01幕 ヒロインではなくても
明治初頭、親の勧めで婚約した百合恵と勲の二人の平和な日々が、一人の少女の登場によって乱される。吉田桜と名乗った彼女は婚約者に馴れ馴れしくし、百合恵は不快感を隠しきれない。
ところが数日後よく似たもう一人の吉田桜が現れて…
キーワード:乙女ゲーム 悪役令嬢 日本風 政略結婚
※転生者が電波なのでホラーみたいになってしまいました…ホラーではありません
私の名は池田百合恵。明治の世を華族の淑女として育てられております。
これからは西洋化だというハイカラな父の方針で世間様に先立って西洋文化を取り入れている我が家であります。お家も改装するたびに洋風を取り入れているので現在は和洋折衷の不思議な様子。まだまだ世間様では着物文化の中、私はドレスをたくさん持っておりまして、外出時はその大半をハイカラな出で立ちで過ごしております。本当はお着物が好きなのですけれど、父には逆らえません。
父は大変に厳しく、私には家の名に恥じない立派なレディになるようにと常日頃からよく言われてします。教育もそのように十分に行う、と聞いたとき幼少期の私はとても張り切っていました。
初めて袴を制服になさった見事な薔薇と先進的な教育が話題の女学校に入りたかったのですが、父は前を行く妻を許しません。所謂技芸学校に入学が決まりまして些か不満ではありました。
けれど学校は大変楽しく有意義な毎日です。入ってみればなんの不満もなく、お友達の会話も新鮮で楽しいもの。こうしていつかどなたかに精一杯愛情を込めてお仕えするのだと、お友達と話して頬を染めたりも致しました。
さて、女学校というのは卒業するためにあるのではありません。一般的には在学中に見初められて寿で退学するのが一般的かつ善しとされます。
幸いにも見た目も普通、成績も普通な私。例に漏れず私もきっとそうなるのだろうと思っておりました。ですが学校に入って中々お声もかからず、お友達と過ごすうちに学ぶことがたくさんありました。縁談を申し込んでいただいても、私が悪ければ恥をかくだけ。気付いたが善し、これからの人生でなんとか直して行きたいと思います。父譲りで勝ち気で癇癪持ちなのが反省点ではありますが、性格というのは中々直せず取り繕えるものではありませんものね。自制心との勝負ですわ。
そうして幸せに過ごす私が十五歳の春、運命は動き出したのです。
柔らかな陽射しが眠気を誘う午後、与えられました和裁の課題を膝に私は船をこいでおりました。ゆらゆらと揺れる意識の向こう側から誰かの呼ぶ声が聞こえます。
「百合恵ッ」
「わっ。お父様」
「針を持ったままうたた寝などしてからに、危な……だらしないだろう! ばかものめ!」
「すみません。お父様」
「全く。話があって来てみればお前というやつは……」
ここから十分はお説教が止まりません。常々のことですが、こうしているうちに本題を忘れてしまうこともあるほど、父のお説教は長いのです。
殊勝な態度で説かれていると段々お話がそれていきます。ひとしきりお話しになって満足して部屋を出て行かれるご様子。
あら、大変、今日は御用があったのですよね?
「お父様、ご用件をまだうかがっておりません」
呼び止めると気まずそうに振り向きます。多分忘れていたことをごまかそうとしていますわ。
「今からだ! ついてこい!」
私はただ従います。小さい頃は怖かったですけれど、もうこの調子にも慣れました。
洋室に移動しますと父は一人掛けの立派なソファに座り、私にも正面のソファを薦めます。世洋式のズボンとやらは脚を組むのに便利なのでしょうか。父は居ずまいが悪いときに腕や脚を組みます。今は脚。
今日の私は和装、着慣れた小紋を着ております。この小紋でこのソファに座る時はきちんと足を揃えないとソファの布と噛みあって後ろがシワになります。難しいんですの。最近はウールも着るようになりましたけれどやはり絹が一番。暖かく涼しくのお着物が好きです。柄行きも控えめな……なんて考えていると父が口を開きます。
「百合恵、お前の婚約が決まった」
あら。なんですって?
「相手は軍人だ。些か年上だが善かろう」
聞き間違いかと思ってましたが本当ですのね。
頭が真っ白になります。婚約。それも年上の軍人。ハイカラなものを好む父です。てっきり商家にと思っておりました。
――軍人。
口の中で何度も繰り返します。正直、あまりいいお話ではありません。嫁ぎ先としては不人気。
「聞いているな? 婚約者殿とは来月顔合わせがある」
えっ?
