吸精魔 歩き巫女玲奈の天下創世記 外伝 川中島の魔術戦
武田信玄と上杉謙信との川中島の合戦に魔道巫女が絡むと、どうなるのか?
さらに、史実無視の大どんでん返しが、待ち受ける。
長編になります。
永禄4年(1561) 8月中頃。
甲斐 躑躅ヶ崎館は、蝉しぐれの真っ只中にあった。
「秋山様、真田様お待ちください」
秋山虎繁と真田信綱(真田昌幸の兄)が、声の主に視線を向けた。
「お前か……たしか勘助とかいうたな」と信綱がさほど関心なさそうに一瞥して言った。
「お館様に取り入って、飛ぶ鳥を落とす勢いの山本勘助が我らに何用か?」
信綱に負けず劣らず、嫌悪感を隠そうとしない秋山が、面倒そうに言った。
「長年の宿敵である長尾景虎が、またまた川中島にやってくるのを聞き、撃退の策略をお館様に、ご披露致したくまかりこしました」
「我らに口添えしろと言うのか?お前の作戦を」
真田信綱が、先回りして言うと勘助が必死の形相で言い募る。
「味方が兵を2つに分けて、別働隊が川中島に布陣する長尾景虎の背後を突いて混乱する長尾兵を、本隊が襲いかかる飛ぶ鳥を落とすいう作戦です」
「すまんがお館様は、今お忙しい時期なんでな、一緒に具申してやりたいが我らも別用で急ぐのだ」
「お前の策は悪くは無いが、敵に見破られて奇襲されたら味方が総崩れになり、御館様の身が危うくなる」と真田信綱が話を打ち切るように、前を向き歩き出す。
信玄の居室にてーー
「まったく昨年に今川義元が尾張の桶狭間の戦いで、織田信長に敗れて家中騒乱の駿河に攻め入る予定が狂ったわい、元凶は、義元の母親の寿桂尼のババァが家中を取り仕切り、混乱に終止符を打ったせいよ」
忌々しそうに信玄が足を踏み鳴らす。
秋山虎繁と真田信綱を前に武田信玄が溜め息混じりに言った。
「ところで話は変わるが、あの長尾景虎の野郎が、相模の小田原城を攻めあぐねて鶴岡八幡宮で、由緒正しき関東管領と上杉の名跡を継いで改名しおったそうだ、上杉輝虎とな」
「わざわざ将軍義輝公の一字を拝領しましたか」
真田信綱が言った。
「信濃守護になった御館様へのイヤミですかな」
渋い顔をして信玄が脇を向いた。
越後 春日山城
「北方の守り神 毘沙門天よ、我が願いを叶えよ……弱者を脅かし、住む土地を奪い、あろうことか父親を追放し自分の叔母が嫁いだ諏訪家を滅ぼしたあげく、その叔母の娘に手を出して子供を産ませた悪しき姦人、武田信玄を成敗せんと欲するものなり」
毘沙門堂に籠もる上杉輝虎は、何かに憑かれた眼で一心不乱に念を送る。
直江景綱が遠慮がちに「御館様、そろそろ皆が揃いました」
念を終えた輝虎が深々と毘沙門天に一礼して座禅を解いて立ち上がる。
「そうか、今より軍議を行なう、甲斐の悪人に正義の鉄槌を食らわす」
直江景綱が畏敬のあまり頭を下げた。
「では参りましょう」
永禄4年8月(1561) 摂津 石山本願寺。
顕如は、下間頼廉から差し出された武田信玄からの書状にざっと目を通してから言った。
「委細承知したと武田殿に返信を頼む」
越後長尾景虎を牽制すべく、北陸の加賀一向一揆門徒を越中まで動かして貰いたいと、武田信玄は正室の三条夫人の末の妹の嫁ぎ先の石山本願寺を動かすことにしたのだ。
ここにも政略結婚の意味が生きてくる。
因みに顕如は僧侶だが、3年前に15才の妻に子供(教如)を産ませている。
世俗権力を利用して教団の維持・拡大の為になら戦国大名と姻戚関係を結ぶ事も厭わない顕如は、後に信長と敵対し手酷い目を見ることになる。
甲斐の躑躅ヶ崎館。
「顕如上人から北陸の門徒をけしかけて越後に進出させると返事が来た、これで長尾景虎め、尻に火が着いておちおちと長対陣すらできなくなる」
