ジュラールの酒造所
3/18 二徹の一人称ミス修正しました。
ジュラールの蒸留酒工場は都から北へ行った森林地帯にある。そこは冷涼で避暑地としても有名な地区だ。何より、北にある山岳地帯から雪解け水が流れる綺麗な川。何十万年地下に蓄えられた極上の地下水が豊富なところである。ジュラールの工場の蒸留酒は、この極上の水を使って作られているのだ。
「二徹、久しぶりだな」
「何を言うか、1週間前に来たじゃないか」
「そうだったかな?」
ジュラールはオレンジ色の逆だった髪に手をやった。上半身は袖のないシャツでたくましい二の腕を露出している。大きなワイン工房経営の御曹司だが、自ら作業を手伝い、日々の労働で日に焼けたたくましい体つきをしていた。
「例のものは順調にできているか?」
そう二徹はジュラールに確認をした。例のものとは、『醤油』のことである。和食作りに欠かせない調味料といえば、『醤油』。これは絶対であろう。さらに言えば、『日本酒』『味噌』『味醂』は欠かせないものだ。他にもあるが、醤油がないだけで和食のレパートリーがどれだけなくなるかは想像に難くない。
自分の前世が和食の調理人だったことを知った時から、この世界で和食を作りたいと願ってきたが、調味料がないことで断念せざるを得なかった。このウェステリア王国以外の国に似たようなものがないかと探したが、その努力は虚しいもので終わった。はるか東の果ての島国には、似たようなものはあると聞いたが、そんな遠くの国の情報が簡単に手に入る訳もない。
そこで二徹は三年前から、このジュラールと一緒に『醤油』『焼酎』『味醂』『日本酒』作りを研究していたのだ。米は南方産のものが手に入るし、醤油の原料となる大豆は市場で豊富に手に入った。豆料理はこの世界の人間の身近な食べ物であったから、作れる条件は十分にあったのである。問題は『麹』や『酵母』である。パンが作られているこの世界だから、酵母で発酵させて食べ物を作るという発想はある。だが、『醤油』や『焼酎』等を作る『麹』や『酵母』はない。まずはそれから作らないといけないのだ。
蒸留酒を作っているジュラールと知り合ったことは、二徹にとっては大変幸運であった。ジュラールが作っている蒸留酒は『クワシュ』という名前で、茶色がかったお酒。いわゆるウイスキーである。ウイスキーと焼酎は違う酒のようで、製法にはよく似た工程があったからだ。
それでまず二人がとりかかったのは焼酎造りだったのだ。焼酎ができれば『味醂』もできる。同じ蒸留酒であったし、酵母で醗酵させる製法も同じである。大きな違いは原料であるが、この1,2年の試作で焼酎については目処がついてきた。今も昨年作った焼酎がひと樽、熟成させてある。焼酎造りも大変な苦労があり、それはまたいつか語ることになろうが、とりあえず製造には成功していた。これも2年の間、日本と世界各地を旅していた経験が生きた。焼酎造りの酒造所や昔ながらの醤油を作っている工場で1ヶ月ほど、働かせてもらった経験があった。
焼酎ができれば、そこから味醂ができる。今、挑戦している『醤油』と家で仕込んでいる『味噌』が完成すれば、和食作りも解禁できる。ただ、二徹はプロの料理人。ただ、できればいいというものではなく、質にもこだわっていたから、この親友を少々困らせていた。
「順調かどうかわからんが、これを見てくれ」
そうやってジュラールが案内したのは木で作った大きな樽。それこそ、大人10人が立って入れるものだ。そこにドロドロした茶色い液体が入っている。表面には中から湧き出たプクプクとした泡が出ている。
「おお、いいね。いい諸味だ」
「この液体、諸味と言ったな。言われたとおり、3日に一回かき混ぜているが」
「ああ、3ヶ月経つまでは発酵が盛んだ。特に白いツブツブは沈めてくれ」
「前から聞こうと思っていたが、このツブツブはなんだ?」
「腐敗菌だよ」
「腐敗菌?」
「この菌は酸素がないと生きられないから、沈めることで死ぬんだ。それをしないと味が悪くなる」
「こんな汚い色の水が調味料になるのは信じられないが、まあ、二徹のことだ。いい儲け話と思ってやってみるよ」
「頼む」
もうすぐ3ヶ月だ。まもなく、発酵が静かになるから表面を布でびっちりと覆い、空気が入らないように密閉する。酸素を入れないことで乳酸菌の成長を抑えて酵母菌の活動を促すのだ。乳酸菌が強くなると味が薄くなり、大豆の旨みが壊れてしまうのだ。
