鮎魚醤
それは魚醤であった。
魚醤とは魚を塩漬けにして発酵させた液汁である。日本では鎌倉時代からある調味料で、秋田県では『はたはた』を使った『しょっつる』、石川県では『いか』を使った『いしり』が有名である。
青森県では『ほたて』を使った『ほたて醤油』、香川県では『いかなご』という小魚を原料にした『こうなご醤油』が有名である。世界的にもベトナムの『ニョクマム』、タイの『ナンプラー』がある。
魚に大量の塩を混ぜて自身の酵素で魚肉を分解させて作る醤油なのだ。大豆で作る醤油と同じく、アミノ酸の旨さが特徴で魚醤油とも呼ばれる。
二徹がエイブラムに見せられたのは『鮎』を使った『魚醤』である。作り方は時間はかかるが難しくはない。鮎を丁寧に洗ってえらを抜いて魚の重量の3倍ほどの塩につけて寝かせるだけ。好気菌発酵のために密閉はしない。これで1年寝かせると完成だ。
二徹はこの世界にも『魚醤』があることは以前から知っていたが、鮎で作ったものは初めて見たので、びっくりしたのだ。鮎自体を初めて確認したので当たり前ではあるが。
「二徹様、ちょっと生臭いですね」
メイが鼻をヒクヒクさせて、ちょっと顔をしかめた。こういう臭いは誰でも好きではない。しかし、発酵を終えたものは臭いも収まり、あとは旨みが凝縮した汁になるのだ。
「父ちゃんの作った調味料を馬鹿にするな。これだから犬族の女は嫌いだ。味覚音痴で味がわからない」
エイブラムの息子のボブがメイに文句を言う。メイは味音痴と言われてムッとした。一般的に犬族の人間は、『大食漢で味音痴』と猫族から言われることがある。猫族が犬族を悪く言う時に使う言葉だ。犬族も猫族を『臭いもの好きのゲテモノ食い』と言って馬鹿にすることがある。
あくまでもイメージでの悪口で、実際に両種族の間にそんな違いはない。あくまでも個人的な問題であろう。
「ボクは味音痴じゃない。それにこの臭いが好きな人間はそういないよ。君は変わっているね」
「お前、女のくせにボクとか呼んで変な奴だ」
「それはボクの自由だよ。言っておくけど、ボクにも猫族の血は流れている」
メイは犬族の母親と猫族の父親の間に生まれた子どもだ。犬耳の毛色が猫族によくある雉色をしている。もちろん、耳の形が犬族っぽいので見た目は犬族と言えなくもない。
「なんだ、お前、ハーフかよ」
「こら!」
「痛っ!」
ゴツンとエイブラムが息子の頭にゲンコツをお見舞いした。息子の言動に差別的な思いを感じたのであろう。すぐさま、厳しい教育をするエイブラムに二徹は感心した。親は子どもの言動に注意を払い、人として指導しなければいけない時に、厳しく叱ることのできる身近な大人だ。こういう親に育てられた子どもは真っ直ぐに育っていくだろう。
親という漢字は、木の上に立って見ると書く。常に上から温かく見守り、子どもを優しく、そして時には厳しくするのが親である。子供のいいなりになって騒ぐ輩は、親とは言わない。ただの大きな子どもだ。
「そういうことは言うな。犬族も猫族も人間族も、みんな人で変わりがない。変に感じるのはお前の心が汚いからだ。父ちゃんはお前をそういう風に育てたつもりはない」
「父ちゃん……」
「メイちゃんに謝りなさい」
父親に頭を押さえられたが、ボブもメイに悪いと反省したのであろう。自分から頭を下げた。メイは却って恐縮してしまう。
「ボクは気にしてないから……」
「なんだ、反省して損した。痛っ!」
ゴツンと2発目のゲンコツがボブの頭上に落ちる。実に素直なわんぱくな男の子である。
「まあ、臭いについては、最初は生臭いのは仕方がないね。だけど、発酵が進むとそれは変わっていくよ」
なんとなく微笑ましい光景であったが、二徹は本題に話を戻す。魚醤油の臭いについてだ。鮎はまるごと樽に入れられている。鮎のいい香りが魚醤にも移り、味に深みを与える。
二徹は日本で板前修業をしていた時に、手作りの魚醤を作っている板前さんに聞いたことがあった。内臓も一緒に漬け込むと発酵が早くなることと、鮎の場合は内臓にも香りがあるから、魚醤への香り付けにもなるのだ。
「ここはひんやりしていますね」
エイブラムが案内したのは、森の中にある洞。そこは清水が湧き出ており、気温が周りよりも低くなっている。天然の冷蔵庫のようであった。