控える秋山虎繁に信玄が下知を下す。
「陣ぶれじゃ、兵を集めよ」
そして御旗楯無にひれ伏すと「御旗楯無もご笑覧あれ」と言葉を述べた。
この源義家以来の宝物に誓いを立てると、もう取り消せないしきたりに武田家ではなっている。
招集をかけられた百姓は武具に兵糧を携えて館に集まリだす。
戦国時代の兵士の携帯食料は、3日分で米18合、水三升4500グラム、塩3匁(11キロ)、味噌6匁(22キロ)
それ以上の長滞陣の時は兵糧奉行が纏めて一括管理した。
寝る時用に筵一枚を持ち、武具は自分たちで用意する場合が大半。
足りない時は現地調達という名前の略奪、刈田で補給する。
重宝されたのは芋がら縄。
それ以上の長滞陣の時は兵糧奉行が纏めて一括管理した。
寝る時用に筵一枚を持ち、武具は自分たちで用意する場合が大半。
足りない時は現地調達という名前の略奪、刈田で補給する。
重宝されたのは芋がら縄。
里芋の茎を味噌・酒・鰹節で煮込み乾燥させた物で縄として使える一方でお湯をかければインスタント味噌汁にもなる優れ物である。
兵糧丸とは、米、白玉粉、そば粉、きな粉、スリ胡麻を酒で練り込み天日干しで完成する。
団子型で1日に3個食べれば空腹にならず疲労回復に役立つ。
梅干しは渇きを癒やす為に重宝され、梅干しを見ただけで、唾液がたくさん出る方が良いと言われた。
なかには麹を持ち込み支給米を酒に変えて、飲む強者がいたのであまり米は渡さない大名もいた。
兵士たちの陣中の娯楽は(飲む、打つ、買う)しかない。
(どぶろく)という安酒を飲み、博打の賭けに食料、衣服、武具をかけて、すっからかんになるバカもいた。
どこからか遊女や、歩き巫女が陣中にやってくる。
足軽たちは、こぞって明日終わるかも知れない運命を忘れ、快楽の一時を10文払って女たちから得る。
敵対勢力から差し向けられる歩き巫女と、気づかず味方の情報を漏らす足軽すらいた。
「喜兵衛、いよいよ初陣だなぁ」
兄の真田信綱、昌輝と父親の幸隆が里帰りした昌幸を出迎える。
表裏比興で戦国時代を代表する真田昌幸もこの頃は、未熟な15才の駆け出しの小僧にすぎない。
「はいお館様の本陣で、身辺警護を仰せつかりました」
謙虚に答える昌幸を見て、兄たちと父親が目配せしてニヤついた。
(お前が守るのは数人いる影武者のひとりだと教えなくて良いのか?)
(こやつの驚く顔を見てみたいもんだ)
外様の真田幸隆が、人質兼小姓として甲府に送り出した3男が、今では信玄に認められ武藤の姓をいただく存在になっていることを誇りに思う父親は、照れ隠しのつもりか酒を飲む。
「いずれお前も妻を持つなら、知っておく必要があるな」
意味ありげに信綱が弟に言った。
「こやつにはまだ早いのではないか?」
ニヤついたまま昌輝がいたずらっぽい仕草をした。
「15才で元服した男が、いずれ迎える花嫁と初めて一緒の床で恥をかくは哀れなことだ」
父親が、2人を交互に見てから末っ子に視線を向ける。
「望月千代女の配下の歩き巫女に、年が近い似合いの女がいたな、確かトヨとか言ったかな」
「一番槍つけるのが、歩き巫女とは縁起が良過ぎるぞ」
固くなる昌幸に兄たちが囃す。
「言い交わした女でもいるのか?」
「いいえ、まだです」顔を背ける昌幸。
「俺たちだってな、初めての女は歩き巫女だったんだ、ドンと構えて一戦して男になってこい」
「わかりました、やりましょう」
腹をくくった昌幸がきっぱり言い切ると親子4人は笑い合う。
(その会話全て筒抜けなんだが……)
隣りで白装束を着て控える魔道巫女のトヨが、あきれ果てていた。
