波乱万丈の織田家
天文19年(1550)の現時点において、信長の父親の織田信秀の家系の地位はそれほど高くない。
もともと尾張の守護大名の斯波氏の家老が織田家だ。
ところが戦国時代になり、尾張守護の斯波氏が衰退したので、岩倉の織田伊勢守 清州の織田大和守の2人が尾張を4郡ずつ支配することになった。
清州の織田大和守に仕える奉行の1人が織田信秀だった。
津島や熱田神宮を支配下にて置き、経済的先見性の良さと、抜きん出る軍事力でいつしか尾張を治める武将に成長した。
なかには、信秀の台頭が面白くない反抗的な勢力もいるのも世の常。
清州の織田信友に仕える知恵者の坂井大膳は、武力行使では敵わない信秀を倒す為に苦肉の策を捻り出す。
側室13人を侍らせて、戦に出る度に子を産ませること24人の女の子好きな信秀に対して、熱田神宮の有力な社家の加藤図書の姪の岩室殿16才を新たに側室として差し出させたのだ。
坂井の思惑通りに行けば、初陣以来の長い戦場暮らしの無理が祟り、信秀の肉体は疲労回復しないまま、若い側室を相手に性行為に励ませて老化を早めようという計略だ。
ハニートラップにかかった自覚すらない信秀は、岩室殿のあどけない若さと美しい肉体に溺れ、酒浸りの夜を過ごす日が増えつつあった。
翌年の天文20年(1551)
17歳の岩室温泉が信秀の子供を産んだ。
信秀は嬉しそうに岩室殿を抱き寄せて口を吸い、歓喜をあらわにする。
産まれた赤子を見ながら、信秀は優しい笑みを岩室殿に向けて彼女をいたわり、横に寝させた。
「じゅうぶん体を休めるが良い、またあとで来る」
その頃、若い信長夫婦はというと……。
「おうい玲奈」
信長がうつけファションで庭先から戻って来た。
玲奈がいそいそと三つ指ついて出迎える。
「お帰りなさいませ旦那様」
型破りな信長に慣れた玲奈はいつも通りに反応した。
「今日はまた俺に弟が出来た、これで25人目だぞ」
「新入りの年若い妾が産んだそうですね、大殿のお気に入りとか」
玲奈が膨らんだ腹を見ながら言った。
「次が姫なら名前は決めてあるから安堵いたせ、麦と付ける」
はぁ?面食らって玲奈が絶句していると、信長が簡単に告げた。
「稲も麦も人にとって欠かせない大事な穀物だ、麦は蕎麦とかうどんの材料だろう」
「稲に麦ですか」
かろうじてそれだけ言った玲奈は内心呆れていた。
「次は男子を産みますわ」
「期待している、俺にも孕ます力があるとわかって体内に精力がみなぎっている、三度目の正直というからな」
鷹の目つきで信長が鋭く玲奈を睨みつけて言った。
「平手政秀どのが煩いのでしょう、跡取りが無ければ家が絶えるとか」
「そうだ、しかし普通の女よりはそなたが一番良いと、俺は信じている」
それを聞いて玲奈が、内心ほくそ笑む。
(魔道巫女と交わったら、二度と人間の女なんか抱きたくなくなりますわ)
そう思ってるところに、信長が玲奈の顎に手を当てて、クイッと顔を上げさせてから自分の唇を近づけ、玲奈の唇を吸った。
「今宵も可愛がってやるからな」
「腹のややこが、喜ぶでしょう……ふふっ」
親父はハニートラップ。
息子はマインドコントロール。
自覚が無いだけ幸せと言える。
翌年の天文21年(1552)は波瀾万丈に始まる。
近畿地方では、近江坂本に亡命した将軍足利義輝の保護者である六角定頼が亡くなった。
すかさず京都の三好長慶は、松永久秀を近江に派遣して将軍と和睦交渉に入り、孤立無援の義輝は京都へと復帰した。
天文21年3月3日。
織田家に衝撃が走り、信長の運命が大きく揺さぶられる出来事が発生した。
