包丁の切れ味
「二徹様、二徹様の包丁は変わっていますね」
朝食の準備をしている二徹を手伝っていたメイは、ベジをトントンとリズミカルに刻む音を聞きながら、手元の包丁を見ている。その切れ味はメイが見た中では異質で、まるで空気を刻むように軽く上下するだけでベジが舞うように飛び出てくるのだ。
「これはちょっと特別なんだ」
少し自慢気に二徹は包丁を手にして軽く持ち上げた。それは特別に作らせた『菜切り』である。菜切り包丁は和包丁で菜刀とも呼ばれ、野菜を切るのに適した包丁だ。この世界の包丁は『牛刀』のような洋包丁が主流である。滑らせて肉や魚を切るために、刃渡りが長く刃先が緩やかにカーブしているのが特徴だ。万能な包丁なので、どこの家庭にもある定番な包丁だ。
二徹も牛刀はもっているが、それも特別に作らせたものだ。それは都の郊外で鍛冶屋を営むゼペットじいさんの工房で作られたものだ。二徹がいろいろと調べまわった末にたどり着いたのが、このゼペットじいさんが作った牛刀。この人ならばとお願いして、菜切り包丁と出刃包丁、刺身包丁を作ってもらった。果物用にペティナイフも作ってもらったから、5本の包丁セットを持っているのだ。
「今日はこの包丁を研ぎに出すんだ」
「二徹様はいつもご自分で研いでいらっしゃるじゃありませんか」
「日頃のメンテナンスはやるよ。だけど、僕の腕では半年に1回は名人に研いでもらわないといけないんだ」
「そうなんですね」
「その包丁を研ぎに出すついでに、メイの専用の包丁を買ってやろう」
「そんな。ボクにはもったいないですよ」
「メイは料理が好きなんだろ」
「はい。二徹様と作る料理は好きです」
「なら、道具にはこだわらないとな。包丁は料理道具の中でも最重要な道具だよ」
そう言って二徹は、リズミカルに動かした包丁の動きを止めた。薄くパリパリに削られたキャベツの千切りの山が出来上がる。
「そんなものですか? 切れ味悪いのは確かにダメですけど、ある程度切れれば、同じなんじゃないですか?」
「ふふふ……。じゃあ、試してみるか」
二徹は引き出しから一本の牛刀を取り出す。これはゼペットじいさんが作ったものではなく、市場で簡単に手に入る洋包丁だ。
「これでベジを刻んでごらんよ」
メイはまだ10歳の犬族の女の子だが、食堂で料理を手伝わされていたのである程度の下ごしらえはできる。キャベツを刻むことは大人顔負けにできる。
トントン……。リズミカルに包丁が上下する。さすがに上手である。10歳の子供とは思えない包丁の技である。やがて二徹が菜切り包丁で切ったと同じように、キャベツの千切りが山となる。
「じゃあ、僕が刻んだのと食べ比べよう」
「食べ比べるって、同じベジを切ったんだから、味はそんなに変わらないのではないですか?」
そう言いながら、まずはひとつまみ。メイは最初に自分が刻んだ方を口に入れる。シャリシャリして新鮮なキャベツの甘味が広がる。次に二徹が刻んだキャベツをつまむ。
「う、うそ!」
甘い。自分が刻んだよりも何倍も甘味が口いっぱいに広がる。同じキャベツなのに随分と味が違うのである。
(切り方の違い? そりゃ、二徹様とボクとでは料理の腕の差はすごくあるけど、これほど違いが出るの? そうなるとやっぱり包丁の切れ味ってこと?)