(敵将から情報を聞き出せという命令かと思ったが、真田の3男坊の童貞の筆おろしとはな)
尾張にいる巫女頭 玲奈から武田家に潜入して内情を探り、内部攪乱工作を任されたトヨは、実は玲奈の妹として出雲に産まれ育ち、操る魔術は、姉の玲奈に似ているが、僅かに劣る程度だった。
望月千代女に取り入り、武田家の歩き巫女をことごとく配下に置いたトヨは、カチンコチンに固まる昌幸を、抱きほぐしてから昌幸から信玄の容貌を巧みに聞き出すことに成功した。
「童貞は素直で可愛いねえ」
トヨの膨らみ加減抜群の胸に顔を埋めてスヤスヤと眠る昌幸を、トヨはヨシヨシと頭を撫でてやる。
さすがのトヨも影武者の容貌を語られたとは、少しも思わない。
実は昌幸自身も、最近は多忙を極めて、用心深い信玄に直に接していない。
つまり影武者と入れ替わっていてもわからないのだ。
「お前気にいった、出来たら産むからね」
トヨが昌幸をいっそう強く抱きしめる。
8月下旬、甲斐の躑躅ヶ崎館から2万の武田軍が一路川中島を目指して北上すると、越後の上杉景虎も1万八千の兵を率いて春日山城から南下して信濃に入り、善光寺原の近く妻女山に布陣した。
武田軍の退路を断つ形になる。
信玄はそんな上杉軍を横目に海津城に入った。
大河ドラマには演出出来ない戦場の現実は過酷である。
戦場付近では労働力になる男性は、捕らえられた後で甲斐の金鉱山とかで働かされ、人買い商人に高値で買われた。
女性は性欲処理とか下女仕事に使われた。
九州の戦場で捕虜になると、大抵は日本人の人買いからポルトガル奴隷商人に高値で売り払われ、明のマカオ・インドのゴア・フィリピンのルソンとか遥か遠くヨーロッパへ送られた。
どこも似たような状態で、みなが生きる為に必死なのが戦国時代の現実だ。
永禄4年9月9日。北信濃 川中島とは千曲川と犀川に挟まれた平地で、通称を八幡平と呼ぶ。
戦略的に越後勢と、甲斐勢の激突地になりやすくしかも川中島一帯の水田の生産高は信濃随一で、こうした地政学見地からも両軍争奪の格好の条件となっている。
越後の上杉輝虎と武田信玄の因縁は根深く、北信濃に武田信玄が勢力を伸ばし小笠原長時、村上義清を攻めて領土を奪い彼らを越後に走らせ、上杉輝虎に助けを求めさせ出兵の口実を与えたのは、信玄の失策だ。
しかも北信濃の国衆のひとり、高梨政賴は上杉輝虎の祖母の実家で、輝虎の伯母を妻にしていたうえに、輝虎と兄の晴景の家督争いの時は輝虎を擁立してくれた恩義があるので、援助要請を袖にすると従っている国衆がこぞって離反する可能性があり、万難を排しても川中島で武田信玄と戦うしか選択の余地はなかった。
また越後の動員した農兵たちに、乱取り、刈田、人身売買など戦場での稼ぎ場を提供して、作物の収穫時期までの飢えから救う為に、関東や北信濃への出兵は必要不可欠なものだった。
上杉輝虎と直江景綱・柿崎景家は揃って妻女山から海津城を見ていた。
「信玄の手勢は、敵軍に紛れさせた斥候の見立てでは、2万くらいと申しておりました」
「味方も同数の1万8千あまり、どう攻めてやりましょう?」
血気にはやる柿崎景家の言葉に主君が苦笑いを浮かべ諌める。
「猪突猛進だけで勝てるならば苦労はしない」
ふと海津城に視線を戻す輝虎が、見よと声をあげた。
「夕飯ゆえ腹ごしらえですな」
直江が主に言った。
「そのようだ、盛んに炊さんの煙が上がっている」
「では我々も腹ごしらえといきますかな」柿崎が空きっ腹を撫でている。
一方の海津城では、山本勘助と馬場信春が口論していた。
