魔伝 桶狭間の戦い
尾張に攻めて来た今川兵が全員 戦意喪失して敗走する桶狭間の戦いです。
尾張をほぼ統一し、上洛を果たした信長に次なる試練が襲いかかった。
永禄3年(1560)
正月上旬の駿府 今川館は、正月三が日の祝いの余韻の渦中に浸っていた。
今川義元が、尾張に放っていた忍びは、ことごとく魔道巫女達の幻覚攻撃を受けて義元の元には、くだらない歪んだ情報しか入って来ない状態に置かれている。
そんな忍びが報告をもたらして来た。
「鳴海城の山口教継が密かに、信長に我が方の内情を漏らしているようです」
「やはり裏切り者は、信用できない」
今川義元は偽計(三河安城にて先遣隊と合流せよ)を持って、山口教継を鳴海からおびき出すと、矢作川の岸で溺死に見せかけて謀殺した。
「謀には謀を持って敵を制する、尼子経久様がよく用いた手口ですわ」
玲奈が誇らしく信長に報告した。
「フフッ義元め、さぞかし慌てておろう、でかしたぞ玲奈、あとで褒美を遣わすとしよう」
10年近くを費やし、鳴海の裏切り者 山口氏を敵に葬らせた信長は満足そうに顎を撫でる。
「今川義元は、目の上のたんこぶ(武田信玄)と背中合わせの鈍牛(北条氏康)との娘を遣っての婚姻関係が堅固になってきた今を狙い尾張に攻め入るつもりのようですね」
玲奈の言葉に信長は黙って頷く。
「さて、どういたします旦那様」
「そうだなぁ」
と言いながら玲奈の膝に頭を預けて、信長はあくびをした。
「俺はひとまず昼寝をするゆえ、起こすべき時に遅滞なく起こせ、良いな」
そう言い捨てて信長は寝息を立てて気持ちよく寝てしまった。
「承りました」玲奈がつぶやく。
鳴海には入れ替わりに、今川家臣の岡部元信が入り守りを固めると、信長も鳴海の周囲に、丹下・善照寺・中島砦など付け城を築いて敵を牽制しようとした。
4月末 駿府 今川館に重臣が招集されて軍議が行われた。
冒頭から今川義元が、激を飛ばす。
「尾張の若造がこれ以上力をつけない内に葬り去ってしまわねばならぬ」
朝比奈泰朝が頷いて賛成した。
「まずは、鳴海や大高への後詰め(城への支援)を行い、織田の付け城を落としてから兵力の余裕があれば清洲城を落として、あわよくば信長を打ち取りましょうぞ」
「そうよ!尾張を支配下に置ける良い機会じゃ」
義元は駿河・遠江・三河に陣触れを出して武将達に駿府への参集を命じた。
この間に、清州城の信長はほとんど動かない。
籠城するとも、城外で戦うとも、今川義元に降参するとも、はっきりしない曖昧な態度に徹するのみ。
家老の林秀貞が信長のもとにやってきて苦情を述べても暖簾に腕押しの如き姿勢を貫き、追い返す。
「はや織田家滅亡の時が到来か」
そんな捨て台詞も、歩き巫女が聞いて信長に知らせても、本人は知らん顔だった。
「言わせたい奴らには言わせとけば良い、捨て置け」
そうこうしているうちに、季節は春を通り過ぎ初夏を迎えつつあった。
先鋒は井伊直盛・松平元康が勤める形で総勢1万5千が駿府を出陣したのは、5月12日である。
18日 尾張沓掛で今川義元が軍議を開いた。
松平元康は大高を守る鵜殿長照への兵糧搬入を命令された。
そして19日未明には、大高城から800メートル地点の丸根砦に、松平元康勢約壱千が攻めかかった。
同時に鷲津砦にも、朝比奈泰朝勢が攻撃を開始。
そして運命の5月19日明け方4時 清洲城
善後策を練るどころか、世間話に終始していた信長のもとに「今川軍が鷲津砦と丸根砦に攻撃開始」の報告が入った。
すっくと起き上がった信長が「玲奈よ鼓を持て」と言った。
そして敦盛を舞った。
「人間50年、下天のうちをくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり、一度生を得て、滅せぬもののあるべきか‥」
舞い終わると同時に歩き巫女が、湯漬けを捧げて信長に恭しく差し出す。
湯漬けを3杯一気にかきこんで鎧兜を着用した。
「玲奈には例の魔力を駆使してもらおうか‥」
「はい、喜んでお供いたします」
玲奈が勇んで答える。
劣勢の織田の奇跡的大逆転勝利劇の幕が上がった。
「まずは熱田神宮じゃ兵を集める」
信長が馬に跨りいきなり走らせた。
