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39.東京地方裁判所


 東京のほぼ真ん中、文字どおりの中央区に、東京地方裁判所は、ある。

 随所に21世紀の工法の名残――『飾り』が見て取れるその7階建ては、普段、私たちが『模擬裁判』を行なうときは、もっと地味な2階建てだ。『本物の裁判』が行なわれるということで急遽改築したのだろう。まあ、改築と言っても、【マシン】を使って化粧しただけだから、一瞬で完了したはずだ。

 とくに侵入制限など設けていない敷地には、ちらほら見物客の姿があった。彼らは、建物を背景に自らを撮影したり、ペットを使い、空撮を楽しんだりしているようだった。たとえ自分の所有地でも『裁判所の意匠』をマネたビルを建造することはできないから、その稀有さも、この盛況の一因なのかもしれない。

「こらー」センゾが私たちの前方、こちらに背を向けて現れた。「ウチの娘らは撮影禁止だぞー」どうやら見物客に注意を呼びかけているらしい。

 それに当てられたのか、やもめんも、いつものように『眉を釣り上げているものの逆三角形の口だから笑って見える顔』で、私たちの周囲をぐるぐると警戒して駆けまわり始めた。

「おいこら、1ミリでも写ったら、訴えてやんぞ、コノヤロー」センゾが叫ぶ。

「いや、写らないから」私は静かに指摘する。

「へ?」センゾも、やもめんも、間の抜けた顔でこちらを向く。

「許可してないから」

「あ、ああ……、そういう世界だっけね」

 と、センゾは、すぐに察してくれたようだ。「盗撮とかないわけか……、ああ、素晴らしき世界!」

 画像も動画も、無許可な他人の姿はシルエットとなる。もちろん、撮影者からしてみれば、興ざめだし、邪魔なので、あたかも存在しなかったように削除することは可能だ。

「むしろ見せたいですけどね」井出ちゃんがやもめんを抱える。「こんなにかわいいし」

「あ、俺たちも見えないの?」と、センゾ。

「声もね」私は言い、後輩を見る。「井出ちゃん知ってる? 21世紀は、飼い主は飼い犬が吠えないように厳しく調教する法的義務があったんだよ」

 やもめんが井出ちゃんの腕の中で震えあがる。

「その挙動、かわいいね」私は笑った。

「いや、待てよ」センゾが、私の目の高さまで飛び上がる。「あの『クソボ検事』と電話で話してるときに、俺の声、相手に聞こえてたみたいだけど……」

「だから私が許可したら聞こえるんだって」

「なるほど~」センゾは半身になって、右手と左手で私を指さす。「やるね~」

「それ、思いっきり、ガキデカの『死刑』だけどね」

 私は、ポーズの不吉さを指摘した。

 浸水対策かなにかの名残だろうか、1階分の高さもある長い階段を上り、正面玄関から中に入る。

 屋内は、いきなり広かった。

 【視覚エフェクト】を掛けていないから、真っ白だ。

 吹き抜けは、3階の天井までのはずだが、色のせいか、それよりもずっと高く見える。

 まるで巨大なカマクラのよう。あるいは、ヒヨコが最初に見る風景か。

「いつもに増して、おごそかですね」井出ちゃんが辺りを見回しながら、圧倒されたように呻く。「どちらかというと歴史博物館というおもむきです」

 つられて【視覚エフェクト】をオンにするような私ではない。けれど、「どこが? どこが?」と必死に首を回すセンゾが気の毒になり、彼にも井出ちゃんと同じ風景を見ることを許した。「おわーっ! なんだここはーっ! 観念が覆る~!」大げさだ。

 はしゃいだセンゾは、やもめんの背にまたがり、スットコトットットーと探検に出かけていった。

 私たちは顔を見合わせ微笑み、先を行くことにする。


 前述のとおり、私の眼には真っ白い空間だったが、床だけは特別だった。

 最初、周囲を反射したみたいに白く濁っていた床は、建物の奥へ足を進めるほどに、その元来の純粋さを取り戻すかのように黒みがかって、ある一帯から、深い井戸の底を思わせる、どこまでも続くような暗闇色となる。さらに進むと、床面には金と銀の糸をってつくったような、きらびやかなラインが格子状に張り巡らされた。8×8のマス目なので、おそらくチェス盤をモチーフにしているのだろう。それら線で囲まれた、一辺が2メートルほどの面は、これまでと同じ暗闇色と、煙るような白の二種類に色分けされ、チェック柄のように互い違いに配置されていた。その様相は、上に数センチほどの透明な板を被せられているかのように見えるためか、ほのかに遠く、人の素肌のごとき曖昧な色加減だったのだが、誤解を恐れずに言えば、時に赤く、青く、緑に、照らされていた。まったく見ていて飽きない眺めなのだが、チェス盤――棋譜記号でいうところ、e8、e7、e6、e5と進んできた私たちは、その先に、それ以上に目を惹く存在に気づく。


 d1とe1の位置。


 その白と黒のマスをまたぐようにクイーン――ではなくて台座に乗ったテミス像があった。

 21世紀のデザインのまま――という触れ込みのそれは、むしろ珍しく映る。

「厳密には21世紀より昔のデザインの模倣だと思うけど」

 私の揚げ足取りな発言は、井出ちゃんを苦笑いさせた。

 コンクリート色というのか、灰色の女神像の後ろは、もう壁で、その壁面には、カジキマグロ専用の殺菌まな板みたいな、踏み板部分しかない階段が、像を挟んで左右に一組ずつ設置されていた。『だい階段』と呼ぶらしい。

 傍聴人だろうか、先行する人たちが、同じようにテミス像の横顔に目を奪われつつも、こぞって左の階段に向かったので、私たちは、右側を使った。まあ、結局、あちらは右に、こちらは左に緩やかにカーブしているから、のぼった先で落ち合うこととなるのだが。

 さて、旋回する24段をのぼりきり、楕円形のスペースで見事に先行者と合流した私たちは、そのまま彼らとともに北側の通路に進めば法廷なのだが、南側、逆方向に行く。

 そちらには欄干らんかんさえぎられた半円スペースがあって、テミス像の後頭部はもちろん、階下が望めた。そこは思わず『皆の者!』と呼びかけたくなるほど絶妙に支配欲を促される高さで、フロアは本当にチェス盤のように見えた。

「先輩」井出ちゃんに促され、正面――つまり、私たちが入ってきた玄関口の真上に当たる壁に目をやると、そちらには花札を彷彿させる額縁がくぶちに、芸術的な配置で収まった黄金の丸いマークがあった。通称『月』と呼ばれるそれには『100』とアラビア数字で刻まれている。これは文字どおり、削れた陰影でそう見える、という意味だ。

「あれが月か」センゾは欄干の上に仁王立ちになっていた。「んで、あの『100』って数字が『有罪率100パーセント』を意味してるわけだな?」

「今度こそ、あれを二ケタにしちゃいましょう」と井出ちゃんが言う。

 彼女の足元に控えるやもめんも、こちらに笑顔を向けた。

「自信ないな」私は正直に答える。

 しばらく眺めたあとに振り返ると、もう、人波は消えていた。

 まだ開廷には、いくぶん時間はあったが、私たちは、通路へと歩を進ませた。



次の投稿は、日曜なので早めに、午前6時ごろを予定しております。

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