正々堂々と正面攻撃を唱える馬場と、妻女山奇襲を唱える山本勘助の口論は1刻(2時間)を超えて激しく互いを罵り合う場面になりかけたところで信玄が裁定を下した。
「山本が妻女山から敵を追い散らし、下山したところを八幡平で叩き潰す」
山本勘助がわが意を得たりとニヤつく一方で馬場信春は不満を押し隠して裁定に従った。
「長尾輝虎の首を必ずや手土産に戻ります、お館様」
山本勘助が自信満々に答えた。
(今は亡き湖衣姫様、いよいよです)
親の仇の子を孕んでしまったと嘆く諏訪の湖衣姫を、いつも遠目に見ていた勘助は、ある日思わず姫に声をかけて慰めてしまった。
目と目が合った瞬間に山本勘助は己を見失い、湖衣姫の下僕となった。
「我が望みは唯一つ、仇の晴信が死にかけるほどの負け戦に引きずり込み、失意のあまり晴信に死んで欲しい」
姫の口から出る呪いに慄然とする勘助は、何故か儚い姫の美しさに魅了されていた。
「恥ずかしながらそれがしは、童貞にござる」
女を知らない童貞を誑かすことにかけては、自信がある魔道巫女のトヨはそんな勘助の告白をせせら笑いながら、武田家弱体化に利用すべく湖衣姫に化けて誘惑して本人が自覚しない間にマインドコントロールした。
「これは2人の秘密、露見すれば命は無い」
啜り泣きながら、勘助にすがりついてみせるトヨの名演技に勘助はまんまとひっかかる。
(武田家の有力武将や一門衆に影武者も全て始末すれば、大打撃よな)
そうそう信玄に似たような体格の男などいない。
数年間は動けまいとトヨは読んでいた。
「そこにおるは、歩き巫女のトヨではないか?」
いきなり呼びかける声にビクつくトヨが、振り返ると武藤喜兵衛昌幸がいた。
「これは武藤様、ご苦労さまです、実は御館様に内々で報告致したきことがありまして、こちらに参りました」
報告したいことか?なら行って参れと昌幸が、疑念すら持たずに気安く言ったのでトヨは安心した。
味方の歩き巫女に対してもしや敵に内通したかと、昌幸から疑いを持たれるようなヘマなどしないトヨは、適当に切り抜ける。
「トヨ、その……此度の戦が終われば、相手をしてくれんか?」
照れ臭そうに昌幸がトヨに言うので、何かと身構えるトヨはズッコケそうになりながら、かろうじて持ちこたえると返事をする。
「まあ嬉しい、武藤喜兵衛みたいな逞しい武者と、まぐわうなんて女冥利に尽きますわ」
童貞を奪い手懐けた昌幸が、可愛くなったトヨは、本気で言った。
「ところで武藤喜兵衛様はこれからどこへ?」
「あぁ今宵、妻女山の敵に奇襲をかけに行く兄貴の顔を見に行く」
(ふ〜ん、霧に紛れて奇襲攻撃とは大胆な)
巫女頭の玲奈から武田軍に大打撃を与えよと、指令を受けているトヨは昌幸だけは死なすわけにはいかないと考えた。
妻女山 上杉本陣。
「兄様、武田信玄が奇襲部隊をここに差し向けるようですわ」
双子の片割れの魔美が、上杉輝虎に声をかけた。
「地元民に化けての物見、ご苦労だった魔美」
「武田家の山本勘助とかいう ちんばの気取り屋が、明日の朝は霧が出るかと聞いて来たわ」
「ほう、やる気満々だな、どれくらいやってくる」
「1万2千かしらねぇ、残りは平地で待ち伏せみたい」
「ならば先手を打つ陣頭指揮は魔美が取れ、くれぐれも我々が双子だと知られるわけにはいかんからな」
輝虎はそう言うと、酒を飲んでから立ち上がる。
春日山城に向けて、手を合わせる。
「我が力を見せつけて良いよね」
「好きにして良い」
神出鬼没を印象付けたい双子は互いに楽しげに笑いあった。
永禄4年9月10日早暁。
「霧が壁になっているとは何だ?」
理解不能な事態に山本勘助は、斥候に出した足軽を問い詰める。
「ご自分の眼で確かめてくだせえ」