熱田神宮にて織田信長が下馬して本殿に向かう。
「勝ち戦に吉祥は付き物、用意致せ」
後に続く玲奈が、もぞもぞと何かを唱えると、近習達が天を仰いて喚いた。
「吉祥なり、白鷺が現れた」
一羽の白鷺が熱田神宮に集まる味方を招くように旋回した。
しばらくして兵は4千5百ほど集結した。
「よいか、皆よこれを見よ」
信長が手にした永楽文を見せびらかすように掲げる。
「表が出れば我が方のは勝ちじゃ」
一斉にどよめく兵を見ながら信長が宙に一文を放り投げる。
すかさず歩き巫女が駆け寄り、拾い上げると高らかに告げる。
「表です、お味方大勝利に待ちが成し」
巫女の叫びに、兵から拍手喝采が溢れる。
「よし機は熟したり行くぞ」
信長がひらりと愛馬に跨り号令をかけた。
信長軍は意気盛んに熱田神宮を後にした。
5月19日 正午
沓掛を出発した義元軍はこの頃に[桶狭間山]に到着して、丸根砦と鷲津砦の陥落の報告を喜んだ。
そして北西方面(鳴海を包囲する中島砦がある)に向けて兵力を展開した。
意外にも南東部はがら空きである。
謡を舞わせたり、村人たちから引き出物の酒を献上されていた。
歩き巫女達が熱田神宮から兵を鼓舞する舞いを披露するためにやってくる。
この頃信長勢は熱田から中島砦に移動していた。
周囲はすべて湿地帯で敵から丸見えの上に一騎縦隊でしか進めない欠点がある。
しかし信長は「あの敵は昨夜大高城に兵糧を入れて丸根、鷲津と戦い疲労しているはずだから恐れずに攻めかかれ、敵は切り捨てにせよ」
それが義元本隊とは気づかないまま中島砦を後にした。
今川軍先鋒の鵜殿・朝比奈・岡部・松平は、玲奈の命令で参上した歩き巫女達から「信長は籠城する」と報告を受けて、更に酒肴や戦勝の歌舞や性的サービスなどの大歓待を受けて、既に勝ったつもりで宴会を始めた。
「何の騒ぎぞ、見て参れ」
義元が騒ぎを聞きつけて配下に命じた。
「勝ち戦の祝いの宴だそうです」
報告を聞いた義元が何かを言いかけた途端に一天かき曇り雷雨となった。
一方の信長勢にいた玲奈は、天候を操る魔道を発動させて車軸の雨を義元本陣のみに降らせた。
「今ぞかかれ」
風雨の中を混乱状態の今川本隊に向かって信長が絶叫した。
いつしか豪雨は止んでいたが、乱戦状態の今川本隊と織田勢は気にもとめない。
「義元の本隊を攻め崩せ」
信長が桶狭間山を下ろうとする輿を見つけて馬を走らせた。
織田勢の執拗な攻撃に今川の武将や兵士達は、散り散りになって逃げ出していく者や討たれる者が続出した。
満身創痍の毛利新助がやがて叫んだ。
「今川義元打ち取ったり」 首を掴んで喚き続けた。
「勝鬨をあげい」
信長が叫んだ。
「エイエイオウ~」
今川兵は1万5千あまりが歩き巫女により、清洲城陥落による尾張平定の勝利を祝う凱旋行進を、駿府まで歩いて行くと脳に刷り込まれ、戦意喪失して我先に東へ足を向けて去っていく。
我先に逃走が始まったが信長は追撃すらさせない。
「東へ戻る奴らは見逃し、この場に残り歯向かう兵を狩り立てよ」
「と言われましても、誰もいないようですわ、勝ちましたゆえ、清洲城まで凱旋されてみてはいかがでしょう」
神馬に跨がる玲奈が信長に告げる。
「悪くは無い、皆を呼び集めよ、もはや戦は終わり我らは兵をまとめて清洲城まで凱旋いたす」
大高城にいた松平元康は、洗脳されたかのように勝利の雄叫びをあげて、そのまま矢作川を越えて三河に入り、大樹寺から三河岡崎城に入城した。
岡崎城の今川方武将は、元康に城を引き渡し駿府に引き返す。
「疲れた、寝る」
そのまま駿府には、敢えて帰らなかった。
鳴海に留まる今川家臣 岡部元信は、信長から義元の首を貰い受け、兵をまとめて駿府まで引き揚げる。
これに伴い、尾張は東からの脅威が無くなる。
今川は、女戦国大名の異名を持つ寿桂尼(義元の母親)が氏真の後見人になり、彼女が生きている7年間だけは、武田や松平元康に付け入る隙は与えなかった。
清洲城
「大勝利に終わりおめでとうございます」
玲奈が信長をねぎらった。
「うん、そなたのおかげであるゆえ感謝する」
信長はニンマリとして玲奈の膝に頭を載せた。
「次はいよいよ美濃をいただくとしよう、蝮どのも本望だろうよ」