「顔合わせ? お父様それは決まりなのですか?」
「無論だ。向こうの母親からの申し出でご本人も承諾済みだ。粗相のないように」
あまりの急展開に頭が追い付きません。ですがもう決まりなのです。
女学校で見初められ、親の判断で嫁ぐ。
余程のことがなければ大体決まりです。
時代の流れですが、そういうものです。
そうして引き合わされた婚約者の男性はたいそう素敵な方でいらっしゃいました。鼻筋の通った凛々しいお顔に綺麗に整えられた髪、思わず息を呑むような逞しい身体。父も剣の心得がありますがそれとは違う、もっと分厚い立派な体躯です。
お話している最中は始終真面目な顔で笑顔などあるのかと思うほどの硬さ。しかしふとした瞬間に見せて下さった笑い顔がとても優しくて、余りの事に見惚れてしまう程でした。話し方も穏やかで、このような麗しい男性がいらっしゃるのかと夢のよう。ご職業がなんであれ世間の評判より何より目の前のご本人様が一番でいらっしゃる。
この日ご一緒出来たのはたった数時間でしたけど、すっかり好きになってしまいました。はしたない事だとは承知しておりますが、何しろとても素敵なのですもの。
次のお約束が楽しみです。
婚約者の方は伊藤勲さんと仰います。初めて会ったときは凛々しいお方だと思ったのですがあれは緊張していたから。父のような厳格なタイプなのかと思っていましたが仕事と家は別のようです。普段の彼はその笑顔の通り、柔和でとても優しい方なのだと気付きました。
優しく私の名を呼ぶあの人を見て、そんなところも素敵だと思います。ただ、優しすぎてこれで本当に軍でやっていけているかしらと不安になります。
軍人というとなんとなく、屈強、物騒という先入観があるものですから。
それからしばらく、私と勲様はよくお出かけをしました。数回目に気が付いたのですが、勲様はあまりお出かけの希望がありません。いつも私の行きたいところへ連れて行って下さいます。食べ物も、私の好きな物を聞いて下さいます。
でも私は勲様の好きな物を知りません。聞けば教えて下さいますがあれがこれがと進んでは仰られないので知らないまま。そもそも男性にあれこれ好きだと言わせるのもどうなのでしょう。こちらからそんなに質問攻めにするのもはしたないものかと思い憚られます。
初めの頃は大人ぶって大人しく、淑女として過ごしているつもりでした。ですがお出かけしているうちに色々なことがあるものです。どんなに注意していても、心というのはままならない事もあります。
些細な事で子どもじみただだをこねて困らせて見たこともあります。
優しく叱られてしまいました。
だだをこねてそれを元に怒ってみた事もあります。
優しく諭されてしまいました。
ある時ふと、反省しながらもそんな優しさになんとなくこの結婚に興味がないのでは、と思ってしまいました。ただ、勧められた縁談をこなしていらっしゃるだけなのではと思うと悲しくて苦しくて焦ります。
「百合恵さん、今日はどちらへ行きましょうか」
「私、龍雲寺様のアジサイが観たいのですけれど、宜しいですか?」
「勿論」
今日も私のわがままでこの方を少し遠くまでご一緒させることになります。行き先が遠ければそれだけ一緒に居られる、となんとなく子どもじみた考えなのですけど、他に離れた寺までアジサイを共に観に行って下さるお友達もおりませんで、ついつい、わがままを言ってしまいます。
一昨日までの雨で若い葉が洗われ、光を受けてつややかに輝いており道中の緑もとても美しいものでした。お寺のお庭に少しぬかるみがあったようで勲様が足下に気を付けて、と手を差し出して下さいます。
こうした優しさがたまらなく、なんともいえない喜びが胸を満たします。
学校に参りますと、婚約者様とのあれこれを友人に聞かれます。どこに出掛けて何を見た、優しい方だと伝えると友人はみなうらやましそうな顔をします。皆様にも素敵な方が見付かると思いますけれどね。
だってこの中で私が一番、父に似て高慢かつ尊大、男なら亭主関白女なら「かかあ天下」タイプなのにあんな素敵な方とご縁があったのですもの。
少し前まであなたたちだって私がいつか勲様を尻に敷くとかお話をしてましたでしょ。そういうものですわ。
口には出さず、友人の幸せを祈ります。
今日の事も、お友達にお話しましょう。手をつないだことが明るい話題になれば何よりですもの。
そうして、半年後に昇進する予定があるから結婚しませんか、と婚約者に言われ私が二つ返事で頷いたその龍雲寺の幸せな帰り道。
私達の前に一人の少女が倒れ込んできたのです。
「きゃぁ!」
短い悲鳴を上げ、うずくまる少女に彼が駆け寄ります。
「どうされましたか?!」
「あ、いえその、転んだだけです……すみません……」
そういいながら勲様に抱きつくようにして起き上がらせてもらっています。
――まぁ。なんてはしたない。
けれど転んだ拍子に脚を痛めたのかもしれませんし、ここは黙っておきましょう。遠目にも可愛らしい着物に可愛らしい髪型。お顔は平凡ですが雰囲気が優しい女性です。
「お怪我はありませんか?」
「はい、大丈夫です。あの、お礼をしたいのですがお名前を……」
「伊藤と申しますがお礼など結構ですよ、立つのを手伝っただけですから」
「いいえ、私、あなたがいなかったら立てなかったと思います……」
見つめ合っている二人。画になりますわ。まるで彼女の方が恋人のよう。
なんとなく寂しくそこに立っていると、彼は腕に掛けられた彼女の手をそっと離します。
「ご無事なら何よりですので、僕はこれで。大事な人を待たせていますので」
そういってこちらに戻ってこようとします。一瞬、彼女の目がこちらをとらえた気がしますが気のせいでしょうか。
「あの、また会えますか?」
えっ? 何故?