半泣きで訴える足軽を脇にどいて、勘助はツカツカと前に進み、手を前に差し伸べる。
「確かに壁じゃ何ゆえ?」
「勘助、周りは全部霧の壁だ、どうしてくれる」
甘利虎泰が、苛立ちを勘助にぶつけるように胸ぐらを掴む。
「グエッ、わしに言われても……苦しい、離してくれ」
「まさか魔道巫女の仕業では?」
真田信綱がつぶやく。
「話に聞いたことがある、本当にいたか」
軍目付けの秋山虎繁が応じた。
「あぁ尾張の織田信長の所にもいるそうだ、桶狭間の戦いで義元を討ち取ったのも奴らだとうわさで聞く」
「この事態に何か解決策はあるのか?」
秋山虎繁が聞くと真田信綱が、首を振り吐き捨てるように言った。
「我々に魔道巫女への対抗策など無いわ」
永禄4年9月10日早朝(西暦1561年10月20日)
信濃 川中島一帯は濃厚な霧に包まれ、武田信玄軍本隊8千の視界を完全に奪っている。
「無粋な霧じゃ、せっかくの紅葉を隠してしもうた」
武田信玄は床几に腰をおろしたまま、誰に言うでもなくつぶやく。
「まもなく霧も晴れましょう」
小姓の椎名又五郎が言う。
「妻女山の奇襲部隊から吉報も届きましょう、長尾を山から追い出したと」
武藤喜兵衛昌幸が追従する。
「……しかし妙に静かすぎる」
おかしな胸騒ぎを感じて信玄が、顔をしかめる。
「良き霧に恵まれ、敵の目と鼻の先に布陣出来たは、勝利の瑞鳥である」
越後長尾家では、完全に秘匿された存在の長尾景虎の瓜二つの姉である魔美がほくそ笑む。
「車がかりの用意が整いました。姫様」
緊張気味の直江景綱が、声をかけた。
ちらっと妻女山を見やり、まったく動き出す気配が無いことに安堵した魔女が勝利を確信して立ち上がる。
目の前の霧が左右に別れて雲散霧消すると、武田軍が目と鼻の先にいた。
「あれは何だ?」
鶴翼の右翼を務める赤備えの山県昌景が、信じ難い顔を前に向けたまま固まる。
「冗談ではないぞ、奇襲はしくじったか?」
同じく左翼先鋒の馬場信春が目を何度もこする。
「お館様に伝えよ、長尾が目の前にいると」
急を知らせようと駆け出す家来に目もくれず、馬場信春は判断力を失ったように固まる。
「勘助のたわけがぁ〜」本陣に罵声が飛んだ。
信玄が頭を捻り、どう対処すべきが猛烈な勢いで頭を回転させる。
上杉軍が先に仕掛けた。
采配を振るい魔美が叱咤激励する。
「全軍 前へ」
2万あまりの軍団がゆっくり前進を開始した。
それぞれの部隊は最後尾から先頭まで、移動したら他の部隊が全て自隊を通過するまで停止する。
これなら兵に与える披露も少なく、待機中の部隊は敵に対する備えにもなる。
敵を警戒しながらの前進に最適である。
先手の武将は柿崎景家と、村上義清以下の信濃衆である。
上杉への忠誠を誓い、危険な先手に新参の武将を当てるのは、源平争乱の頃から同じだ。
武田軍の左翼を指揮する武田信繁に、柿崎景家と信濃衆が押し寄せた。
信繁は三度までも敵を撃退するが、鉄砲足軽に馬を射殺され、地面に叩きつけられたところを、足軽に首を討たれた。
諸角豊後守、初鹿野伝右衛門、室賀信俊、屋代政国、小山田信有ら名だたる武将が川中島に散っていく。
次々と舞い込む悲報に信玄が顔を青ざめさせる。
「信繁が討たれたか」
弟の戦死に信玄の頬が引きつる。
「おお、戦が始まったか」
甘利虎泰が悲鳴に近い声を張り上げる。
秋山虎繁と真田信綱が顔を見合わせ、勘助を睨み意味ありげに目配せする。
「このままでは味方が負けた後は、我々は攻められて上杉に殲滅されます、術者がいるならば、ここは一か八かの賭けに出ませんか?」
真田信綱が秋山虎繁に秘策を告げた。
