信長 非情の決断
美濃の蝮 斎藤道三が遂に……。
有力な後ろ盾を失う信長の影では、弟 信行を担ぐ家臣が暗躍し、打倒信長の兵を挙げさせる。
弘治2年(1556) 正月 美濃の稲葉山城。
「稲に麦……吉卯丸と3人目でようやく嫡男が産まれたか!さぞ婿も激しく営んだようだな、まずはめでたいゆえ祝いを送りたいものだ」
斎藤道三が、苦笑いを顔に浮かべて帰蝶ならぬ玲奈からの手紙を読み終え感想を呟く。
そんなふうにくつろぐ道三のもとに、家臣の武井肥後が火急の用件を携えて現れる。
「どうした肥後……青い顔をして、何事か?」
「誠に申し上げにくい事が起こりました、義龍様が弟の孫四郎さまと喜平児さまが、病気見舞いに来られた隙をついて二人とも殺してしまわれました」
「ふん、来るべき時が遂に来たか……ここへ攻め寄せてくるか?」
「驚かれないのですか?」
「あやつ、廃嫡の危機に立ち上がったのさ、弟ばかり可愛がるワシと弟を殺せば美濃がそっくり自分のものになると勘違いしておる、尾張の婿が横からかっさらうと予想すら出来んようだ、うつけと侮るとしっぺ返しを喰らうとわからないバカでは困る」
「では味方は多いほど良うございますゆえ、私が城の守備につきます、どうかお許し下さい」
武井肥後は平伏して道三の言葉を待った。
「そうだな、城の守りは万全を期すのが一番だからな、では頼むぞ」
孫が出来て倅を討たれてしまい衝撃で心に隙が生まれたことに気づかない道三は、失策を犯してしまった。
義龍に内通している武井肥後の兵を稲葉山城に入れてしまったのだ。
その日の夜遅く。
示し合わせて義龍軍が稲葉山城付近にやってくる頃には、天性の勘で危険を察知した斎藤道三は僅かな兵を連れて逃走した後だった。
「あやつを殺しておけば良かった……ワシも耄碌したわい」
そう言って長良川を渡り、対岸にある鷺山城に入った道三は国中に触れを出す。
「斎藤道三、隠居して息子の義龍に稲葉山城を譲り渡した」
生来の負けず嫌いの道三はそう取り繕うが、影響力の失墜まではどうにも出来ない。
斎藤義龍は、道三を追放したと尾張の岩倉織田家・末森の織田信行にこっそり通告して、反信長戦線を支援する素振りを見せて信長に圧力を加えた。
尾張 清州城。
「義龍にまんまと嵌められて城を追われるとは蝮どのも老いたか」
辛辣な言葉を信長から浴びせられて道三からの使者が、眉を釣り上げて怒りも露わに吐き出すように言った。
「……どう繕おうと、そうなりますが我が主から婿は援軍を寄こすかどうか見て参れとだけ言われました」
「であるか」
信長も言葉とは裏腹に真剣な顔になる。
「せっかく孫も出来ましたゆえ尾張まで孫の顔を見に来て欲しいと、蝮どのに伝えられよ」
信長がわざとらしく呑気なセリフを口にすると、使者が微妙な顔になる。
「それにつきましても伝言がございます、義父を出迎えに婿が来るべき時には、ワシは生きていられるだろうかな?」
はあ?と言いたげな信長が睨む。
「なるほど、であるか」
(尾張内部に敵がいるのに来てはならん、お前が来る前にワシは死ぬかもね)
と言いたいのだと信長は察した。
「それは残念だな、帰蝶が悲しんでいたと舅様に伝えられよ」
それだけ告げて使者を下がらせた信長が盛大にため息を吐く。
「玲奈よ、俺はまたひとり唯一無二の理解者を失うことになる」
玲奈が黙って信長を膝に寝かせる。
「岩倉織田と、末森のバカどもは、我ら魔道巫女が抑えますので、旦那様は、その隙に蝮どのを尾張に迎え入れに行かれてはいかがですか?」