「何しているの?」
ニコールが台所へ入ってきた。まだ眠そうな顔である。二徹とメイの姿を見て不思議そうにしている。目の前にはキャベツの千切りの山。
「ニコちゃん、おはよう。食べ比べをしているんだよ。僕とメイちゃんで刻んだベジの千切りさ」
「ふ~ん。当ててあげる」
そう言うとニコールはしなやかな指でキャベツをつまむ。そして口に放り込んだ。シャキシャキと音がする。そして、片方の山にも手を伸ばし、同様にする。そして自信たっぷりに答えた。
「うん。これは簡単だわ。右が二徹。左がメイちゃん」
「当たりだよ」
ニコールにもその差は歴然らしい。悩んでいたメイは首をかしげて二徹に尋ねた。
「どうしてこんな差がつくんでしょうか? 確かに二徹様とボクとでは料理の腕の差はありますけど、ベジを刻んだだけで腕の差がこんなに影響するとは思えません」
「腕の差もあるけど、包丁の差も大きいと思うよ」
二徹は説明した。特注の包丁の切れ味は本物で、繊維を刻んだ時にスパッと真っ直ぐに切断する。切り口をきれいに切断することでキャベツの細胞は潰れない。よってキャベツのうまみエキスが流れにくくなる。一方、普通の牛刀の方もきれいには切れる。だが、細胞単位では、その切り口は押しつぶされたようになっているのだ。そこからはうまみエキスが少なからず流失し、旨みを逃してしまうというわけだ。よく切れない包丁で切ると苦味も加わるという研究データもあるくらい包丁の切れ味は重要だ。
「よく千切りベジを水にさらすとパリパリするので店で出すときはやるけど、家庭ではやるときはさらす時間を短時間にするのがコツだよ。そうしないと、こうやって切った断面からキャベツの旨味成分が流れ出て不味くなってしまうんだ」
「そうなんですね。前の店では刻んだベジはずっと水にさらしていました。だんだん、紙のような味になっていくので変だと思っていました」
「そうなんだよ。料理屋でもそこに気を付けない店は結構ある。本当は食べる寸前に刻んでお客さんに出せばいいのだけど、お店の場合はそういうわけにもいかないからね。刻んで置いとかなければいけないけど、水に晒さないと水が出てしまってしなしなになるし、茶色く変色もしてしまうからね。家庭ならそういうことは必要ないね」
「分かりました。ボクも切れ味の素晴らしい包丁が欲しいです」
「よし、買いに行こう」
「はい!」
犬耳がキュンと動いて、メイは可愛らしく二徹の方に視線を向けた。
「二徹、出かけるのか?」
二人の話を聞いていたニコール。後半の料理談義に割って入れなくて聞くだけになっていたが、今度は自分を無視して出かけると聞いてさすがに話に加わってきた。
「うん。ご飯を食べたら、メイと一緒にゼペットじいさんの工房へ行くよ」
「う~」
ちょっとすね気味になったニコール。今日は休日で軍も休み。どうやら、ゆっくりと二徹を過ごしたかったようだ。そんなニコールの心情を察知した二徹。すぐにフォローに入る。
「ニコちゃんも一緒に行こうよ。久しぶりに町でデートをしよう」
「デ、デート……二徹と……」
「そうだよ。最近、ニコちゃんは忙しくてデートできなかったから、行こうよ」
「う……私はいろいろと仕事があるし……昼間から二徹とデートなんて……」
自分のパジャマの裾を指でイジイジと触っているニコール。あとひと押し、背中を押してあげるのが夫である二徹の役目である。
「ね、行こうよ、ニコちゃん!」
「そんなに誘うなら、い、行ってやってもいいけど……」
そんな言い方をしたが、ニコールの心は正反対なのであろう。もうすぐにでも行きたいという表情は隠せない。どうやら、愛しい妻の機嫌を損なうことは避けられたようなので、二徹は朝食作りにとりかかる。
(ニコちゃんとデートか……)
何だか心がうきうきして、二徹は鼻歌が出そうになったが、テーブルに座って朝食を待っているニコールの鼻歌が聞こえてきて、思わず笑ってしまった。
「待っててね、ニコちゃん、急いで作るから…。メイ、ベジを盛り付けてスライスしたレドラをのせて」
「はい、二徹様。ブレドもトーストしておきます」
朝食のメニューは、目玉焼きにパン、焼いたハムにスープができた。出来立て熱々のそれらをさっさと食べて、3人は早速ゼペットじいさんの工房へと行くことにした。