不躾な発言に驚いてしまいましたがその不自然さに彼は気付いていないようです。胸に嫌な気持ちが広がります。
「ご縁があれば」
こちらからはお顔が見えませんが少し笑ったのでしょう。彼女に笑顔が溢れます。
もやもやした気持ちを抱える私の元に戻った彼は、何事もなかったかのように歩き始めます。こちらは折角結婚のお話をいただけて天にも昇る気持ちだったのに、何だか途中で雨雲に邪魔をされた気分です。
次のお休み、勲様がお家にいらして正式に結婚の申し込みをして下さいます。父は大層喜んでおりました。ですが相変わらずわかりにくいもので、女学校の退学時期や新居の場所などを厳しく確認していきます。この口調、私が誰かを詰問するときと同じ……と血を感じます。気を付けませんとね。
その帰り道、馴染みのあんみつ屋におじゃましますと、通りがかった少女に声を掛けられます。
「伊藤様!」
見ればこの前の転んだ女の子です。
「またお会いできましたね! 先日はありがとうございました! 私、吉田桜といいます!」
まるで私が見えていないかのような態度にやはり少し嫌な思いがします。
「やぁ、吉田さんというのですね。こんにちは」
勲様は変わらずに優しい笑顔を向けていらっしゃいます。
確かに事情は違うのですが、私の初対面の時と随分応対が違います。私の時はあんなに緊張して仏頂面でいらしたのに。フンと拗ねるようにあんみつの寒天をつつきます。お行儀が悪いのはわかってます。
「私もあんみつを食べに来たんです。ご一緒してもいいですか?」
ええっ? どうして!
かなり無神経な発言に嫌な気持ちが沸き起こります。
そちらに目をやるとわざとらしく彼女が気が付きます。
「あっ、ごめんなさい、ご一緒の方が……」
視界に入っていないわけがないのに。口元を抑えて謝ってきます。
「うん。すまないけど、大事な人と一緒だから」
「そうですか、すみません。また今度」
その言葉に私の我慢の限界がやってきました。きつい釣り目が益々吊り上がる自覚はあります。
「ちょっと。あなた失礼ではなくて。勲様が素敵で私の姿が見えなかったというのは許せても、女の人と一緒に居る男性に次を誘うなんて、信じられないわ」
そんな当てつけがましい事は一昔前の女性のすることですもの。
「しかも制服を着てらっしゃるのだから勲様の立場はおわかりよね? 彼の行動が疑われるようなことを仰るのはお止しになって下さる?」
お父様と似た口調でぴしゃりと言い払ってから、気が付きます。周りの視線が集まっていて私が一番目立ってしまったことに。
でももう引き返すことはできません。そのまま彼女をきっと見つめます。
「私、そんなつもりじゃ――ごめんなさい!」
そういいながら着物の袖で目尻を押さえながら走り去って行きました。
勲様は席を立ちますが、追い掛けることはなさいませんでした。
――やってしまった。きっと嫌われたわ。
勲様の顔を見ることも出来ず、食べ続けたあんみつは味がしませんでした。
なんとなく居づらくなったあんみつ屋を早々に出て、もう一度、家の門まで送っていただき私達は別れました。
勲様は変わらない笑顔でしたが、私のことを軽蔑なさったのではと思います。笑顔が何も変わらないのも私の胸を締め付けます。親が決めた婚約で私のことに気持ちなどないのでしょうか。私のあんな醜態もどうでも良いのでしょうか。
――まさか、断るつもりでは?
どんどん嫌な方向に気持ちが持って行かれます。
私はその日、泣き疲れて寝てしまいました。
三日後、学校に勲様がお迎えに来て下さいました。こんなに急いでお見えになるなんて、やっぱりお断りされるのかしら。私の心はグラグラと崖ぶちに立たされたように揺れます。
ですがその話には触れず、「美味しいたい焼き屋さんがあるから」と四谷の方へ連れて行かれます。勲様の笑顔は変わりません。たい焼きは私が少し前に好きだとお話したのです。覚えていて下さったのだと、少し胸が温かくなります。
たい焼き屋さんにはわずかですが列が出来ています。
良い匂いに包まれながら並んでいると、何やら見覚えのある少女が人力車に乗って通りがかります。視線に気が付きそれを見遣ると「吉田桜」と名乗った少女によく似た、しかしそれより顔立ちの可憐な子が、私と勲様を見て驚いた顔をしています。少女は普段着の着物でしたけれど、隣の方は上質な背広をお召しになった年上の男性。
通り過ぎる人力車から身を乗り出してまで彼女はこちらを見ていました。
似た方ならいざ知らず、どちらの方にも見覚えがありません。何故驚いた顔をされたのでしょう。勲様に聞いてみようかと思いましたが、彼は見ていなかったようです。それに私も彼女の話はしたくありません。きっと他人の空似だったのだと思い、忘れることにしました。
十分ほど並んで買えたたい焼きを、縁台に座っていただきます。肌寒い事もある六月、すこし熱いくらいのたい焼きがとても美味しく感じます。
「百合恵さんは、尾から食べるのですね」
そう言われて、食べるのを見られていたことに気が付きます。恥ずかしいわ。
「ええ、あの、頭が最後になるとあんこがぎっしりのまま終われて、幸せなんです」
恥ずかしさのあまり、食い気に振り切った回答をしてしまいました。益々恥ずかしい。