「最初の年は失敗したからな」
ジュラールはそう言って笑った。最初に作った醤油は納豆菌が繁殖してどろどろになってしまった。道具類は煮沸して雑菌を殺すのであるが、納豆菌は死なないので繁殖してしまうことがあるのだ。納豆菌の大豆分解力は凄まじく、あっという間にドロドロの物体に変えてしまう。
ちなみに納豆は比較的簡単にできるため、作ったことがあるがこれはニコールの口に合わなかったので、今のところは食卓に出していない。和食の調味料が整ったら、妻に納豆料理を食べさせようというのは、二徹の小さな野望である。
「今週末には冷暗所に移してくれ」
「ああ。山にある会社の倉庫に移すよ。あそこは寒いからな」
ジュラールの会社は山にいくつか洞窟を持っていて、そこを倉庫としている。夏でも気温が5度以下を保てる自然の冷蔵庫なのだ。
「どうだ、作った焼酎、ちょっと持っていくか?」
「そうだな。まだ熟成中だが、ちょっと頂いていくよ」
「おいおい、あの可愛い奥さんに飲ませるのか? 酔わせるのか?」
ジュラールはそう言って二徹の体を肘で突っつく。
「やめろよ、そんなんじゃない。ニコちゃんに美味しい酎ハイを飲んでもらうだけだよ」
「酎ハイ?」
「そうだよ。これは本格焼酎だから、お湯割りかロック、水割りがいいんだろうけど、女の子用にするには、薄めて果汁と混ぜると口当たりが良くなるんだ」
「ふ~ん。そんなもんか? お湯割りが一番だと思うけどな」
「おいおい、ジュラール。まさか、毎日飲んでるんじゃないだろうなあ」
「ちょっとぐらい、いいじゃないか。毎日、熟成具合を確かめているんだよ」
「本当かよ。まあ、僕もそういう飲み方が、一番味が分かるとは思うけど、世の中、酒飲みばかりじゃないだろう。女性にも飲んでもらうように軽い飲み方のあってもいいだろう」
「うむ。売り方としては面白い。二徹、そのレシピをいくつか教えてくれ。これを売り出すときに使う」
「酒に関しては、僕はプロじゃないけど、売るためなら頑張るよ」
そう二徹は約束した。この世界で焼酎が受け入れられれば、今のところ、製法も独占しているジュラールの酒造所が大儲けできる。出資している二徹の懐も温まる。妻のニコールは望んでないが、贅沢な暮らしもさせてやれる。
「しかしなあ。これはやっぱり、お湯割りだぞ。山の清水を沸かした湯で割るともう最高」
本当は今作っている本格焼酎ではなくて、サトウキビ等から作った糖液を元に作る甲類の方が、癖がなくて酎ハイには向いている。だが、まずは本格的なものを作れるようになってからだろう。この世界の酒飲みに受け入れられないと売れないことは間違いない。
ジュラールは20歳になったばかりだが、酒造をしているだけあって酒にはうるさい。その彼が試飲と称してちょくちょく仕込み中の焼酎を飲んでいるようだ。
「これは売れる。悪くないと思う」
「売れると僕もありがたいよ。投資した甲斐がある」
二徹はこの焼酎や醤油造りのためにジュラールに投資をしている。ジュラールもこの変な酒や調味料作りをしているのは、友情からだけではない。儲かると思ったからだ。資金は二人で。設備と人手はジュラール。製法は二徹。二人が協力しなければ、絶対にできないものだ。
ジュラールはガラス瓶を取り出すと、樽の栓を抜いた。傾けるとチョロチョロと焼酎が出てくる。麦の香りがある透明な液体だが、ほとばしるにつれて光を受けてキラキラと輝いている。
「それじゃ、あとはよろしく」
二徹はそう言って右手を上げた。焼酎の入った瓶を片手に抱えている。ついでにジュラールの工場で作っている年代物の『クワシュ』を分けてもらう。これは飲むのではなくて、料理に使う分である。
「今から、買い物か?」
「まあね。それしかやることないからね。今のところは」
「料理の腕を活かしてレストランでもやればいいじゃないか」
「それはする気ないよ。僕の腕はニコちゃんのためにあるからね」
「お前なあ、臆することなくノロケ話言うなよ。まあ、あの美人の嫁さんなら分からんでもないが」
(あー。二徹を見ていると俺も嫁さんが欲しくなってきた)
ジュラールは二徹を見送りながら、そんなことを一瞬思ったが首を振った。
(いやいや、まだ棺桶に片足を突っ込むのは早い)
女好きのジュラール。まだ一人の女には縛られたくないと思っている。