リーゼルの過去
「リーゼルは養女に出そう。遠縁のパーシー家がリーゼルを引き取りたいと返事をしてきた。ギーズ公国なら安全だろう」
「あなた、まだあの子は9歳ですよ。あの子と離れるなんて私にはできません……」
父と母がそう話しているのをリーゼルは偶然聞いてしまった。トイレに起きた夜の廊下。ドアの隙間から明かりが漏れて、応接間で話をしている両親を見てしまったのだ。
「私もリーゼルと別れるのは辛い。だが、このままでは……」
「あなた……」
(どういうことですの?)
(リーゼルは遠い外国へ行くの?)
(そんな……リーゼルはどこかへ行かないといけないの?)
(嫌です。ルウイお兄様とお別れするなんて……)
小さなリーゼルには、なぜ自分が父や母、そして大好きな兄と離れるのか理解できなかった。大きくなるにつれて、争いに巻き込まれないためにそうしてくれたことはわかったが、父や母に捨てられたと思ったことは、小さなリーゼルの心に突き刺さった小さなトゲとなった。
それは成長するにつれて、傷はどんどんと深くなっていった。
(大好きなお兄様とまた一緒に暮らしたい……。そのためにはサヴォイの家を再興すること。そうでないとリーゼの居場所はお兄様の隣にはない……)
リーゼルは今でも寝ようとすると時折、兄と別れた港のシーンがフラッシュバックする。それは雨がしとしとと降る寂しい夜。別れた日も物悲しい感じで雨が身を濡らしていた。
大陸に向かって出航する船に乗るリーゼル。桟橋でリーゼルを見送る大好きな兄。リーゼルは悲しくて涙が止まらない。
「リーゼ、リーゼ、元気で体を大切にしろよ!」
「ルウイお兄様~っ」
「……ここは……」
リーゼルは目を覚ました。知らない天井。床が時折ぐらりとうねり、リーゼルの体を傾けさせた。
(ここはどこ……?)
しくしくと複数の泣き声が聞こえてくる。そっと体を起こすと暗い部屋の中にたくさんの女の子たちがいる。みんな悲しそうな表情で黙り込んでいる。ある子は声を押し殺して泣いている。
「目が覚めたようね……」
そう声をかけてきたのは赤髪の女性。リーゼルよりもだいぶ年上のお姉さんだ。粗末なワンピースに両足に鉄の足輪と鎖で繋がれているが、発育した肢体は着飾らなくても女性の色気を出している。格好についてはリーゼルも同様である。うずくまって泣いている娘や体操座りでブツブツつぶやいている娘。数えると全部で12人が部屋に押し込められていた。
「私はカリーナ。あなたは?」
「リーゼル……」
「あなたも没落した貴族のお嬢さん?」
「没落……?」
「ここにいる子はみんなそう。お家再興のために差し出された子、売られた子、誘拐された子といろいろだけど、運命はみんな同じよ」
「運命?」
「ええ……。みんな南国の砂漠国。異教徒の王のハーレムに売られるのよ」
「ハ、ハーレム!?」
ハーレム。リーゼルは聞いたことがある。宗教も生活習慣も異なる南の国。そこでは王が絶対的な権力をもち、豪華な宮殿にたくさんの妃を囲っているという。ウェステリア王国や大陸にある国々とは価値観の違う遠くの国。ハーレムはそんな蛮族の王が宮殿内に複数の妃を住まわせている場所なのだ。
「幸い、私たち全員、ハーレムに行くから危害は加えられていないし、これからも加えられないわ。だけど、それは私たちの商品価値が下がるから。いずれ、その国へ行けば自由は失う」
「そ、そんな……」
リーゼルは自分の足に付けられた鎖を引っ張る。しかし、そんなことで鎖が切れるわけがない。
「無駄よ……。偶然、番人が鍵をかけ忘れて鎖が外れた子がいたけど、助けを求めに外に出て海に落ちたと聞いたわ。たぶん、死んでしまったのだと思う」
そうカリーナは逃げ出した娘の不幸な顛末を話した。それはもう逃げ出せないということを伝えていた。
リーゼルは愕然とした。もう一度、部屋の中を見渡す。みんな元貴族の娘である。落ち着いてくると、賢いリーゼルは、ローズベルト侯爵の錬金術もわかってきた。彼は没落貴族の娘を売り飛ばして資金を得ていたのだ。
没落貴族の娘なら、言葉巧みに騙すことは容易だろう。仮に訴えたとしても、現国王に逆らった家の者に当局は冷淡だ。捜査も適当にするだろう。裏で関わっていた者が政府の中枢にいるならば、なおさらである。
リーゼルの場合、ニコールの動向を探らせるスパイとして利用しようと思ったが、拒否したので口封じも兼ねて売り飛ばすことにしたのであろう。
(お兄様……ごめんなさい、ごめんなさい。お兄様がサヴォイ家の再興をしなかったのも、リーゼが関わることを禁止したのも、全部、こういう危ないことに巻き込まれないため。それなのにリーゼは自分のことばかり考えて……。本当にリーゼは愚かでした)
反省してももう遅い。だが、リーゼルの心には希望があった。リーゼルの大好きな兄は絶対に助けてくれるという希望だ。現に兄に命ぜられて、家令のジョセフが自分のピンチを助けるためにあの屋敷へ駆けつけてくれた。
(ジョセフさんがどうなったのか分からないけど、あの強いジョセフさんが簡単にやられるわけがないわ……きっと今頃、お兄様に伝えているはず)
「どうしたの、リーゼル。あなたの反応には、ちょっと驚きです」