けれど勲様が頷いて言います。
「なるほど、僕は単純に頭から渡されるのでそのまま食べていましたが、そういう幸せの方法もありましたね。次はそうしてみます」
とてもまじめな顔で仰るので、思わず吹き出してしまいました。
「勲様はとても凛々しくいらっしゃるのに、たまに面白い事を仰いますよね。意外です」
「変ですか?」
その笑みも余裕に見えます。素敵です。
私は首を横に振ります。
「いいえ、ちっとも。私の方が……その、先日の件でがっかりされませんでしたか?」
先日の件? と不思議そうな顔になった勲様が、思い出したように眉を上げます。
「ああ、あんみつ屋の件ですか。私の為にありがとうございました。不甲斐ないあまり危うく不誠実な軍人になるところでした。ですがあんな小さな娘さんを相手に強く断る事もできませんでしたので助かりましたよ」
その回答は私に安堵をもたらしますが、同時に胸に寂しさが通り抜けます。
もしかして、彼は本当に家同士の婚約だからこうして一緒にいるだけで、その振る舞いを許しただけで、私には気持ちがなく、興味もないのかもしれない。
――たい焼きを覚えていてくれたのも、特に意味はないのかも。
くすぶっていた嫌な気持ちに火がついてなんだかとても悲しくなります。
学校でお友達に最近の事を聞かれますがあまりお話したくありません。だって、なんとなく悲しい気持ちに行き着いてしまうのですもの。
ですがそこはそんな不安げな事ではいけません。余計な事は全部省いて、楽しい事だけ、たい焼きの事も楽しく伝えました。お友達も頬を赤らめて楽しそうに聞いて下さいます。
一番顔を赤くしているお友達にはまだ縁談がなかったはず。お淑やかで可愛らしくてお裁縫も上手で、きっと素敵なお嫁さんになると思うのですが、家柄でしょうか。本人を見ればこんなに良い子ですのに。
不憫というのは失礼ですが、身分というのは不便なものです。
次の休日にはまたお出かけでした。早咲きの蓮があるとの事で、蓮を見に参ります。蓮は朝の内が美しいので朝早くお出かけです。
勲様は心配して下さいましたが、実は我が家は父が朝が早いので、全員とても早起きなんです。ちっとも辛くありません。きっちり準備した髪型とドレスで勲様をお出迎えします。
「おはようございます」
親戚以外の異性にこういうニュアンスでおはよう、ということがないので妙に緊張してしまいます。
いつか勲様と夫婦になったら、毎朝の事になる挨拶。楽しみです。早起きは得意なので私が先に起きてお食事を……などと妄想もはかどります。
ふわふわした気持ちで歩いていると、声をかけられます。
「今日はドレスなのですね。先日初めてお着物姿を拝見しましたが、あちらも素敵でした」
突然の褒め言葉に顔が熱くなります。たい焼きの日は学校の帰りでしたものね。
「あっ……ありがとうございます。私も和装の方が好きなのですけれど、父の意向もありまして、外出時は洋装を取り入れております」
そこでふと、意識が少女の像を浮かび上がらせます。
「あの……洋装はお嫌いですか……?」
彼が優しく見つめた彼女は着物でしたものですから。
不安げな顔になってしまったのでしょうか。優しく微笑みながら彼が言います。
「どちらも好きです。百合恵さんはどちらもお似合いですし、素敵ですよ」
さっきよりも顔が赤くなります。我ながら単純ですね。
「ありがとうございます……」
眩しい笑顔に、消え入りそうな声でお礼を言います。
「今度またお着物姿も見せて下さいね」
このまま勲様の好きな色や着物の柄を聞いてみたい。
そう思って口を開いた瞬間、声をかけられました。
「――あの……」
私たちの目の前に、あの少女、吉田桜とよく似た少女が立っています。遠くから見たら双子かと思う程に似ていて、その目は真っ直ぐに勲さんを見つめています。勲様も彼女をじっと見つめていて、私は胸騒ぎがしてなりません。
「あの、私、あなたにどこかで会ったことがある気がするんです……とても、お世話になったような……覚えていませんか?」
ああ、やはり先日の視線は気のせいじゃなかった。彼女は勲様を知っているのね。呼吸が止まりそうな程、胸が騒ぎます。
「私の思い違いなら申し訳ありませんが、お会いしたことはないと思います」
勲様の優しい声がすぐ隣から聞こえます。
知り合いではないの? では一体どうして?
「……本当ですか?」
「ええ、あなたに少し似た人にはお会いしたことがありますが、あなたとは初めてです。どなたかとお間違えだと思いますよ。私はお礼を言われるような事は何も」
勲様の声はずっと優しい。人違いという言葉に安堵はするけれどお顔を見たくありません。きっと優しく笑っているでしょうから。
近寄ってきた彼女が何か話しているのが聞こえますが、聞きたくありません。
「でも私――」
そっと勲様の袖を引っ張ります。
「すみません、お嬢さん。少し急いでおりますので宜しいでしょうか。お世話になった方と間違われてはその方にも申し訳がないですから。失礼しますね」
そういうと勲様は私の背中に手を添えて、彼女の横を通り過ぎます。
「――どうして……? だって勲は……」
彼女が漏らしたつぶやきに、ちらりと彼の名前が聞こえます。
――名前を呼び捨てにするなんて!
