悪戯(いたずら)
ある中学校に新任の英語教師が来た。痩せていて、少し神経質そうな。話す声も秋の虫のような、静寂の中でないと聞き取りにくいくらいの大きさ。常に何か、ちょっとおどおどしたような感じもする。教師になってから、それほど経っておらず、どんな生徒にも百戦錬磨の対応を見せるというわけにはいかないようだった。それだけに、まだ慣れない新しい職場は、相当にプレッシャーとなっていた。
彼はこの日、初めてこの学校で授業に望む。彼の緊張を知ってか知らずか、いたずら者の女子生徒が一人、彼に洗礼か先制パンチかしらないが、企んでいた。
「みんな、きいてー!」
彼女が説明したのは次のようなもの。全員、机の右端にペンケースを置き、授業が始まったら、彼女の合図で右最後尾の生徒から順にペンケースを机から落としていく、というのである。その間、笑ったりことばを発したりせず、無言でいること。彼女は、別に暴力的でも無いが、どこかカリスマ性があったのだろう。反対するものも無く、軽い気持ちでみんな賛同してしまった。
英語のI先生が授業の時間どおりに現れた。本当なら教師が言わなければまだざわつきが残っていそうな午後一番の休み明けの授業だったが、このクラスではY子の先導による「本番」が控えているため、みなことばを飲んでヒッソリしていた。I先生は、これを「きちんとしたクラス」と勘違いしたかも知れない。だから、このあとに起こることは予想もしていなかったし、衝撃も大きくなったと思われる。
I先生は、それほど冗舌では無かったから、自己紹介もそこそこに本題である授業に移った。生徒が誰も何も彼に質問しなかったのは、いささか拍子抜けに感じたようだが、やはりそれは「本番」が控えていたからである。
I先生は、教科書を開かせ、まず誰かに読んでもらうことにしたようだ。彼は座席表を見て、適当に一人を指名して読むように指示した。指名された生徒が立ち上がり、英語の教科書を持って読み始めると、少ししてY子の不自然なせきばらいがひとつ聞こえ、2秒ほどでそれは始まった。
『ガシャン』……『ガシャン』……『カタン』……『バサッ』
ペンケースと言っても、もちろん全員同じ材質のものでは無いし中身も違うから、落ちたときの音も同じでは無い。2,3秒おきに、その音は続き、初めのうちはおかしく思わなかったI先生も、途中で不自然さに気づき、目で追い始め、そのうちに、何か悪戯をしているようだと気づいたのかも知れない、教壇のところに戻って黙って、さっき指名した生徒の教科書の音読を聞きながら同時に、ペンケースの落下音も聞き取っていた。そして、許可書を読むのは終わり、その生徒が座っても、ペンケースの落下はまだ続いていた。I先生は何も言わず、やっている生徒のほうも順番に従って黙々と『ガシャン』とやっていく。とうとう最前列の生徒に順番が回り、右から左へ一人ずつペンケースが落ちてゆく。それをI先生は黙って目で追っている。何も言わないが体は反応しているようだ。手が震えている。顔もこわばり、青ざめてきたようだ。きっと、誰が見ても様子が変だと思ったに違いない。最後の一人がペンケースを落とし、少し間を空けて、
「ヒュ~」とかなんとか、なんと言っているか分からない奇声を上げてY子が笑いながら拍手をした。すると一斉にほかの生徒も続いた。完璧な「本番」だった。I先生は、そのとき最初に声を発したY子を見、そしてクラス全体をサッと見渡すと、手に持っていた教科書を閉じ、ほかに持ってきたノートやら参考資料やらと重ねると、それを持って何も言わずに教室を出て行った。そして、学校で彼を見かけることは無くなった。
一ヶ月ほどして、I先生の代わりに臨時の先生が来ることになった。その先生が授業に来たとき、Y子はI先生がどうしたか質問した。
「ああ。僕は全く面識がないのでよく知らないけれど、体調を崩して退職されて、最近、亡くなったと聞きました。原因とかはわからないよ」
教室は騒然とした。あの日以来、I先生のことはほぼ禁句になっていたが、この話を聞いてから全く誰も話さなくなった。
半年ほど経った。
Y子は、痩せて、見る影も亡いほどやつれた。顔色も悪い。彼女がいるクラス全体も、常に思い雰囲気があった。何がそうさせたのか、もちろん全員が分かっている。
その日、Y子が廊下に出ると前からI先生が歩いてきた。彼女は駆け寄った。クラスのほかの生徒も気づいてあとに続いた。
「先生。生きていたんですか。亡くなったって聞きました」
I先生はYこをじっと見て、一呼吸置くと、
「そうか、君はあのときの子だね。あのときが初めての授業だったから、君の顔は一度しか見て無くて、だから顔をよく覚えていなくてね。ゴメンね。……僕はちゃんと、こうして生きているよ。体調不良で休職していたんだ。誰かが僕の話に尾ひれをつけて悪い冗談を言ったようだ」
「わたし、ずっと、先生を死なせてしまったって、どうしたら償えるんだろうって……でも、怖くて言い出せなくて、ずっと、ずっと」
「そう。この半年、僕のことで悩んでいたんだね。かわいそうなことをしたね……でも、これで立ち直れるかナ?僕もこうして、半年かかって戻ってこれたんだ。立ち直ったんだ」
「先生。ゴメンなさい」
「もういいんだよ。このことは終わったんだ。ほかの誰にも分からない、僕とキミたちの思い出にしておこう」
二人は涙をこぼしながら手を取り合った。