その一
死者の国と地上の境界を、光の珠がゆっくりと漂っている。
珠からは楽し気な鼻歌が聴こえて来る。少し前に人間達の間で流行った、明るい恋の歌だ。
光の珠の名はチョウキ。一柱の神である。
彼の仕事は多岐にわたる。大地が恙なく廻っているかを調査すること、業務中の神達を監督し、時に神界と地上の連絡係となること、新しい神候補を見付けること、その他諸々、彼の受け持つ業務は幅広い。神界、死者の国、大地へと、行ったり来たりと日々忙しく過ごしている。ただ鼻歌を歌いながらふらふら散歩をしてるだけに見えたとしても、真面目に仕事中なのだ。決して怠けている訳ではない、おそらく、多分。
突然、珠の移動と鼻歌が止む。彼の視界の隅に、死者の国から大地へと素早く奔る影が映った。
「んー、気のせい……じゃないよね。はぁ、やっぱり、調べないと駄目かな? いや、決して面倒くさいとか、そんなこと思ってないけどね?」
聞く者の居ない言い訳をぶつぶつと呟き、影の行き先を眺めた。
「しょうがないなぁ。死者の国から逃げ出す困ったちゃんは、どんな子かな?」
チョウキは、ゆっくりと高度を下げた。
神界の湖の畔で、少年と美しい女神が湖面を見詰めている。暖かな湖畔は穏やかな光に包まれ、時折吹く風は花や樹の香りを含み、彼らの全身を優しく撫でる。左手首に巻かれた青い布以外、髪の毛から身に纏った服まで真っ黒な少年と、純白の衣装に身を包む金色の髪の女神は、互いを引き立てあう色彩で、一枚の絵画を思わせた。
ここは女神のお気に入りの場所で、彼女は、休日の大半をここで過ごしていた。私が生まれた場所に少し似ているのよと、懐かしそうに話しながら、まだ神界に来たばかりだった少年にこの場所を教えたのは、もう大分前のことになる。それから時折、この湖で女神と少年や大きな黒犬が連れ立っている姿が見受けられるようになった。
久しぶりに長目の休暇を取れた女神は、いつも通りこの湖でのんびり過ごすことに決めていた。そしてこの日も、彼女の傍らには、少年の姿があった。
「どうかしら、クウガ? 水の感覚は掴めたかしら?」
両手を揃え湖に翳している少年に、女神が優しく問いかけた。女神の左手は少年の手にそっと重ねられ、湖面に浮かぶ氷塊が、彼等の腕に光の反射で揺らめく模様を描き出す。
クウガと呼ばれた少年は、常ならば利発に輝く青い瞳を申し訳なさそうに伏せ、それでも礼儀正しく礼を述べた。
「丁寧に教えて下さって、ありがとうございます。マイア様、お疲れじゃありませんか? 折角の休日を邪魔してしまって、申し訳ありません」
浅黒い肌に精悍な顔立ちをした少年は、百年近く前まで普通の人間として生きていた。だが、ほんの十数年という、人間としては短い生を終え幽霊として彷徨い、あることを切っ掛けに、神候補として神界で修業中の身になった。その時出会った女神のマイアは、今でも彼を弟の様に可愛がっている。
神として一人前……いや、一神前と認められる為には、幾つもの試験に合格する必要がある。試験と呼んではいるが、本来の意味は、神界と契約を結ぶ為の手順である。神としての行動理念や力の使い方等を少しづつ学び、全ての試験に合格すると、初級免許が発行され、一神前として扱われるようになる。休息中の大神様の代理として働くという契約を、神界と神、双方が了承したという証であり、力の使用も一部許可される。
クウガは、座学は中々の優等生らしく、今迄の筆記試験は高得点で合格しているのだと、マイアと仲の良い試験監督が教えてくれた。
そのクウガが、主に実技試験の後に、こっそり溜息をついていることがあることがあった。口には出さないが、実技には苦手意識があるのかもしれない。少年の自尊心を徒に傷つけたくないマイアは、実技試験の結果を聞いたことはなかったが、弟分を放っておけず、「予習復習」を名目に、休日に実技を教えることにしたのだ。
力の流れや使い方を教えるには、やはり言葉だけでは難しく、湖に浮かんでいる氷は、クウガの身体にマイアの力を通し、凍らせてみせたものだ。クウガに解り易いようにと、普段なら無意識に使う力を強く意識しながらなせいだろうか、これが思いの外疲れるのだ。
だが、それをおくびにも出さずマイアは微笑んだ。
「気遣いしてくれてありがとう。でも、大丈夫よ。これ位で疲れたりしないわ。少し休んだら、もう一度やってみましょう。水を操るのは私の得手だけれど、それだけじゃないわ。水は、因果の解り易い教材よ。操れて損はないわ」
突然、クウガの胸の辺りから若い男の声がした。
〈尻尾の付け根に意識を向けるといいぞ〉
