や・く・そ・く
(もうルウイと会えないのか……)
そう考えると胸がキュンと痛む。右手をタオルの乗っている額にあてる。涙がつつつ……と流れてくる。ショックも重なって風邪で倒れてしまったが、症状は治まりつつある。
それでもルウイと会えないという事実が、体を不調にさせていた。
(会いたい……会いたい……)
(手紙なんかじゃ満足できない……)
コツン……。
ガラスに何かが当たる音に気が付いた。外は日が昇りつつある早朝。朝もやがかかって、景色ははっきりと窓からは見えない。
コツン……。
また音がする。ニコールは自分の部屋のバルコニーを見る。木の実が2つ落ちている。1つはガラスにあたってコロコロと回転していた。
(まさか!)
ニコールはベッドから飛び起きるとバルコニーのガラス扉を開けた。そこから下を見る。
「ル、ルウイ!」
「隊長~。元気ですか?」
そこには何やら荷物を抱えているルウイがいた。夢でないかとニコールは思わず自分の頬をつねったが、目の前の光景は現実である。
「隊長の部屋へ行っていいですか?」
「う、うん。待っていろ」
ニコールは部屋を見回す。あの冒険に使ったロープがまだ机の上に放置されていることに気が付いた。それをベランダから降ろす。
*
「ルウイ、よく来てくれた」
「なんか、隊長ともう遊んじゃいけないと言われたけど、あのまま別れるのは嫌だったから。それに隊長が風邪をひいたと聞いたので……」
2階のベランダまで荷物を持ってロープ一本で登ってきた二徹は、息を切らすことなくニコールの部屋に入ってきた。もちろん、声は周りに聞こえないように小声である。
「熱は下がったが、まだ本調子でないのだ」
ニコールはそう言いながら、ちょっと恥ずかしそうな仕草を見せた。先ほどまで気にしていなかったが、今の格好が薄い緑のネグリジェであったことに気付いたのだろう。下着が薄らと見えなくはない。
「隊長、寒くはないですか?」
そう言って、二徹はそっと椅子にかけてあったカーティガンをニコールに羽織らせた。10歳の男の子とは思えないスマートさである。
「あ、ありがと……」
ニコールはカーティガンを羽織るとそっとベッドに座った。二徹は小さなテーブルに荷物を置くと、それごとニコールの前に移動させた。
「何だ、それは?」
「隊長に食べてもらおうと思って作ってきました」
「ふ~ん。その前にルウイ。私はもうお前たちとは遊べなくなった。聞いているだろう」
「はい。父より聞きました」
「だから、隊長と言う呼び名は変えてくれ」
「そうですか。それじゃ……」
二徹はちょっと考えた。そして、握った右手を広げた左手に打ち付けた。
「ニコール様」
「様はやめろ」
「じゃあ、ニコールさん」
「なんだか、他人行儀だな」
「ニコール」
「それは何となくむかつく。お前は年下だからな」
「じゃあ……」
これは二徹が前々から思っていた呼び方。ニコールはしっかりしていて、頼れるお姉さんだが、そこはやっぱり女の子。可愛いところのある女の子なのだ。
「ニコちゃん」
(これは馴れ馴れしいから、もっと怒られるかな?)
しばしの沈黙の後、ニコールはぽつりとつぶやいた。
「……もう一度、言ってくれ」
二徹はどうしてニコールがこういう反応をするのか、今ひとつ分からないまま、もう一度、ゆっくりと発音する。
「ニ・コ・ちゃん」
急に黙りこむニコール。呼び捨てよりも馴れ馴れしいので、これは却下かと二徹は思ったがそうでもないようだ。怒っている感じではない。下を向いてなんだかもじもじしている。
(どうしたの、ニコちゃん?)
「その呼び方はお前だけに許可する」
(えーっ。この呼び方でいいの?)