それを聞いた信長の顔がパッと明るくなる。
「危険極まりない策だが何もしないで蝮を見殺しになど出来ん、俺の男が廃るわな」
「では助けに行かれるのですね」
さっきまで曇っていた玲奈の顔が明るくなる。
「おお、待っていろ」
美濃 鷺山城 弘治2年4月15日。
「道三さま、尾張の婿はいつ援軍を寄こすのでしょうか?」
「さあなワシは婿ではないから、うつけの考えなど知ったこっちゃねえが、これで信長の株は上がるのさ、窮地に陥る舅を救う為に助けに来てくれる頼り甲斐のある奴という看板はデカイぞ、義理堅い評価は世渡りには貴重な武器となる、人が頼ってついて来るのは力が強くて義理堅い奴さ、俺みたいな悪だけでは誰もついて来ないわけだ」
その証拠に見ろと、道三が顎をしゃくる先に敵がたむろしていた。
「敵は1万8千を僅かに超え、味方はせいぜい2千足らず」
「どうやらワシは義龍を見誤っていたらしい」
そして寂しそうに自嘲気味に言った。
「孫を抱きには行かん、それこそ蝮の名が廃るわい」
4月20日 長良川。
義龍軍と道三勢が睨み合いに入った。
「申し上げます、尾張の信長が二千を率いてこちらに進軍してきました」
「よし、道三と合流する前に叩き潰そう」義龍が法螺貝を吹かせた。
「よし、婿がワシに合流する前に討ち死に致す、婿には早く逃げろ道三斬り死にと告げよ、それからお前はもう帰って来なくて良い」
使い番がそそくさと走り去る。
「魔道巫女がいない信長など牙を失った虎よ、討ち果たして参れ」
義龍が、軍の一部を信長軍にぶつけさせに行かせた。
そして乱戦の最中に、斎藤道三は本陣に乱入して来た敵に首を刎ねられた。
道三討ち死にの報告に信長は、急遽撤退を命令した。
「よし義理は果たした、蝮の弔い合戦は後回しだ。全軍引き上げい」
こみ上げる嗚咽をこらえながら信長が喚き散らす。
追いすがる義龍軍を巧みに躱しながら、信長軍は鉄砲隊を後にまわして威嚇しながら粛々と退いて行く。
やがて戦闘中止の命令が義龍から届き、敵も撤退した。
清州城に帰還した信長は一言も喋らず、1日奥に引っ込んでしまった。
前回までのあらすじ。
若き尾張の織田信長は、歩き巫女の玲奈の魔力を借りて、敵対勢力と戦いつつ、尾張清州城を手に入れる。
そんな矢先に信長を評価していた味方の美濃の斉藤道三が、息子の義龍との長良川合戦で華々しく散る。
道三救援に赴く信長だったが途中で、道三討ち死にを知り虚しく兵を尾張に戻す。
弘治2年(1556)6月上旬。
末森城の織田信行は、今が好機到来とばかりに打倒信長の兵を挙げた。
「蝮を失いさぞかし気落ちしている今こそが天佑神助よ、うつけを亡きものにして織田を俺が率いる」
信行がそう言ってほくそ笑む。
配下の柴田勝家・林秀貞と美作兄弟・信行側近の津々木蔵人が、賛同した。
絵図を見ながら柴田勝家が作戦を披露した。
「まずは奴の直轄領である篠木三郷(春日井市)を我々が奪い、庄内川の際に砦を築き川の東方を支配下に置くつもりと、うつけを疑心暗鬼にさせて、清州城から打って出たところを、若様の異母兄の信広様がすかさず清州城に入り占拠してしまいますと、どうなるか?」
そこまで言うと柴田勝家がニヤリと不敵な笑みを浮かべる。
意図を察した林秀貞が膝を叩いた。
「なるほど帰る城を無くし、慌てふためく信長を東西から挟み撃ちというわけか、さすが権六よ」
「若様、よろしゅうございますな」
