初めて出会った婚約者
その日は朝から屋敷の中がざわざわしていた。令嬢のグレイスは細かな作業などはあるはずがないが、屋敷のひとたちは朝から仕事に大わらわだろう。
パーティー会場の装飾やセッティング、料理の手配や仕込み……パーティーは夜からだが、支度は朝から、いや、もう前々からされていたことだってあるだろう。グレイスはその様子を眺めつつ、思った。
自分はたくさんのひとたちの世話になっている。それは自分がこの家の、アフレイド家の令嬢だからであるに決まっているけれど、そうであれば、自分もその役目を果たすべきなのではないか、と。そういう想いが生まれていた。
フレンが昨日伝えてくれたことから安心できて、自分が不安な気持ちだけではなく、よそに目を向ける余裕ができたからかもしれない。
そうであれば、自分の『役目』はこのアフレイド家の存続なのであった。婿養子を迎えて、子供、できれば世継ぎになる男の子が理想的だが、そういう存在を作って、アフレイド家を存続させていていく。繁栄もさせられればもっと良い。
そうでなければ父や親族が困るだけではなく、今、支度をしてくれている使用人だって路頭に迷ってしまうのだ。
それなら、自分の中にあるひとつの恋なんてしまっておいて、家のために尽くすべきなのだろうか。そうすると決めてしまう気持ちはまだないけれど、選択肢のひとつとしては浮かぶようになっていたのだ。
そして昼頃、父に呼ばれた。まだドレスではないけれど、上等の部類に入る服で支度をしてやってくるように申しつけられていたのでわかっていた。
会うひとがいるのだ、と。
そのとおり。広い客間には既にひとがいた。ソファにゆったりと腰掛けているのは、以前、父に婚約の話をされたときに見せられた釣り書きに載せられていた通りの人物であった。
横にはお付きらしき、かっちりした使用人服を着ているひとたちも控えている。アフレイド家よりも上級のお家の方であることはひと目でわかった。
「娘のグレイスです」
同じようにソファの向かいの自分の席に座っていた父が立ち上がり、グレイスを示してくる。
言うべきことはわかっていたグレイスは、スカートを持ち上げ礼をする。
「グレイス=アフレイドと申します。どうぞお見知りおきを」
グレイスが大人しく、きちんと挨拶をしたことに、父は満足げな顔を浮かべた。
そして次は、ソファに座っていた男性を示した。彼も立ち上がり、姿勢を整え、礼をしてくれる。
「ダージル=オーランジュ様だ。本日はわざわざオーランジュ領よりご足労いただいた」
「お越しくださり、ありがとうございます」
グレイスはもうひとつ礼をしてお礼を口に出す。ダージルという彼は、にこにこ笑っていた。優しそうなひとだ。
「グレイスさんだね。どうぞよろしく」
向こうは伯爵家なのだ、下の立場である男爵家の娘に対してはこのくらいでもじゅうぶん優しい態度といえた。グレイスとてそれを今更気にするほど子供ではない。
「さ、グレイスも座りなさい」
促されて、グレイスは「お邪魔いたします」と、父の隣に置かれていた肘掛け椅子に腰かけた。父はダージルの正面に座っているので、斜めの位置からダージルを見る格好になる。
ダージルは写真の通り、麗しい見た目をしていた。金の巻き毛は綺麗に整えられているし、顔立ちも整っている。先程立ち上がったときを見るに、身長も高いようだ。
着ている服も、お出掛け用くらいである普段着なのだろうが、明らかに手のかかったもの。かっちりとした詰め襟の上着には、金のタッセルや硬質のボタンなど飾りがあちこちに、しかし上品なバランスでついていた。
おまけに、これが一番だが、初めて会うひと相手、しかも下の立場の人間相手なのに、やわらかな微笑を浮かべている。
好印象かどうかはまだ判断がつかないが、少なくとも悪いひとには見えなかった。
グレイスにも紅茶が出されて、会話がはじまった。とはいえ、主に父とダージルが話をしていたので、グレイスはほとんどそれを聞いているだけだった。
たまに話を振られるので、そのときに「ええ」「はい」と肯定するくらい。
そのうち話は本題に入っていく。すなわち、婚約についての話だ。
「このようなかわいらしいお嬢様と婚約など、光栄です」
ダージルはそうまで言ってくれた。父は勿論、恐縮だという言葉を返した。伯爵家の人間にそう言ってもらえるなど勿体ない、と。どうやらグレイスのことは気に入ってくれたようだ。
婚約者、つまり結婚する可能性の高い相手に気に入ってもらえたのは嬉しいし、父に対する面目も立つのだけど、グレイスは微笑を浮かべているしかなかった。
「では、今夜、私から正式に発表ということで」
それで話は済んだ。グレイスは一番に「では、失礼いたします」と深々と礼をして退室した。使用人の開けてくれた扉から廊下に出ても気は抜かなかった。
まだ見られているかもしれないではないか。ダージルにだけではない。ダージルの連れてきた使用人がどこに居るかわからない。きっとたくさん連れてこられただろうから。
