プロローグ
魔法と機械が共存するデミール国。
その中でもとくに技術が発展し、中枢を担う機巧都市ルギアのはずれにある時計塔で事は起きた。
時計塔はもう何年も手入れされておらず、奥にある物置部屋や狭い通路はほこりを被っていた。
物置部屋はとくに荒れ果て、もう使われなくなった道具が散乱していた。所々にある小さな窓から差し込む月明かりが、きらきらと塵を輝かせている。
巨大な歯車や小さい歯車が噛み合い、速く回るもの、ゆっくり回るもの、不規則に回るもの――が、時折ガタンと大きく床を響かせた。
この時計塔は今でも生きている。
管理人は既に去ってしまったものの、今でも主を待つかのように。
時計塔の針が十二時をつげた時――鐘が夜空に鳴り響き、ひときわ大きく床が揺れた。
そしてそれは――深い眠りに堕ちていたものを目覚めさせた。
「――……?」
突然の揺れに目が覚めて、見慣れない場所にとまどった。
狭い上にものが散乱してほこりが積もっているような場所など、それは知りもしない。
ただ窓から見える満月が美しく思えた。懐かしくも思えた。
「…………」
口をひらいても声が出せない。あるいはしゃべり方を忘れたのかもしれない。
「…………」
ぱくぱくと口を動かした。
声がでない。
「…………」
今度はのどをおさえて動かした。
それでも声はでない。
それでも諦めず、何度も繰り返した。
「…………うぁ」
しばらく続けてようやく出せたのは、今にも消え入りそうなうめき声だった。
うめき声でも、それにとってはじゅうぶんだった。
声が出ることを確認すると、今度は手を伸ばした。
月に触れたら何か起こるのかな、とでも言いたげに。
でも差し込む光が腕を照らすだけで、掴めはしなかった。
少し残念だと眉を下げ、腕から力を抜いた。
どこからか聴こえる歯車の音が心地よかった。きっと、眠っていたあいだに子守唄がわりになっていたからかもしれない。
子守唄にうながされ、また眠ってしまおうかと思った。
瞼を閉じようとした時――ひとつの疑問が頭をよぎった。
(――私は……誰?)
腕がある。
目がある。
口がある。
耳がある。
声が出る。
人間の姿をしている。
(ここにいるのはなぜ?)
ひとつの疑問が芽生えると、たがが外れたように次々となぜ? という感情が芽生えた。
(ここはどこ?)
(私はなに?)
(なんのために、ここにいるの?)
ここには自分ひとりしかいない。
自分の問いに答えられるのは、誰もいないのだ。
(ここから出たら――わかるのかな?)
だったら見つければいい。わからないなら探せばいい。
自分が求める答え、あるいは答えを知ってるものを。
どう思ったのかはわからないが、それは探そうとした。探すために立ち上がった。
ずっと椅子に座っていたせいか、ぎしりときしんだ。
木製の床はだいぶ古くなっていて、歩くたびに不気味な音が鳴った。今夜が満月であるおかげで、扉までものにつまずくことなく歩くことができた。
扉の前に立つと、視界の隅で何かが光った。
「…………?」
何かと思いそちらを見やると、一枚の姿見があった。
栗色の長い髪に翡翠色の瞳。
コルセットを巻かれた胴体は細く折れてしまいそうだ。
クリーム色を貴重とした独特の意匠は、鏡に写る姿をより神秘的なものにしていた。
幻想的な雰囲気にそれが自分の姿ということに、すぐには気づけなかった。
久しぶりに歩いて丈の長いドレスのすそを踏まなかったのは、正面の方に布はなかったからだということに気がついた。
これで外に出て悪目立ちするのではないかという不安が芽生えたが、それは杞憂に終わる。