津々木蔵人が膝を進めて、信行に迫ると信行は簡単に頷く。
「ならばその方らに全て任せる。見事にうつけの首を挙げてまいれ」
「ははっ」一同はひれ伏して、密談は終わった。
津々木蔵人は職務を終えてから城を出て、役宅を目指した。
「今もどったぞ」
引き戸を開けて三和土に腰を下ろす蔵人に、妻のお栄が出迎える。
「お食事になさいます、それとも風呂ですか、それとも」
艷やかに微笑む女房の顔を直視した蔵人に、電気が走り抜ける衝撃が襲った。
「洗いざらい喋りますか?」と妻が朗らかな声を蔵人にかけたので、つい蔵人は頷いてしまった。
「ああなんだか、今日あった事を細かくお前に言いたくなってきた」
言ってる本人は真面目くさった顔をして、妻に従って座敷に向かう。
「まぁ、では信行様と信広さまが手を組んで、清州城の若様を亡き者にする企みを柴田勝家とか林秀貞が練り上げたんですね」
「そうよ、うつけさえ居なくなれば、尾張は傀儡の信行様を操る傀儡師である俺の物なんだよ」
「最後の最後に本音まで出ましたね、旦那さま」
そう言って嘲笑うお栄の顔が変貌する。
酒をしこたま飲まされぐでんぐでんに酔いしれた蔵人は、動けなくなる。
「貴重な情報をありがとう……清州城にいらっしゃる巫女頭の玲奈様にご報告せねばなりません、その前にお前には本物の生きた傀儡になってもらうよ」
「……お前は……誰だ」
「歩き巫女の1人佳子……たっぷり精を吸わせておくれ」
蔵人の首筋に長い舌を這わせて佳子が、世誰を垂れ流す。
「お前様、この世では二度と味わえ無い魔道巫女の肢体の快楽を貪って逝きなされ」
翌日 しわくちゃに枯れ果てた蔵人と同じく干乾びた女房の死体が、信行の寝室の枕元に、無造作に捨てられていたのを1番に見た信行は恐怖のあまり心臓か止まりかけ、凄まじく絶叫して小便を漏らした。
そのままショックのあまり数日間うなされる日々を送ったという。
清州城の信長は、その様子を佳子から聞いて腹を抱えて爆笑した。
「ああこれは笑えるわい、さぞかし怖ろしかっただろうな、俺でも枕元に干乾びた死体があったら気が狂うわ」
「仕掛けてくる確率が高いのですが、特に柴田勝家とか林秀貞辺りが快気炎を挙げて庄内川の東に砦を築くようです」
「案ずるな玲奈に佳子とやら、奴らにそう簡単に俺が倒せるかよ、俺の力を見せつけ服従させる良い機会がやってきたと思うが良い」
「では一戦交えてしまうつもりですね」
「あぁ」
信長は名塚に砦を築くと、配下の佐久間大学を入れた。
8月23日。
信行方の柴田勝家・林秀貞勢1700が名塚砦を攻めに来たので、信長は700を率いて清州城を出撃して、名塚の南にある稲生で信行勢1700と激闘した。
大将の信長が声を張り上げて、戦場を疾駆して兵を鼓舞した為に全軍一丸で左翼の柴田勝家が切り崩され、続いて魔道巫女の幻惑攻撃に耐えきれずに、右翼の林秀貞兄弟の兵士達がパニックを起こし全軍総崩れになった。
「逃げるな、怯む者は切り捨てる」
鬼柴田の絶叫を無視して兵士達は逃げるのを止めないどころか、錯乱して勝家に斬りかかる兵士が現れた。
林秀貞が髪を振り乱したまま勝家の側にやって来た。
「これでは戦にもならん……引き揚げるしかないぞ、柴田殿」
「クソっ魔女どもが、うつけに味方とは」
世も末だと言いたげに、2人は馬を返し逃げ出した。
乱戦の中から柴田勝家と、林秀貞は辛うじて戦場を離脱出来た。
戦後処理では織田信長は、寛大な処置に留めるに終わらせた。