そうカリーナはリーゼルの表情に余裕の色があるのを不思議に思ったようであった。普通なら、こういう状況になると泣き叫んだり、悲しみで落ち込んだりする。カリーナ自身も連れてこられた時には、絶望感で食事も喉を通らなくなったのだ。
「カリーナさん。落ち込んでいる暇はありませんわ」
「どういうことです?」
「すぐにリーゼのお兄様が助けに来てくれます。だから、リーゼは安心できるのです」
「無理だわ。明日にはこの船は出航するのよ。港にはこれと同じ船が何百隻も停泊しているのよ。今から1隻ずつ調査することは不可能。海に出てしまえば、追跡もできない。つまり、私たちの運命はあと10時間ってところよ」
カリーナはそう自分に言い聞かせるように答えた。ここから脱出するなんて不可能である。どう考えてもリーゼルの安心の根拠は理解できない。
「不可能を可能にできるから、お兄様は偉大なの」
「あなたのお兄さん、すごい人なのね。名前はなんとおっしゃるの?」
リーゼルはカリーナの目を真っ直ぐに見た。その目は崇拝する光を宿している。
「ルウ……じゃなかった。二徹お兄様。リーゼの大好きなお兄様ですのよ」
*
「ゼーレ・カッツエも落ちたものだな……。まさか、人身売買にまで手を染めるとは」
AZK連隊本部の執務室で、レオンハルト少将は有能な参謀の報告を受けて、そう呆れ顔で答えた。
(前も強盗団を組織して資金集めをしていたことがあった。そして今回の件も同様である。もはや反政府組織というより犯罪集団だ。これでは仮に現国王を追放しても国民の支持は得られまい。なんという愚かな連中であろう)
レオンハルト少将自身が、皮肉にもゼーレ・カッツエのメンバーである。しかし資金集めは中心となる幹部連中が独占していることで彼自身は全く知らされていなかった。知っていたら、やめさせるところであるが、自分のような若造には一切秘密なのであろう。
(いよいよ、馬鹿な年寄りどもを粛清しないと、このままでは自爆だ)
目の前の参謀は新任の美しい女性だ。金髪の髪は神々しく、戦う姿は戦女神であると称される。ニコール・オーガスト大尉である。
「間違いありません。既に20人もの娘が異国へ送られたものと思われます。外交ルートを通じて彼女らの返還を求めていますが、さらに誘拐されて送られる娘たちがいる可能性があります」
「君はその娘たちの行方を調べていると……。だが、首都ファルスの港は広大だ。大小合わせてだととても短時間では調べられない数だろう。第一、外国籍の船だと調査するのに手続きに時間がかかるだろう」
「ご心配には及びません。シャルロット、カウニッツ元子爵殿を呼びたまえ」
そうニコールは自分の副官に命じた。
「カウニッツ元子爵……元ということは、内乱で爵位を失った没落貴族ということか?」
「はい。爵位を剥奪された多くの貴族の一人です」
「その元貴族様がなんの用事で?」
「会えば分かってくださいます」
やがてシャルロット少尉の案内で執務室に入ってきたのは、白髪混じりの日に焼けた中年の男。元貴族ということだが、農夫と言っても十分に信じられる風貌だ。
「こちらがカウニッツ元子爵」
「ニコール大尉、もうカウニッツでいい。爵位は返上したのだ。今はただの鳥を飼っているオヤジだよ」
カウニッツ子爵は、首都ファルスの北にあるヨージャー地方に住む。元からオロロン鳥という珍しい鳥を飼育する事業で財を成した商業貴族である。先の王位争いに巻き込まれて爵位は失ったものの、元々、華やかな社交界とは縁遠い地方の貴族。家業である鳥の飼育業で生活を成り立たせていることには変わりがない。
「それでカウニッツさん。あなたの用事は?」
そうレオンハルト少将は尋ねた。どうしてAZK連隊にこの男が来るのか想像ができなかったからだ。元貴族とはいえ、鳥屋の親父とゼーレ・カッツエは結びつかない。
「娘のクラーラが誘拐されたのです」
「誘拐?」
「そうです。娘は5日前にオロロン鳥の出荷のことで、食肉問屋と商談をしておりました。そこから足取りが掴めなくなりました。私は人を雇って聞き込みを行いました。すると、娘らしき人物を海から助けた人がいると」
「なるほど……」
そこまで聞いてレオンハルトは合点が言った。優秀な女性参謀は既に事件の全容を掴んでいる。そしてそれを解決する作戦も構築済みなのであろう。
「その助けた人物はジュラールという男です。酒造所を経営している男で、実は私の夫の友人なのです」
「ほう……。それでそこへカウニッツ氏を連れて行き、娘さんと再会させればゼーレ・カッツエの悪事も明るみに出ると」
「1個中隊をお貸し願えませんでしょうか。船を特定しだい、船を急襲します」
「……分かった許可しよう。今から出発するのか?」
「中隊は港へ向かわせます。私とカウニッツ氏で酒造所へ向かいます」
「いいだろう。僕も行くよ」
「連隊長がですか?」
「僕も戦場から離れて体が鈍っているんだよ。少し運動がしたい」
「分かりました」
ニコールは部下に戦闘準備を命じる。自分も愛用の武器を装着した。実戦で使うのは今回が初めてとなる武器だ。それは愛する夫から贈られた「刀」である。