「教えてくれてありがとうな、フウガ。でも、残念ながら、俺には尻尾が無いんだよ」
声の主の名はフウガ。今は姿が見えないが、大きな黒犬である。
クウガとフウガは、互いに大事な相棒であり、文字通り共に修行中である……彼等は、魂の一部が癒着している為、一つの身体を共有している。尤も、半人前とはいえ神に近い身に、実体としての身体がある訳ではないのだが。
〈尻尾が無いと、急に方向転換したい時なんかに不便じゃないか? ニンゲンにもあればいいのにな〉
「そしたら、下着が着辛いだろ」
〈着なければいいじゃないか〉
「それは、人としてちょっと許されないかもしれないな」
〈大丈夫だ、俺は元々着てない。それに、ニンゲンじゃなくてカミサマになるんだろ〉
「神様だったら、もっと許されないんじゃないか?」
果てしなく脱線していく彼等に、マイアは容赦なく割り込む。
「下世話な話は置いておいて、貴方達、どの姿で過ごすかを、どうやって決めているの? そもそも、普段はどうやって入れ替わっているの?」
マイアは、首を傾げた。途端に、クウガの姿が消え大きな黒犬が姿を現す。
「何となく相談して、何となく決めてる。で、こんな風に俺が尻尾に力を入れると、入れ替わるんだ。この姿になる時も同じだ」
そう言うと、黒犬の金色の瞳が煌めき、再び姿が揺らぐ。
マイアの目の前には、浅黒い肌に金色の瞳を持つ、精悍な面立ちの青年が立っていた。その風貌は、瞳の色こそ違えど、少年期を終えたクウガを思わせた。
「フウガの身体操作が優先されているのかしら。実際には人間に尻尾はないのに、どこに力を込めているのかは謎ね。貴方達、身体の感覚は共有してはいないの? 態々相談して姿を決めているってことは、お互いの考えや感情が筒抜けってこともないのでしょ? それに、例えば、犬の姿の時に意識が表層に出ているのはフウガでしょ? 犬の姿のまま、クウガが表層に出ることは出来ないの?」
マイアの疑問に、青年は腕組みをして唸った。
「マイアに言われるまで、考えたことも無かった。やって出来ない事は無いと思うが、慣れた身体じゃないと動かし辛いんじゃないかな。そういや、この身体になってる時は、一番クウガと混ざってる気がするけど、尻尾の感覚はちゃんとあるな。クウガの姿でも尻尾の感覚あるし、確かに不思議だ」
〈俺は、どの姿でも尻尾は解らないよ。確かに感覚は別なのかも。俺は腹減らないけど、フウガは偶に『腹が減った』とか言ってるものな〉
「腹減ったって言うか、なんか物足りない時があるんだ」
〈どの姿をしていても、身体が何かに触れた感覚なんかはお互いあるのに、不思議だな。フウガの気持ちは何となく伝わって来るけど、それはこうなる前からだから、魂の癒着とは関係ないだろうし〉
「それな。俺も、生きてた頃からクウガの気持ちは、何となく解ったもんな」
フウガが強く頷く。
マイアは溜息をついた。
クウガとフウガのように、まったく別の生き物だった魂が一つの身体を共有し、あまつさえ神候補になったのは、神界が創られて以来の椿事なのだ。余程、互いに強い想いがあっただろうことは想像に難くないが、どのように魂と身体を共有しているのかは、マイアは勿論、彼等自身にもよく解らないらしい。
それは、彼等に力の使い方を教えることが、困難であることを意味している。
神は、時として大地を狂わせることも出来る程の大きな力、神力を揮うことが許されている。神候補となった時点で得られる、人間には「奇跡」とも呼ばれるそれは、無免許で揮えば厳しい処罰の対象となる。そもそも、能力の向き不向きの理解、力の制御が出来ない様では仕事にならない。神と言えど、各々得意分野というものもある。それらを正確に把握する為にも、手続きには試験の形が採用されている。
神候補に成りたての頃は、他の神に頼まなければ姿を入れ替える事すら出来なかったクウガとフウガは、程無くして自由に姿を入れ替われる様になった。一度コツを覚えてからは、フウガが意外なほどすんなりと力を使いこなしているのだ。野犬として生きていた頃から身体能力が高く、未だに肉体感覚を失いきっていないことも無関係ではないのではないかと、マイアは推測していた。
また、人間の中には、精霊を感じ、神と言葉を交わせる力を持つ者も少数だが存在する。生まれつきそれを持つ者も居るが、大抵は厳しい修行の末にそれを手に入れる。神の揮う力と比べれば、ごくささやかな能力だが、根本は同じだ。だが、幼くして両親を亡くし、生きていくことに必死だったクウガに、神秘の力を得る修行をする余裕など在ろうはずもなく、興味を持つ暇すら無かっただろう。力の制御が苦手でも当然なのだ。
