聞きたくなかった
誕生日パーティーの少し前であった。グレイスがフレンとパーティー中の行動の打ち合わせをしたのは。
今日は試着のドレスではなく、普段着の小花柄のワンピースを着ていたけれど、なんとなくあのドレスがまとわりついている気がした。ほかの男性との婚約をされる象徴のように感じてしまったドレス。
「領主様のご挨拶のあとは、乾杯……そしてご親族へのご挨拶から……」
革張りの上等なノートカバーをかけた計画表をフレンが読み上げ、説明してくれる。
フレンも普段着。いつもどおりの黒のかっちりした燕尾になっている服を着ていた。
でもパーティーとなればもう少し格式のある礼装をして、グレイスの横に立ってくれる。
……今まで通りフレンがエスコートしてくれるのだろうか。今までは従者としてでも自分をエスコートしてくれる、そんなことだけが嬉しかったのに。
これからは別の男性、つまり夫となる男性にエスコートされることになるのだろうか。今回はただの婚約だからそれはないかもしれない。けれど今後のことを思うと。想像だけでも既に心に陰りが生まれそうだった。
「……お嬢様? 聞いておられますか?」
フレンが計画を話すのを中断してグレイスに尋ねてきて、グレイスはやっと、はっとした。
聞いていなかった、と思う。けれど正直に言うのはためらわれた。
「聞いてたわ」と言うけれど、それは通用しなかった。
「上の空のお顔をされていましたよ」
ちょっと目をすがめて言われてしまう。グレイスは黙るしかなかった。幼い頃から見られているだけある。言い訳をするときの様子などお見通しということだ。
「体調でも優れませんか?」
けれどフレンが言ったのはそれだった。叱ってもいいのに、グレイスのことを心配してくれる言葉。
体調が悪いわけではない。体調は悪くはないけれど……。悪いのは、心の調子が、だ。
グレイスはごくりと喉を鳴らした。計画はまだ読み上げられている途中で、一応、まだ婚約云々の話題までいっていないことだけはわかる。
それを聞いてしまうのだろうか。決定打をほかならぬフレン本人から。
聞きたくない、と思う。
きっと「おめでとうございます」と言われてしまうから。そんなこと言われたくないのに。
けれど向こうから言われるより、こちらのほうがずっとましな気がする。よって、震えるくちびるを思い切って開く。
「フレン、パーティーのことなのだけど」
切り出したグレイス。体調が悪いかと質問したのにグレイスの返事は「ええ」でも「そんなことはないわ」でもなかったからか、フレンの目がちょっときょとんとした。
普段はきっちりしているフレンがこういう目をするとなんだかかわいらしい。そういうところが好きなのだ。と、余計な思考が入りこんだけれど、グレイスはそれを脇へ追いやる。
「はい。なにか、ご質問がありましたでしょうか」
しかしフレンの言ったことは、それ。フレンから言わせたくないと思ったのに、それで自分から切り出したというのに、グレイスは面白くなくなってしまう。
「お父様から……お話があるのではないかしら」
グレイスの言ったことに、フレンは黙った。数秒、沈黙が落ちる。
フレンの表情は変わらなかったけれど、グレイスは悟った。フレンにはもう伝わっているのだ。グレイスの婚約と、その発表がある件は。
当たり前じゃない。従者が知っていないなどお話にならないわ。パーティーの進行に関わるのだから。
冷静な自分が、頭の中でそう言った。
けれど本音は違っていた。
「なんのことですか?」と言ってほしかった。知らないでいてほしかった。
知られていたら、本当のことになってしまいそうだったから。
そこでまた冷静な自分が言う。
本当のことになりそうなんて。もうとっくに本当のことになっているのよ。
本音と理性と。ふたつが混ざり合って、それは非常に気持ちの悪いものだった。
「……そうですね。大切なお話が。その段取りをこれから」
フレンは微笑んだ。その笑みはグレイスの心に突き刺さる。ここまで父に婚約の話をされたときから衝撃を感じていたとはいえここまではっきりとショックといえるものは初めてだった。
「言ったらいいじゃない。……婚約のお話だって」
今度の言葉。嫌味のようになってしまった。ショックを無理に呑み込んだらこうなってしまったのだ。おまけに表情だって硬いだろう。
けれどこれ以上の取り繕いは今のグレイスにはできなかった。
こんな言葉、口に出したくなかった。自分の手で『本当のこと』にしたようなものだ。そう望んで、したとはいえ。
グレイスの言葉を、表情を、フレンはどう取ったのか。困ったように、また微笑を浮かべたのだった。
「その通りですね。おめでとうございます」
そう言われると思ってはいたし、自分がそう言われてどう感じるかもわかっていた。しかしどうしようもなく胸に突き刺さる。
お祝いの言葉など、このひとからだけはもらいたくなかった、と思う。でもそんなこと、言えるものか。
別に言ってもいいと思う。「気が進まないの」とか、そのくらいは。
そのくらいなら「相手が気に入らないのだ」と思われるだけだろう。
けれど、その中に入っている本音……フレンという想い人がいるから……というものがある限り、そんなことすら言えなくなってしまう。
それを読み取ったように、フレンのほうから口に出した。
「お気が乗られない、ですか?」
またしても言われたくない言葉であった。これでは、そうとも違うとも言えないではないか。グレイスは黙ってしまう。
フレンはやはり困ったような顔をする。沈黙がその場に落ちた。
「……突然のお話ですからね」
フレンが口に出した、その言葉はグレイスに寄り沿うもので。今度は、かっと胸が熱くなった。
かばうように言われて嬉しいだとか、この話を受け入れられていない自分が恥ずかしいだとか、あるいはそれを知られてしまって嫌だとか。違う意味の感情なのにどれも妙に熱かった。
「本当にそうね! ……ちょっと出てくるわ」
それが『庭に出てくる』という意味なのは、フレンはよくわかっている。けれどそれは「はい」とは受け入れられなかった。なにしろ話、しかも大事な話の途中なのだ。
「お嬢様、まだ終わっておりませんよ」
慌てたように言われたけれど、グレイスは立ち上がって、フレンを見た。まるで睨みつけるような目をしてしまったのを自覚する。
フレンの翠の瞳は静かだった。いつもの、優しい色をしている。
なのに同じ色の自分の瞳は随分、醜いことだろう。こんな目も顔もしたくないのに。させてきている婚約の話が憎くてならない。
「どうせなにかお話があるときと同じなのでしょう。お父様が発表される。お祝いされる。それだけよね」
おまけに言った言葉も刺しかないものになった。
「そんなはずはないでしょう! なにしろ重大な……」
「同じよ、そんなの」
ああ、もう。ここには居たくない。こんな自分を晒していたくない。
グレイスはフレンの制止を無視して扉に手をかけた。開けて外に飛び出す。
「お嬢様!」
うしろから呼ばれたけれど、止まるはずがない。勢いのままに廊下を駆けだした。ふんわりしたワンピースの裾を持ち上げて。
走りながら、涙が滲みそうだった。あんなふうに言うことはなかったのだ。
フレンにだって立場というものがあるし、完全に自分の八つ当たりであったのだから。情けないし、恥ずかしいし、フレンに悪い。
けれど今、顔を合わせて和気あいあいと婚約の話の段取りなんてできるものか。
グレイスはそこまで消化できていなかった。この話についても、自分の心についても。
フレンは追いかけてこなかった。グレイスが裏口から庭へ出て、あずまやのベンチに腰を下ろして、ぽろっと涙が遂に零れても、フレンだけではなく、誰も現れなかったのだ。