だが、顔を赤らめて下を向いてシーツを細い指でいじっている姿は、なんだか小動物みたいで可愛いなと二徹は思った。思わずなでなでしたくなる可愛さだ。
二徹は、ここで自分が持ってきた荷物のことを思い出した。病気のニコールに食べさせようと作ったものだ。
「じゃあ、ニコちゃん。僕が持ってきたのは『ヨーグルトバーク』だよ」
「ヨーグルトバーク?」
初めて聞く名前にニコールは興味があるようだ。二徹が蓋を開けた容器の中身をじっと見る。白くて薄い板に色とりどりのベリーが見える。
「バークというのは、樹の皮という意味があるんだよ。こうやって割ると樹の皮みたいになるでしょ」
そう言って、二徹は大まかに作ってきたヨーグルトバークを割った。まるで木の皮みたいに割れる。割った小さな断片をニコールの口にそっと入れる。
「つ、冷たい~」
「味はどう?」
「酸っぱいけど、ほのかに甘い。これはアイスクリームだな」
「ヨーグルトのアイスと言えなくもないね」
また一つの断片を口に入れるニコール。何だか嬉しさを抑えきれない表情で味わっている。そんなニコールをニコニコして見つめる二徹。
「美味しい。さっぱりとしていて、それでいてベリーの甘みと酸っぱさがちょうどいい」
「もっと食べていいよ」
「お前は食べないのか?」
「もちろん、僕も食べるよ」
二徹も断片を手に取って口に入れる。口の中に冷たい感触と野生の実の鮮烈な香りと味。そしてヨーグルトの滑らかさと酸っぱさが同時に襲い掛かる。自分で作ったのもなんだが、これほど美味しいデザートはそうそうにない。
「美味しいね」
「ああ……とても美味しい……」
無我夢中で食べる二人。あっという間にヨーグルトバークはなくなってしまった。
「もうおしまいか?」
「あまり食べるとお腹が冷えてしまうよ。今日はここまで。次はニコちゃんの好きなお菓子でも作って来るよ」
「前から思っていたが、お前は不思議な奴だな。伯爵の御曹司なのに料理が得意だし、時々、信じられないほど強い時もある」
「そうかなあ……」
強いと言われると二徹は答えをはぐらかす。時間を止めたり、加速させたりできることは秘密だし、そんなことを言っても信じてもらえないだろう。
「先ほども言った通り、私はお前たちとは遊べなくなった。でも、お前と会えなくなると考えると胸が苦しくなるんだ。お前をいつも見てみたいし、お前のことをいつも考えてしまうんだ」
「……僕もニコちゃんと会えないのは寂しいよ」
「なんだか嬉しい」
そうニコールは言うと二徹の右手をそっと取り、自分の胸に当てた。
「私の心臓、ドキドキしているのが分かるだろう?」
「う、うん……」
確かにニコールの心臓の音が右手で感じられる。その鼓動は早鐘のように打ち鳴らされている。でも、急に女の子の胸に手を当てさせられて、二徹としても気恥ずかしい。自然と顔が赤くなる。それを見たニコールも気が付いた。
「わ、私としたことがはしたないことを……」
「ね、ニコちゃん。時々、こうやって部屋に遊びに来ていいかな。ニコちゃんの大好きな料理を持ってくるから……」
「う、嬉しい!」
そう思わず口から出てしまった言葉に驚き、慌てて手のひらを口にあてたニコール。少しだけ目を閉じて、そして開いた時には表情が硬くなっていた。
「それはダメだ。貴族の娘は結婚するまで、身内以外の男とは親しくしてはいけないのだ」
「ふ~ん。身内以外はダメなの?」
「……許嫁なら許される」
「じゃあ、許嫁になるよ」
「お、お前、本気でそんなことを言っているのか?」
「僕だって、このまま行けば顔を見たこともない女子と結婚させられるだろうし、お嫁さんにするならニコちゃんがいい……」
これは本当である。二徹はまだ10歳だが、母親や父親の元に娘を売り込みに来る貴族がよくやってくるのだ。お披露目パーティをする前に売り込みをしておき、パーティまでに内諾を得るのだ。出来レースみたいなものだが、選ぶ方も何人かの候補をあらかじめ把握しておくことはメリットがある。これは令嬢側も同じで、何人もの婿候補から事前に接触があることは結構多い。
「もし、本気なら私も嬉しい。ルウイと結婚したら楽しそうだ」
「じゃあ、約束だね。これはその証」
二徹はそう言って自分のシャツの袖についていたカフスボタンを外した。サヴォイ家の紋章が入ったものだ。ニコールはそれを受け取ると、自分のドレッサーの引き出しを開けてアクセサリーの箱を開ける。
着飾らないニコールのアクセサリーは限られたものだが、その中で自分のお気に入りの銀のプレートのペンダントを取り出した。自分が生まれたときに祖母が作ったというネーム入りの小さな記念ペンダントである。
だが、それを渡すときにニコールは1つ咳払いをした。
「ゴホン……。将来、結婚するということなら、最初に取り決めをしておかないとな」
「なに?」
「私は来年中等学校に入るが、そのあと士官学校に入って軍人になるつもりだ」
「うん。ニコちゃんにぴったりだね」
「じゃ、じゃあ、私が士官学校へ行くのは賛成してくれるのか?」
「大賛成だよ」
「軍人と言うことは、毎日、仕事へ行くし、女性らしいことはあまりできないぞ」
「問題ないよ。ニコちゃんはニコちゃんだし。僕はたぶん、法律を学ぶ学校へ行かされて、父の後を継いで司法省に入るというのがレールだけど、本当は料理を作る仕事がしたいんだ」
二徹の場合も将来は自分の思うとおりにならない運命である。父親のサヴォイ伯爵は司法大臣であるし、サヴォイ家は代々、法を司り、ウェステリアの治安を守ってきた家柄なのだ。
「じゃあ、お前は私のために料理をすればいい」
「そうなったら、毎日、とびっきりのごちそうを振る舞うよ」
「ふふふ……」
「ははは……」
二人は笑い、それぞれのアイテムを交換した。それは二人にとって、困難の始まりでもあったが、この誓いはお互いの心を強くし、実現のための原動力になっていくのであった。