カッと頭が熱くなりますが、背中に添えられた彼の手は、立ち止まることを許しません。勲様には聞こえていないようですし、小さなつぶやきは私の気のせいかもしれません。怒鳴りつけたい熱を抑えてそのまま過ぎようとした時、投げつけられた彼女の言葉が、まるで冷水のように私の身体を冷やしていきます。
「あの、私、吉田桜と言います! またお会いしましょう!」
びくりと体を震わせた私の肩に勲様の手が移ります。怯えながら見上げたその顔には一切の感情がありませんでした。
蓮池には予想よりたくさんの蓮が咲いておりそれは見事でした。先程の嫌な気持ちが空に溶けていくようです。
「早咲きと聞いていたのでまばらなのを想像したのですが、思ったよりたくさん咲いていて、とっても素敵ですね」
淡い蓮の色合いに思わずこちらも淡い笑顔になります。勲様も嬉しそう。
それからはお釈迦様の蓮の話をして大いに盛り上がりました。小さい頃お父様から「悪いことをすると地獄行きになる」と見せられた恐ろしい絵本の話をしますと、勲様もそれをご存じで二人で思い出を共有しました。四つも離れていると、新しい価値観が知られて楽しいというのもありますが、こうした些細な共通点が見つかると無性に嬉しいものです。
気付けばお昼にはまだ早い時間ですが、蓮池の周りにはお店がありません。食事処を探して歩いても良さそうな頃合いでした。
幸せな気持ちで蓮池を後にします。と、後ろから声をかけられます。
振り向いたそこにいたのは、あんみつの吉田桜でした。今朝の吉田桜とやはりよく似ています。恐ろしい事に着物も同じ――一気に怯えが蘇り、体が硬くなります。
勲様も驚いた様子で彼女を見ています。
「おはようございます! 偶然ですね! あの――」
「勲様、行きましょう」
恐怖で彼女から目が離せません。声は耳を通過するだけ。聞きたくない。不気味で仕方がないわ。
「いや、彼女はあなたに用事のようだよ」
やんわりと私の肩に手を回し、話を聞くように促されてしまいました。
嫌です、聞きたくないんです、それに彼女、あなたしか見ていません。
「先日はすみませんでした。私が全部悪いんです、その、私こういうことに疎いものでお邪魔してしまって……でも私、あの時勲さんに助けていただいてから――」
「止めて! 聞きたくありません! どうしてあなたが勲様のお名前をそんな親しそうに呼ぶの! 今だって謝ってる素振りだけど、勲様の事しか見てないじゃない! そんな風に謝られたって私が惨めなだけだわ!」
わざとらしい困り顔で私に謝っているようでずっと勲様を見つめている。
そんな彼女が勲様の名前を口にしたのが本当に嫌で嫌で嫌で。
気が付いたときには怒鳴り散らしていました。怒りと恐怖と嫉妬でボロボロと涙を流しながら、私は走り出します。
「わ、私そんなつもりじゃ――」
みっともない。
みっともないわ。
後ろから勲様の声が聞こえますが立ち止まれません。こんなみっともない姿、見られたくありません。
泣きながら散々走ったもので、疲れてしまいました。
神社の境内で休んでおりますと隣からハンカチが差し出されます。驚いて見上げますと勲様がいらっしゃいます。息を切らして。きっと探して下さったのです。
なんといってお詫びすればいいのか。あの子はどうしたのか。失礼なのは反省しているけれどあの子に対処するのは私には無理だった。勲様が勧めて下さった事もつらかった。色々な考えが頭を回って何も言えずに俯いてしまいます。
息を整えた勲様が、そっと私の手を取ります。境内にある、小さな縁台に連れて行かれました。
「追いつくのが遅くなってすまない」
いいえ、探して下さったのでしょう。きっと一生懸命走りながら。
「なんとも不思議な日だった。こんな日に例の彼女の言葉を聞こうと勧めた私が不配慮だったんだ。本当に申し訳ない事を……」
いいえ、いいえ、あなたは彼女の誠意を聞こうとしたんでしょう。
感情的になりすぎた私がいけません。
言いたくても、口から言葉が出ません。下手に口を開いたら勲様を詰ってしまいそう。自分で自分のことが思う通りに出来ません。父もきっと、こうしてつらい言葉をお話しになるのね。
また、涙がこぼれます。子どものようね。みっともなくて情けない。
涙でぼやけて見えない勲様がそっとハンカチで目尻を押さえて下さいます。
「ああ、涙のあとがたくさん。本当に済まないことを……あの後、彼女は自分が悪いといいながら泣き出してね。混乱していると言えば言い訳になるが引き止めてきたんだ……正直、あなたに謝罪するなら私を引き止める必要もないだろうに」
聞きたくないわ。あなたは彼女の話を聞いていて遅くなったのでしょう。優しいから、彼女にも慰めの言葉を掛けたのでしょう。聞きたくないわ。
「彼女に腕を引かれ、手間取った隙にあなたを見失ってしまった。彼女の事は振り切って追いかけたんだけれど、驚いた。百合恵さんはとても足が速い」
微笑んでいらっしゃるのか、ぼやけた向こう側の雰囲気が優しいわ。私ってばきっと見られたものじゃない、とても醜い顔をしておりますのに。
「見つけられて本当に良かった。泣かせてしまい済まない」
つないだままの片手が優しく私の指をさすります。
静かな沈黙の後、泣きじゃくりながら私が口を開きます。
「……謝るのは勲様ではありませんでしょう……」
全てはあの女のせい。そしてあの女によって感情的になった私のせい。
「私がいけませんのよ。勲様に馴れ馴れしくした女性と、不躾な方にも優しい勲様にやきもちを焼いて……子どもみたいにみっともなく感情的に怒鳴り散らしたりして……」
でもごめんなさいの一言だけがどうしても言えません。
消え入りそうになる最後の言葉の後、私の涙が全て拭き取られ、変わらず優しい笑顔の勲様が目に入ります。
「……私の言い方、とても嫌な女でしたでしょう。お嫌になりませんか?」
その笑顔に私は思わず一番気にしていたことを口に出してしまいます。