「ここで作るとじっくりと発酵が進んで、味が純粋になっていくのです」
そうエイブラムは二徹に説明する。実は気温が低いと発酵のスピードは遅くなる。しかし、他の菌の繁殖を抑えることができるので失敗が少なくなる。エイブラムがここで魚醤作りをするのは利にかなっていると二徹は思った。
「これは1年以上寝かせたものです。どうですか?」
そう言ってちょろちょろと樽から、皿に魚醤を移す。二徹はそれを小指で取って舐めた。
(これは旨い。この熟成具合はどうだ……)
メイも舐めて感動している。これはいろんな料理に使えそうだ。
「なかなかのものです。香りのよいナヌを使っているだけに、上品な香りと味がいいです」
「調味料として売り出したいと思っているのですが、何か、よい売り方はありませんかね」
二徹とメイの反応を見て、エイブラムはこう切り出した。ここからが本題なのであろう。
「う~ん……」
正直、これはうまい。いろんな使い方が考えられると二徹は思った。だが、調味料としては異端であるから、町の料理屋では、すぐにはこれを活かせる料理は思いつかないであろう。
「二徹様なら、これをどういう料理に生かしますか?」
メイは思案顔である。場末の宿屋で調理を手伝っていた経験があるから、この調味料を使った料理を考えているのであろう。
「そうだね……」
二徹は生まれ変わる前の記憶を辿って、ある料理を思い出した。それは鮎魚醤を使った野菜のタジン鍋。作り方は結構な手間がかかる。まずは鮎のアンチョビ作り。
鮎を絞って糞を出しておき、3枚卸しにする。鮎魚醤と醤油に漬け込む。十分に味が付いたところで、オリーブオイルに1ヶ月ほど漬け込む。これで鮎のアンチョビが完成する。
これを使ってバーニャカウダーを作る。アンチョビと同じ量のニンニクを牛乳で煮る。
十分に煮たところでニンニクを潰す。ドロドロになったところで鮎のアンチョビを投入。オリーブオイルを入れて攪拌。そうすると乳化が進む。水を少し入れて乳化を安定させて、香り付けにハーブを刻んで入れる。これでソースは完成。
タジン鍋にニンジン、もやし、玉ねぎ、キャベツを入れて、一番上に手作りベーコンとバターを乗せて蒸し焼きにする。焼きあがったら、バーニャカウダーソースを付けて食べる。これはたまらなく美味しい。手がかかる料理だけに簡単には真似できないのであるが、一度食べたら病みつきになる味だ。現にこの鮎のバーニャカウダーを出す店は予約が集中して簡単には食べられなくなった。
「それは食べてみたいです……きっと、いくつもの味が重なってとても美味しいと思います」
食べた経験がなくてもメイには、その味を想像できる力があるのであろう。ただ、一般の人にはここまでは想像ができない。もっと単純でインパクトのある使い方の方がよいと思う。
二徹が味のわかる人間と知って、エイブラムはそう相談してきたのであるが、問題はその供給量。エイブラムが作り置きした量では、大々的に都で売るには厳しいかもしれない。これは使い方がはっきりすると、間違いなく人気が出る素材だけに、安定した量が供給できないと、料理屋としても困るだろう。
「う~ん。この魚醤をうまく使ってくれる場所か……研究機関みたいなところがいいだろうねえ……。あ、そうだ!」
二徹はよい紹介先を思い出した。それはこの鮎魚醤の魅力を最大限に引き出せるところである。
「これなら王宮料理アカデミーに扱ってもらえると思います」
「お、王宮料理アカデミー……そんなところに扱ってもらえるのですか?」
「ちょっとしたコネがあるので紹介しますよ。これなら十分に使ってもらえる出来だと思いますので」
王宮料理アカデミーの総料理長エバンズとは、よく知った仲であるし、その息子のレイジもよく知っている。この調味料なら間違いなく王宮で使ってもらえるはずだ。二徹は紹介する代わりに、自分にも売ってもらうという条件を付けた。それくらいは許されるであろう。
「また来いよな……。また、ナヌを売ってやるから」
メイと別れる時に猫族の少年はそう言った。鮎魚醤の入った瓶を大事そうに抱えたメイは振り返り、元気よく答えた。
「うん。また二徹さまと来るよ」




