから僕が勉強を教えるにあたって、必要不可欠な情報を聞きたいんだよ」
「あー、そういうことね!」
……そう。そういうことだ。
僕のせいで落とした成績。先述した通り、その”成績”が何なのかを知ることが、まず大事なのである。
「実際どうなんだ?」
「どうだろうね?」
「そこを隠すなよ!?」
僕が知りたい情報に限って、とくに何も言葉遊びするわけでもなく、答えず、それでいて視線を泳がせる彼女。額からは一滴の汗がこぼれていた。
「いやあ、あはは、まあなんていうかですね──」
「ん?」
今まで見せたことないほどの動揺というか、答えにくそうな表情を部屋の主は見せた。……そんなにある一つの教科の成績が落ちぶれたのだろうか。ないしは、そんなに苦手教科が劇的に増えたりしてしまったのだろうか?
「落とした成績。どれか一つをぐわっ! って落としたわけじゃないんですよねえ」
「そうなのか?」
つまり、幅広い教科を小さくぽろぽろと落としていったというわけか。
なら待て、それなら僕に出来ることは限りなく少なくなるんだが大丈夫か? ……いや、駄目だろうな。
全部が基本的に高水準の優等生。
どんな科目も良い点数を持つ彼女が、幅広い教科でそれぞれをぽろぽろと落としていったところで、それらの教科の成績は少なくとも『中の上』以上にはいるはずだ。
つまり、基本的に教科の成績が『中の下』ぐらいの僕には何も出来ない!
……詰み、である。
「そうなんだよねえ」
「いやまあ、うん───どうしようかな、本当に! 貝絵先生、やっぱりあれは無謀だったんだ。僕みたいなヤツが、元とはいえ優等生に勉強を教えることなんて出来やしないんだ!」
「そ、そう?」
「うん」
僕はまあ全部苦手科目なんだが──強いて”出来る”科目をあげたとしても、それは一つだけだしな。『数学』ぐらいしか、僕にはまともにやれないのだ。
「数学は教えられるかもしれないが」
「数学?」
「そう、数学」
これは自慢じゃないが。僕は期末テストの数学で学年四位を取ったことがある。どうだ? 凄いだろう?
「私ねえ、数学苦手なんだよねえ。学年一位とかは、一年生の時にしか取ったことないし~」
「……」
凄くなかったらしい。
大事なことなので、もう一度言おう。
凄くなかったらしい!!!
そうだった。すっかり忘れていたぞ。彼女は元”学年トップクラスの優等生”どころか、全国のすげえヤツらと戦える優等生なのだ。得意教科というか、普通の教科ならば……学年一位は当たり前。苦手教科は時々しか一位が取れない。という化け物じみた化け物なのだ。
そんな彼女を目の前に、僕風情が自慢出来ることなんてない。
……哀れである。自分が、とてもとっても。
「あ、あああ」
「って、ちょ、大丈夫そっ!? なんか体全体がコンパスみたいになってるけど!?」
「僕はどこぞの豆腐屋小町かよ──!」
「っあ、大丈夫だった」
あだ名がコンパスって。
僕が嫌いな”国語”の教科書でしか見たことないぞ。
僕が動揺というか、絶望で体がコンパスみたいに細く硬直していた数秒間。ドダス野郎は僕の胸元へと接近し、両肩を両手で揺さぶっていた。……近かった。彼女は僕の意識なんか関係なくパーソナルスペースに入ってくる。
そして微かに漂ってくる女の子の良い匂いが鼻をくすぐり、そして散っていく。
それだけで、氷室政明は絶命に値するダメージを喰らっていた。
「近い、近いぞ竜舞坂さん!」
「ん? あ、そ、そうだったね!」
そう言うと、彼女はゆっくりと三十センチぐらい距離を空けてくれた。叫んだみたいになってしまったが、悪いね。悪気はなかったんだ。ちょっと緊張と驚きがありすぎて、正常なリアクションが出来なかっただけだから。
許してほしい。
そして。
「……ごほんっ! よし、ここであーだこーだ言っていても分かんなさそうだし。良く分からないし」
思い切って、僕は決断する。
「なにかな?」
彼女の再教育。
その第一歩を踏み出す計画。
そう。
「今から、僕が数学を教えてやる───」
無鉄砲にも程があると思ったけれど、このままだと埒が明かないと踏んだ僕は……その選択肢を取るのだった。
今日はここまで。僕の人生もここまで。
……え?