織田信秀が、側室の岩室殿と合体中に女の腹の上で、亡くなった。
死因は急性心不全と発表された。
信秀の葬儀に現れた信長は香を掴むと、位牌に投げ付け、疾風のように立ち去る。
参列者は放心状態だったという。
玲奈もこれには絶句した。
「心中お察しします旦那様」
初夏の遠州曳馬城後の浜松。
初夏の日差しが降り注ぐなか、16才で尾張中村から出てきた藤吉郎は、針売の行商をして城下町をうろうろしていた。
「この針はただの針やない、唐天竺渡りの特注品で、縫えない生地は無く、鋼すら縫う摩訶不思議な針じゃ」
猿に似た顔で猿の遠吠えに似た大声を張り上げる藤吉郎の前に、二人組の美女が現れた。
「おい猿、さっきからやかましくて買物に集中出来んやろ」
「私らを誰や思うてる?」
「申し訳ありませんが、どちら様の家中の方でしょう?」
二人組の連れと見える老女が二人組を紹介する。
「こちら様は、曳馬城の主である飯尾豊前様のご息女 飯尾満子様と麻沙様でございます。お前如きが気安く話せる身分の方ではないわ」
「へえ!左様ですか?知らぬこととはいえ、御無礼いたしました」
藤吉郎は恐れ入る様子で頭を下げる。
「お主、まことに人か猿か?」
麻沙が不思議そうに藤吉郎の顔を吹き出すのを堪えて、問いかける。
「さよう、この私は日吉大社のお使いである猿の化身であります」
戯けた表情で猿のように頭をかいてみせた。
二人組が爆笑して腹を抱えた。
「なかなか面白い猿じゃ満子姉上」
「針売などしても、満足に食える日もなかろう、ちょうど人手を欲しがっている男がいるゆえ案内してあげましょう」
そう言いつつ藤吉郎を手招くので、藤吉郎は恐縮しながら平身低頭して従者のようについていく。
「初めて会ったばかりの猿にこの厚意とは!いやはやありがたや」
「そうしてやらねば、気が済まない私の悪いクセですわ」
麻沙が、いたずらっぽい笑顔で藤吉郎に言う。
「そうじゃ……ついこのあいだも悪党に襲われていた娘を助けたことがあったの麻沙」
「姉上、見知らぬ人に言うことも無いかと思います」
「人前で誇るほどではありませんわ、あれから美しさが際立ってますわ!貴方」
「はぁ?」
藤吉郎はそんな姉妹のやり取りを聞いていて不審そうに首を傾げるが、本能が理由など聞かない方がよいと、囁くのでやめておいた。
(うーむまさかこの姉妹……魔道を司る吸精鬼では?)
内心そう思われていると気づいていない姉妹は、頭陀寺の松下嘉兵衛の屋敷前に到着して、門番に来訪目的を告げて中に通された。
松下嘉兵衛の前にて、藤吉郎は得意の猿真似を披露して、皮付きの栗を猿らしく食べてみせたため、機転の効く一芸に松下嘉兵衛はすっかり気に入り、下男として雇い入れてくれた。
数年後。
納戸役として、会計を任されてトントン拍子に仕事をこなす藤吉郎に同僚の妬み、僻みに誹謗中傷が藤吉郎を襲った為に、見かねた嘉兵衛が、金をやり、尾張に買い物をしてこいと命じてくれたので、藤吉郎はこれ幸いと尾張に舞い戻り、生駒屋敷に転がり込む。
そしてそこに通う1人の男に気に入られて、仕官がかなうことになる。
さらに数十年後のある日。
「これが織田家の出世頭になられた羽柴秀吉殿の若い頃の話ですね」
玲奈が面白そうに、飯尾満子・麻沙姉妹の話を聞き終わる。
「あの男は笑わせることばかりね!お館さまが気に入られるわけです……墨俣一夜城といい、清州の割り普請といい、台所奉行の時は私達と同じ食事をぬけぬけと毒味と称して、飯のおかわりまで命じていたそうですわ」
信長は遂に独り立ちを余儀なくされるハメに……。
そして人たらしの名人 木下藤吉郎がさっそうと登場します。