「全く。私の方こそあなたを不安にさせて悲しませてしまった。百合恵さんはまだ十五歳なのだから、子どもらしいとか気にせず、なんでも話してほしい。出会った頃のようにもっとわがままを言ってくれても構わない。彼女たちは知り合いではないし、最低限の軍人の礼儀で以って接しているだけだから安心して」
寂しそうに笑います。
「あなたが自分を責める程、怖い思いをさせてしまってすまなかった。もう私の婚約者で居るのは嫌?」
驚いた私は首をぶんぶんと横に振ります。
「まさか! 勲様のせいではないですし、私……」
勲様をお慕いしています、と言いかけて言えなくて真っ赤になってしまいました。
勲様は安心したように笑って私の頭を撫でます。
「ありがとう。百合恵さんが嫌というまで私は百合恵さんの恋人だ。嫉妬してくれたのは嬉しいけれど、今後誤解のないように努めると約束しよう」
その言葉が嬉しくて恥ずかしくて私は真っ赤になって頷く事しかできませんでした。
再会した勲様が敬語じゃなくなっていたことにもお別れする時まで気が付きませんでした。敬語を忘れる程に一生懸命、お話して下さったのかしらとうぬぼれてしまいそう。
それから数日。勲さんは合宿訓練があるとの事で一週間は会えません。私も丁度学校のお稽古が忙しく慌ただしく過ごしておりました。
ある日、父に頼まれて町へ買い物へ出ました。そこで信じられない人に呼び止められました。
「ちょっと! あんた! 池田百合恵!」
まぁ。穏やかじゃない口調でフルネームだなんてどなた。振り向いたその先には、会いたくない人物、たい焼きの吉田桜。
蓮池の日の恐怖が蘇ります。
同じような雰囲気の同姓同名の二人の女性……どちらも勲様に気がある様子の――そういえばこの方は教えてもいないのに勲様の名前を知っていて、呼び捨てにしていた……。
「あら、どちらさまでしょう? 私に何か御用?」
精一杯の虚勢で普段通りを装ってみましたが少し声が震えた気がします。だって得体の知れない気味の悪い体験が続いております。無理もないでしょう。
彼女はすごい剣幕で私に迫ってきます。
「あんたも転生者なの? 記憶があってあたしの邪魔を?」
転生者? 何のことでしょう?
「あの、仰っている意味がわかりません。私、あなたとは会うのは二度目です。先日は本当に急いでいたので失礼しただけです」
物凄く嫌そうに顔をしかめてじろじろと見られます。もう一人の吉田さんもそうですけれど、本当に無礼な方。
「ふん。大して可愛くもないくせに気取ってやっぱり嫌な女。勲はもったいない。ちょっと聞くけど、龍雲寺のアジサイ、見に行った?」
どうしてそんなことを知っているの。前半の無礼さが気にならないほどの衝撃的な情報に戸惑いを隠せません。
「……行きました。あなた、お顔が違うようだけれどあの時の方なの?」
怪訝そうな顔をします。
「あの時? 残念だけど、あたしはあの日イベントが出来なかった。行ったけどイベントが起きなかったの。けどあんたはあたしに似た誰かを見てる。その誰かがじゃましたのね」
「イベント? イベントとは?」
「ああ、もういいわ。何にも知らないならもういい。言っておくけどヒロインはあたしだもの。素直で可愛いヒロインしか勲には愛されないし勲も幸せになれないの。あんたみたいな高慢ちきには無理。だから幸せになるのはあたし。じゃましないでよね」
ひらひらと手を振り、急いで立ち去って行ってしまいました。
よくわからない言葉と悪意を浴びせられた私の胸に黒い感情を残して。
ふらふらと家路につくともう一人の吉田桜に腕を掴まれました。ひどく怒っているようです。私は恐怖で身が竦む思いです。それは彼女の怒りに対してではなく、怪談よりも恐ろしい同姓同名の少女二人に振り回されている、この状況に。
「この前の蓮池、どういうことよ! なんで勲さんがあんたを追いかけるの!」
「し、知りません……!」
「本当はあの場であんたに怒鳴りつけられた私をかばって、勲さんはあんたを責めるはずなのに!」
はず? どういうこと? さっきの吉田桜と言いこの吉田桜と言い、本当に不気味で仕方がありません。
「私は何もしておりません!……あ、あなた……あなたこそもう一人の……誰かのじゃまをしているの?」
思い出した事があったので勇気を出して聞いてみます。
彼女は怪訝そうな顔をしたあとすぐににやりと笑います。
「……そうね、あなたが幸せになるじゃまをね。言っておくけど、彼と結婚するのはあたしだから。癇癪持ちで可愛げのない西洋かぶれのあんたじゃない。残念ね、百合恵さん」
私の腕をぽいと離すと走り去っていきます。
その後ろ姿を見ながら、思い出しました。今の彼女に勲様の名前を教えたのはあんみつの私。だけど私の名前を教えた記憶はどこにもない。
二人の吉田桜と出会って数日。勲様が会いに来て下さいました。正直あれ以来憂鬱な日が続いておりましたので安心しました。彼女たちに会うのが怖くて、学校からはそそくさと帰ってきておりました。そんなわけでお外ではなく我が家というのも、良かったです。
ところがその日、勲様のお顔は暗く、その発言は私を悲しませました。
暫く距離を置こうと言うのです。
やはりこの前の事で婚約の解消を、と悲しい顔をしておりますと、そうではない、と慌てて理由を話して下さいます。
あの二人の女性が勲様のお家や軍の方にちらちら姿を見せているそうなんです。家も教えた覚えがないのに知っている、軍の周りもウロウロされて対処に困っていると。幸い周囲の方に女性関係の誤解はされていないようです。話しかけられた際にはきっぱりと断っているが聞いてもらえないと勲様も大分参っているご様子。私も先日の事を伝えます。
するとやはり大変暗い様子で、自分と婚約してからこんなことが続いているのだから、あの女性達が収まるまでしばらく距離を置きませんか、と仰るのです。
先日真っ青な顔で帰宅した私の様子を知っている父も、その不気味さに安全のためなら仕方ないと言いたそうなお顔です。でも少し勲様を睨んでおいでです。
まさかとは思いますが勲様の浮気など疑っていらっしゃいませんでしょうね?