母親の土田御前が必死に信行の助命嘆願をするので、信長は受け入れざるを得なくなった。
柴田勝家と林秀貞はお咎め無しとなった。
弘治3年(1557) 9月5日
第105代後奈良天皇が崩御して、皇位継承者の正親町天皇が即位したが、即位の礼にかかる費用を捻出する事が出来ず
公家の山科言継に金策が命じられた。
近衛前久「あんさんに頼みがおじゃる。大至急尾張に行って帝の勅と引き換えに金を貰って来てたもれ、こないだ来た越後の長尾景虎はんがくれた金だけでは足りんがな、安芸の毛利元就はんとか出雲の尼子晴久はんにもウチから金の催促しとくさかいな」
山科「しかと承りました、では織田信長さんへの手土産は?」
「そうやな、尾張の支配を委ねると適当に言うとき、それがええわ」
近衛前久は面倒そうに言った。
「三好長慶はケチやから雀の涙しか出さん、あれはあきまへんわ」
「ではさっそく」
尾張に下向した山科言継は清州城で信長と対面して御所の衰亡ぶりを大袈裟に水増しして涙ながらに語り、帝の勅命を恭しく差し出す山科から受け取る信長の目が真剣になる。
「わかりました、では私からは一万貫を寄進致しましょう」
「そないにぎょうさん……さぞ帝も喜ばれましょう」
信長の口から提示された金額に、山科の顔が明るく輝いた。
「尾張はこの織田上総ノ介のモノと帝が認めていただいた事、誠に恐悦至極の至りにございます」
そう言ってから信長が頭を深々と畳に付く寸前まで下げて見せた事に山科は安堵のため息を漏らした。
「いずれ近い将来にお礼を申し上げに御所に参内致すと良きにお伝え下さい」
諸国の有力戦国大名からの献金で滞りなく即位の礼を終えた正親町天皇は、改元に着手する。
弘治4年はたった2ヶ月あまりで、永禄元年(1558)に変わる。
永禄元年3月3日に弟の信行が、信長の娘たちに雛祭りの祝い品を持参して清州城を訪問した。
伊勢海老など海の幸やキノコなど山の幸が山盛りである。
「兄上にお許しいただいた御礼にございます、これからは不心得を詫びて兄上と仲良く致したいと願っております」
そう言いながら信行の目が泳いだのを、玲奈は見逃さなかった。
(こやつ、何か企んだな)
信長が珍しそうに「では、母上と共にいただこうぞ‥さっそく調理させよう」
信行の目が暗い笑みに包まれた。
(食中りでくたばるがよいぞ、うつけ者め)
玲奈が信行の思考を読んで戦慄した。
そっと信長の肩をつついた。
「奥が儂にねだりものがあるらしいゆえ、中座いたす」
「信行めが儂を殺そうとしているのか」
信長は玲奈の言葉に答えて言った。
「まあ、あやつの目つきは普通ではなかったからな…案じるな…俺に秘策がある」
ニヤリと信長が笑って玲奈の耳元で囁いた。
玲奈がニンマリと妖艶な笑顔になり「殿もかなり策士になられましたね」と褒め称えた。
宴の後で信長は食中毒で伏せったと、信行が聞きつけて見舞いに清洲城に来た。
こんもりと盛り上がった布団に、太刀を差した状態で固まる信行めがけて屏風に潜んでいた池田恒興が斬りつけた。
後から現れた信長が哀しげに低い声で、憤りを露わにする。
「兄を騙し討ちとは許せん」
「おのれ、騙したな」
「お前の子どもに罪は無いゆえに命は取らぬ、ただし仇と狙うようなら殺す」
兄として最後の情けをかけるが、信行には通じない。
「弟を騙し討ちにする奴など……」
暴れる信行を見かねて、最後まで言わさない為にトドメは川尻秀隆が刺した。
「お覚悟下され」
やり切れない粛清は終わった。