「そんな馬鹿なやり方が通じるのか?」
「敵は我々を弱らせる為に、わざと霧の壁を拵え、巧みに勘助を操って誘導しております、ならばこちらから弱るさまを見せつけるしかありませんな」
秋山虎繁が、ため息を吐いた。
「武田家の為に計らう計画を立てつつ、武田家が不利になるように導いてくれた色ボケの奴はどう始末する」
露骨に勘助を指さす態度に真田信綱が呆れる。
「むろん策の失敗を我が死で償ってもらいますとも」
「姫さま、もうまもなく武田信玄は死にますぞ」
ぶつくさと憑かれた目つきで、つぶやく山本勘助は武田家の勝利に貢献するつもりでいる。
「わが子 諏訪四郎を、武田家の家督につかせるのが勝利につながるのです、良いですね勘助」
頭の中に響き渡る今は亡き湖衣姫の美声に酔いしれる勘助を見てトヨがほくそ笑む。
「人の頭は単純明快に操り易いから助かる」
しかし武田家の奇襲部隊を足止めする魔導師を上空から見て、トヨは思わずのけぞる。
「おいおい、まさかの景虎までも私らの仲間かい、そして地上で武田軍を蹴散らしているのは誰かしら?」
地上では、互いに敵味方入り乱れ、阿鼻叫喚の地獄絵図のような戦場となっている。
「武田信玄はともかく、真田兄弟は助けてやらねば」
雇い主を守るのが、歩き巫女の使命感にトヨが従った。
手を翳して地上に向けて赤い閃光を放ち上杉軍を薙ぎ払う。
味方を薙ぎ払う謎の攻撃を目撃した魔美が叫ぶ。
「ちいっ邪魔だてするは誰か?」
魔美が空からの閃光を見て、苛立つ。
「上に一人浮かんで……あいつも仲間か?いやいや敵だ」
魔美が閃光を手のひらから上空に放つが、トヨはスッと瞬間移動して躱す。
魔美の攻撃を躱しつつ、トヨはついでとばかりに、拡大魔力を使い、魔美の周辺の上杉軍を血祭りにしていく。
「うるさいアブを殺っちまうか」
トヨがニヤリとして魔美めがけて、威嚇射撃の閃光を放つ。
間一髪で躱した魔美が騎乗して馬を走らせた。
「武田信玄を打ち取りに行く」
トヨが今度は違う方向を向いて飛翔する。
「妻女山の部隊を解放してやろう」
術者めがけて閃光を放つ。
気づいた術者が術を解いて、躱したが、続けざまに2発目を食らい、地面に落ちる。
霧の壁が溶けるように消えていく。
「よし今だ」
霧の壁消滅に真田信綱と、秋山虎繁以下の武田奇襲部隊が山をかけ下る。
「お館様は討たせん」
立ちはだかる椎名又五郎の首が、飛び散り地面に落ちた。
「武田信玄はどこだ」
馬で武田本陣を蹂躙した魔美が吠える。
はらわたが煮えくり返る魔美は、あえて残されていた信玄の影武者を全て斬り殺した。
すでに鶴翼の陣構えは崩壊し、上杉軍の勝利が目に見えていた。
馬場信春と山県昌景が殿を努め、後方で戦い、信玄を退却させる時間を稼ぐ。
トヨは上空から追討ちをかける上杉軍に幻惑攻撃をしかけ、戦意喪失に追いやった。
そんなトヨを、魔美は苦々しく見送る事にした。
「今のわたしには敵わない……が、いずれ倒してやる」
主要武将をほぼ失い、武田信玄は、真田幸隆の手勢に守られ甲府目指して逃走中だった。
1万の武田奇襲部隊は、上杉との交戦を避けて逃走に入った。
山本勘助は流れ弾に当り、倒れたところを味方の馬に踏みつけられる無様な死に方をした。
無傷は一人もいないと伝えられる第四回の川中島合戦はこうして終わった。
そして上杉軍は勝どきを挙げて、正々堂々と越後に引き揚げるのだった。
そしてトヨは、上杉輝虎と魔美の情報を玲奈に思念波で知らせる。
玲奈からは、そのまま武田家に居座り潜入を続けるようにトヨに伝えた。
トヨはその後も真田昌幸にべったり張り付き、相手を努める日々を過ごすのだった。