部屋に充満する悲しい空気になんだか段々と腹が立ってきます。そもそも先日、二人の女性に相次いで責められてから無性に腹が立っておりました。二人そろって無礼極まりなく、私たちを苦しめる存在。忌々しい。
私、我慢の限界です。
「勲様、そのお話は受けられません。彼女たちの事は不気味ですけれど、これで勲様と離れたりしたら彼女たちの思うつぼ。お側にいた方が安心安全です! あのような無礼な振る舞いに負けたというのも我が家の恥というもの!」
興奮して思わず立ち上がってしまいます。お父様が感動していらっしゃるご様子。
「それに何より、私は勲様をお慕いしております! そんな事は絶対に嫌です!!」
拳を握って熱弁した私は、部屋に反響した自分の大声で我に返りました。
――なんてはしたないことを!
慌てて腰を下ろし、真っ赤になった顔を両手で覆います。父と母の視線が痛い。そうですよね、大声でわがまま交じりの愛の告白だなんてレディらしからぬ行動、許されませんよね。
でも口から出てしまったのですもの! 徐々に熱くなる顔から手が離せません。
少しの沈黙のあと、勲様の漏らした笑い声で場が和みます。
「いえ、すみません。あまりにも可愛らしかったもので」
顔はまだ熱いままですが手を下ろして勲様のお顔を見ます。はにかんでいらっしゃる。
「本当は私から言うべきところを、百合恵さんに先に言われてしまうとは思いませんでした。大人なのに意気地がなくて申し訳ない」
少し頭を下げ、顔を上げた勲様は初めて会った時と同じ、凛々しいお顔です。
「強く美しい百合恵さんをお慕いしております。このような事態がきっかけとなり恐縮ではありますが、百合恵さんがそのように仰って下さるのなら結婚の時期を早めたいのです。百合恵さん、お義父様、お義母様、お許しいただけますでしょうか?」
嬉しさと緊張で私が椅子から滑り落ち、喜びながら怒る父に怒鳴られ、私を抱き起こしてくれる母と勲様の心配そうなお顔。父によく似てきつめの私ですけれど、勲様ははっきり物申せる妻が理想なのですって。癇癪癖は頑張って直しますけれど、嬉しくて泣きそうです。私はきっと幸せになれますわ。あの人達さえ収まってくれればもう完璧に。
それからの日々はあっという間でした。私は先に住まいだけを勲様の住む伊藤家に移し、女学校は手続きの間少し通って退学。
女学校のお友達は皆婚約が決まって一安心。優しいあの子も来年にはお嫁に行くことが決まって張り切っていました。あれだけ色々頑張っていた彼女ですもの。大丈夫ですわ。皆様私との別れを惜しんで下さって、私も少し涙ぐんでしまいました。お友達っていいものです。
慌ただしい日々を終え、久々にゆっくりできる休日。楽しくお出かけをしようと思っていた私たちは、目的地の少し前で物凄い騒動に巻き込まれております。
二人の吉田桜、まるで双子のような彼女たちに迫られ、彼女たちの喧嘩を見せられて呆然と立ち尽くしております。正直な話、二人ともをぎゃふんと言わせようと思うくらいには腹が立っておりました。でもここ最近とっても幸せでしたし、何より鉢合わせしたときの二人を見て興醒めしました。
そして相変わらず二人の言っている意味がわかりません。
「あんた誰よ!」
「私は吉田桜よ」
「何言ってるの、私がヒロインの吉田桜よ!」
「なんですって! あたしが勲に相応しいヒロインよ!」
「ふん、あたしよ! 転んだ時助けられたのは私だもの!」
「あんたその地味な顔で……! 図々しい! あんたが邪魔したからおかしくなってるのね!」
きゃあきゃあと我こそがヒロインだとムキになっているけど、ヒロインって何かしら。あなたがじゃまをしなければってお互いにすごい剣幕で口汚く罵り合ってるわ。
「こんなはずじゃないのに! 全部あんたのせいよ! あんたが偽ヒロインなんかするから、シナリオが発動しないまま、夏になっちゃったじゃない!」
「当たり前でしょ! この世界にこんなにそっくりに生まれて、答えも何も知っているのにヒロイン目指さないバカはいないわ! あんただって本物の証拠あるわけ?!」
公衆の面前でありがながら取っ組み合いのけんかが始まってしまいました。みっともない。
こんなはずじゃないってなにかしら。あの時も彼女は「はず」と言っていたわ。一体何をご存知なのかしら。「ルールを守れ」「百合恵が悪役をやらないから」ってどういうことなのかしら。私なら十分悪い子でしたでしょう。あなたを怒鳴ったり、勲さんを困らせたり。
「今からでも勲さんはあたしの事好きになるわ! あたしがヒロインだもの!」