実は、マイアはそれを幸いだとも考えていた。力を暴走させてしまう危険や、仕事でこき使われる……いや、働き詰めになる位なら、そこそこの仕事をのんびりとこなせる程度の能力があれば、それでいいのではないだろうか、と。
それに、常に実技が必要な部署だけが働き口という訳でもない。クウガの利発さやフウガの懐っこさは、他の神々にも歓迎されている。皆、温かく彼等を見守り、指導してくれるだろう。
「ね、クウガ、貴方の真面目さは長所だと思います。努力を惜しまないのは素晴らしいことよ。でも、貴方達は、二魂で一柱の神になるのでしょう? クウガが座学に長けているなら。実技はフウガに委ねるのもいいかもしれないわね」
マイアの指摘に、フウガがやんわりと自己主張をした。
「俺だって、座学も頑張ってるぞ? この間だって、以前より進歩したって、褒められたぞ」
「この間の試験、フウガの点数は?」
「ごじゅってん」
フウガは得意気に胸を張る。何とも言えない表情のマイアに、クウガが明るく言った。
〈点数、以前の二倍になったんですよ。フウガは、本当に頑張ってます。ただ、単語が覚えられなかったり、言葉の選び方がちょっと独特なだけなんです〉
「意味が解ってれば、言葉なんて覚えてなくても別にいいじゃないか。狩りのやり方を解っていれば、狩りの説明が苦手でも問題ないのと同じだろ?」
〈それ、点数のいい人が言えば格好いいんだけどな。まあ、フウガが本当に努力してるって、俺は誰よりもよく知ってるけど〉
「そんなに褒めるなよ」
照れるフウガに、(褒めて……た、かしら)と、マイアは心の中で呟き、強引に話題を戻した。
「兎に角、仕事をしながら覚えることだってあるでしょうし……」
「ところで、ワンコ君と少年、時間はあるかい? あるよね?」
「そう、私達には時間は沢山あるのだし……って、チョウキ様? いつの間に?」
いつの間にか、彼等の頭上に光の珠がふわふわと浮いていた。
「マイアちゃん、久しぶり。元気だった? 最近、この湖で君達がよく一緒に居るって聞いて来てみたんだ。会えてよかった。君達は相変わらず仲良しだね、良いことだよ、うんうん。で、それはそれとして、ワンコ君達、ちょっと俺と同行して欲しいんだけど、時間あるよね? あ、犬の姿でお願いね」
滔々と喋るチョウキの話の腰を折れる者は、色々な意味で神界にすら殆ど居ない。結果、この強引とも取れる手口で、神だろうが精霊だろうが死者だろうが、大抵の相手は頷く羽目になる。
だが、例外は何処にでもあるものだ。
「そんなに急ぎの用事なのか? 俺達、今、マイアと勉強中なんだ」
〈フウガ、目上の方にそんな言葉遣いしたら駄目だろう。申し訳ありません、チョウキ様。でも、まだ仮免許すら無い俺達に、仕事は出来ない筈ですよね。それに、犬の姿でって、フウガに何をさせるんですか? 危ないことじゃないですよね?〉
マイアは感心した。チョウキの、既に答えが決定しているであろう質問に質問で返せる剛の者が、こんなに身近に居るとは思ってもみなかった。
一方、チョウキも気を悪くするでも無く、寧ろ、彼等との気楽なやり取りを喜んでいる節があった。思いもかけない反応がクセになるんだよねぇ、と、日頃から暇があるとクウガとフウガによく絡んでいるのだ。
「言葉遣いなんて、俺には適当でいいってば。少年は真面目だね。実技の練習だって、しなくても問題無いだろうに。
で、話の続きだけどね、確かにこれは仕事の話でも急ぎの用でもない。というか、出来れば大袈裟にしたくないんだ。今ならまだ、俺以外に気付いてる神は居ない。つまり、仕事として処理する必要はない。君達の友達としてお願いしたいんだよね。駄目?」
フウガが、きょとんとして呟いた。
「え? 友……だ……?」
〈しっ、フウガ、ここは黙って聞いておく場面だ〉
「……うん、俺の心が軽く傷付いたことは、今は置いておくね。
あのね、ワンコ君に確かめて貰いたいことがあるんだ。危ないことではないよ。マイアちゃん、彼等を借りていいかな?」
「私は構いませんが」
クウガも、危険は無いならと納得した様だ。
〈フウガ、チョウキ様には日頃お世話になってるんだ、お供しよう〉
「お世話になってるか? まあ、クウガが良いなら俺も構わない……これでいいか?」
喋り乍ら、青年は犬の姿に変化した。軽く尻尾を揺らし、チョウキとマイアの前に座ると、チョウキがその頭にちょこんと乗った。
「それじゃ、行こう」
「何処に行けばいいんだ?」
「生者の国、地上へ」
頭に光る珠を乗せ、黒犬は走り出した。