使用人といえど客分なのだから大切にもてなされているのだろうけれど、一人で歩いてらっしゃらないとは限らない。グレイスは思った。
つまり、誕生日パーティーが終わるまでは気を抜かずに過ごさねばならないということだ。
しかしそこへ、グレイスにとっての安らぎと喜びがやってきた。
「お疲れ様でした、お嬢様」
「フレン!」
グレイスの顔がぱっと輝く。近付いてきてくれたのはフレンだったのだから。
待機していてくれたのだろう。それは単に従者として当たり前のことだろうに、気疲れしたところであったのでとても嬉しく思ってしまった。
「お部屋で一休み致しましょうか」
「ええ、そうしたいわ」
フレンと連れ立って、自室へ向かって歩きだす。客間で挨拶していたときの緊張が、少しずつほどけていった。
そして自室に入ったときには、はぁっとため息をついてしまった。フレンはそれを見て、くすくすと笑ってくる。
「お気疲れされたでしょう」
グレイスが客間だけではなく、廊下でも気を張っていたことはわかられていたようだ。わからないはずがないが。
「ええ……お客様は明日までお泊まりになるのよね」
いつものやわらかなソファに腰掛けると、フレンが用意していてくれたらしき、お茶の支度の乗ったカートを押してきた。
「はい。明日の昼過ぎにお帰りになられるご予定です」
「それは少し息が詰まるわね」
グレイスの素直過ぎる言葉には苦笑が返ってきたけれど。
「そのような……でも、はい。私たち使用人も同じでしょうね」
でもそのあとには本音が出てきた。よってグレイスも笑ってしまう。
おかしなものだ、婚約者などという相手に会って緊張したし面白くもなかったのに。こうして今は笑えてしまうのは。
「さぁ、お茶でもお飲みになって、ひと息ついてくださいませ」
フレンがお茶を注いでくれた。ふわっとまろやかな香りが漂う。グレイスの好きなミルクティーにしてくれたらしい。
紅茶をミルクで煮出して、少しの砂糖を入れたロイヤルミルクティーは、グレイスが「飲みたい」と指定したとき以外には、特別なときに出してくれるものだ。
「ありがとう。……あたたかいわ」
カップを包み込むと優しい温度が伝わってくる。フレンはこれを準備してからグレイスを迎えに来てくれたので少し冷めていてもおかしくないのだが、フレンの使っているティーポット・カバーは綿がたっぷり詰められていてとても有能なのだ。
花柄のパッチワークで作られたそれは、フレンのお手製。
裁縫が堪能なのだ、フレンは。服などは作れないが、ちょっとした繕い物は即座に直してしまうし、グレイスが幼い頃にはぬいぐるみを作ってくれたこともある。
そんなフレンのお手製カバーに自分の紅茶をほかほかに保っていてもらえたのだと思うと、少しくすぐったい。特別に感じてしまって。
おまけにスイーツまで用意されていた。これは厨房で作られたもののようで、グレイスの馴染みの味であった。ロイヤルミルクティーが濃いからか、スイーツはあっさりしていた。さくさくのクッキー。中に入ったくるみが香ばしく、ミルクティーと良いバランスになっていた。
「十六時頃にメイドが参ります。お支度が終わりましたら私がお迎えに参りますので」
「わかったわ」
そのような段取りもすんなり呑み込めてしまった。十六時まではまだ二時間ほどあった。
なにをしようか、と思ったけれど、なんでも良いだろう。好きなことなら。今日、お勉強やお作法の時間があるはずもないし。
「フレンはそれまでお支度はあるの?」
グレイスの言葉には、はいともいいえともつかぬ返事が返ってきた。
「ええ、そうですね……私の服はもう用意が終わっておりますし、打ち合わせも……一時間前にでも向かえばじゅうぶんですね」
つまり、あと一時間ほどは時間があるということだ。グレイスはある望みを口に出した。ちょっと甘えるような気持ちで。そして今なら聞き入れてもらえると思っていた。
「一時間でいいわ。刺繍に付き合ってほしいの。ちょっと難しいところにきているから」
グレイスの趣味のひとつ。刺繍。裁縫が得意なフレンに最初に手ほどきされたのだけど、今では一人でも楽しむようになっている。グレイスの部屋には、自分で作った刺繍のクロスやクッションなどがいくつかあった。
グレイスがそんなふうにねだった意味はわかってくれたのだろう。フレンは微笑を浮かべた。
「ええ。一時間でよろしいのでしたら」
それからの一時間。グレイスにとってはなにより楽しく、また心安らぐような時間だった。
普段、仕える立場のフレンはグレイスの横に腰かけることなど滅多にないのだけど、なにしろ近くで覗き込んで教えてくれるためなのだ。「失礼して」と隣に座ってくれる。
その近い距離で、一緒に楽しいことをする。それが一番の幸せだと、フレンに見守られながら布に綺麗な糸をくぐらせていくグレイスは噛みしめていた。