二人ともボロボロの姿でこちらを睨んで来ます。
あらあら。ちらりと隣の勲さんを見ると私を見て緩く笑います。勲さんに迫り私に凄む二人の女に、勲さんは強い口調で声をかけます。
「済まないがお嬢さん方、妻があなた方をいじめるだとか、私が妻を捨てたり妾を囲うというような、人の家庭を壊すような侮辱はご遠慮いただきたい」
「つま……?」
「百合恵は私の妻だ」
勲さんのその言葉にあんみつの桜は驚いて言葉を失います。
「どうして? だって結婚は冬のはず……」
たい焼きの桜が苦々しい顔で私を睨みつけます。それは元々の結婚の時期です。実は少し前に入籍いたしました。
さっと私の前に出る勲さん。
「何故君たちが結婚の時期を? 先日既に籍を入れたので思い違いだと思うが。妙な噂を立てられては軍にも家にも迷惑がかかる。私と妻どちらの知人でもないのだから弁えていただきたい。これ以上関わるなら警官を呼ぶぞ」
その鋭い視線に何も言い返せない二人の桜。
混乱で頭をいっぱいにしていた私を勲さんが安堵の岸へ運んで下さいます。
野次馬の誰かが呼んだ警官が二人を取り押さえ、勲さんはもう一人の警官に何事か話して私の手を取ります。
「行こう、百合恵」
あとから思い返せば私も一言、言ってやればよかったなと思いました。いえ、はしたない事なんですけれども。
「おかえりなさい、勲さん」
「ただいま、百合恵」
新婚生活もひと月目を迎え、勲さんと呼ぶのにも随分慣れてきました。
お茶を淹れていると、少し思いつめたような声で呼ばれます。
「なんでしょう?」
「その……例の二人の吉田桜なんだが」
聞きたくない名前に手に持った茶筒を落しそうになります。
あのあと勲さんは警官から事情聴取を受けています。あの日は私の立場を考えて、警官にお願いして後からお一人で行って下さったそう。お優しい。
「今日警官から報告があったので一応話しておこうと思って。どちらの供述も『折角乙女ゲームのヒロインに転生したのに』『結婚してしまったらもうおしまい』『もっと早く他のキャラに乗り換えれば良かった』と全く意味不明で、片方は吉田桜という名前でもなかったらしい。『頑張ってなりすましたのに』とかなんとか……どちらも心因性の何かを疑われていてね。女学校に入る予定もあったようだが、遠い親戚の元で療養させる事になったそうだ」
「そうですの……」
「もうここに戻ることはないそうだから安心してくれ」
そう言って私を抱きしめてくれます。あの支離滅裂な言葉は全て理解できずに当然でしたのね。
ええ、素敵な旦那様と一緒なら大丈夫ですもの。
二人でお茶を飲んでいると、事件解決のお祝いにとお土産を出してくれます。
素敵な柘の櫛です。私の好みのデザイン。
「とっても嬉しいです! ありがとうございます! 勲さんの贈り物はいつも素敵で、私の好みにぴったりです」
「良かった。百合恵の事はなんでも知りたくて婚約が決まった頃にたくさん質問したから、知っているつもりだけどそう喜んでもらえると嬉しいよ」
そう言えば随分質問されたわ。少し前の季節の事が大分前のよう。
「今度、私も勲さんにも何か贈らせて下さいませ」
何にしましょう。櫛を下さったりするあたり、和装の方が好きって事はなんとなくわかっているの。あとお茶は濃いめ。お米は少し硬め。金平ごぼうがお好き。好きな色は緑色。猫が好き。それくらいかしら。まだ全然、勲さんの事知らないわ。
「本当かい。いつも軍の支給品や家にあるもので済ませていたんだ。楽しみにしているよ。百合恵の選んだものならなんでも嬉しい」
自分でも直したかった自分の性格。二人の吉田桜にも指摘された欠点。その通り、私は可愛くありません。思ったようにならなくて腹を立てたり、素直になれなくて勝手に拗ねたりします。
でも勲さんは受け止めて下さった。
だから私も努力しますわ。今も立派な大人とはいえませんがあの頃は本当に子どもでした。
目の前のこの大事な人を幸せにする努力もするわ。
「楽しみにしていらしてね」
勲さんは柔らかく微笑みます。
私はあなたたちの言うヒロインではなくても、きっと幸せになれるわ。
勲の猫好きの件は、町中で猫を見かけると勲が可愛いねと褒めるからで、百合恵は釣り目で猫顔です。勲はこっそり釣り目を気にしている百合恵を可愛いと思ってます。因みに軍には犬もいて犬も好きです。
>>次回は中東風です
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