女神の提案
「ニコちゃん、ニコちゃん!」
二徹は戦場で変わり果てた妻の姿を見た。雨でグシャグシャになった泥の地面に布が敷かれ、そこに人形のように横たわっている。軍服の胸には毒々しい血の跡がある。
その美しい顔は戦場の泥で汚れている。二徹はその泥を布で拭い、そして抱きしめた。冷たい体。いつもなら、二徹が抱きしめるとニコールも応えた。だが、腕は上がらない。時が止まったように動かない。
「連隊長は我々の先頭に立って奮戦なさいました。銃弾が飛び交う中、我々に勇気をくださいました」
「おかげでこのカテル・ブロは敵の手に落ちませんでした。ニコール連隊は任務を果たしたのです」
「ですが……狙撃兵に狙われ……連隊長は……」
周りにはニコール連隊の生き残った兵士がうなだれている。誰もがその死を悼み、悲しみに暮れている。ニコール連隊3千の兵士はその半分が戦死。さらに半分が負傷という凄惨たる状況であったが、ニコールの指揮の下、諦めずに戦い抜いたのだ。
もし、ニコールがいなかったらここで全員が死んでいただろう。現にニコールの進言を聞かなかった第3師団のフリューゲル少将以下の将兵は全滅している。ニコールが救援に向かった右翼部隊の兵士がわずかに生き残ったに過ぎない。
どの兵士も感じている。ニコールがいなかったら、自分たちの命はなかったと。そして誰もが後悔していた。そんな人物の命を自分たちは守れなかったと。
「うああああああっ……」
体の奥からこみ上げてくるものが抑えられず、二徹は泣き叫んだ。体が真っ二つに引き裂かれる苦痛。心が割れて砕け散る。狂ったように泣いた。
シャルロットも泣き崩れている。彼女はニコールの命令でウェステリア軍本軍に救援要請に出向いた。それはニコールの強い命令であったが、やはり従うべきではなかったと悔いている。自分が傍にいれば、盾がわりになったはずだと思うと立ってはいられない。
ニコールが狙撃されて倒れた時に、ウェステリア軍はこのカテル・ブロに到着していた。これはフランドル軍も予想外の進軍である。ウェステリア軍はギーズ軍と合流してからでないと動かないはずであった。
レオンハルト大将が全軍を率いてこのカテル・ブロへ進軍したのは、フランドル軍の動きを察知したこと。そして二徹が強く進言したことが理由であった。
ニコールとダイエルンで別れた二徹は、何やら嫌な予感に囚われた。それはニコールにもらったペンダント。これは婚約の証にニコールからもらったものだが、その鎖が切れたのだ。脳裏に浮かんだのはニコールのこと。
さらに西からやって来た行商人が、ウェステリア軍とフランドル軍がぶつかったと話していることを聞いたのだ。聞けば、カテル・ブロの西だと言う。
(そこにはウェステリア軍はいないはず……もし、その話が正しいとするとカテル・ブロに駐屯中の第3師団が動いたのかもしれない。もし、そうなら……)
ただの軍属が大陸派遣軍の総司令官に会うのは難しい。だが、食事を作る部門に顔が利く二徹は頼み込んで、レオンハルト将軍の朝食の給仕をすることにした。
スープを配る時にレオンハルトに話しかけたのだ。レオンハルトは二徹のことを知っている。そして、その話に自分が持っている情報と合わせてすぐに結論を出した。
「カテル・ブロが危ない。すぐに全軍を出撃させる」
これには幕僚も驚いた。中には止める者もいた。もし、第3師団が突出し、フランドル軍に敗れたのなら、カテル・ブロからその報告が来てもおかしくはない。
しかし、レオンハルトは第3師団の指揮官の性格を知っている。勇猛で戦術的な才能はあるが、功名心があり過ぎ、自分の失敗を隠す傾向がある。その性格を鑑みれば、カテル・ブロの戦力低下を報告するはずがない。
(これは俺のミスだ。ニコールを自分の名代として派遣するべきであった。そうすれば、カテル・ブロでの全権を彼女が握る。正確な情報がこの本部にももたらされたはず)
結果的に勢いに乗る敵に対して、戦力の逐次投入をしてしまったわけだ。それは各個撃破につながる愚かな行為だ。それを止めるためには、持てる全戦力をもってあたるしかない。
「閣下、せめてギーズ軍の到着を待ってはどうでしょう。早ければ、今日の夕方には到着するかと……」
「それでは遅い。それに敵は2万程度だ。我がウェステリア軍は4万5千。圧倒的な数の優位がある。それにだ……」
レオンハルトは幕僚を見回す。白いテーブルクロスが敷かれ湯気の立つ熱いスープが置かれている。
「現在、カテル・ブロではこのような食事はしていない。雨の中、絶望的な戦いに挑んでいる。猶予はない。今すぐ、救援に行かねばならない!」
この戦いにおいてカテル・ブロを失うことは、致命的である。そして、ニコール・オーガストという将来楽しみな軍人を失うことも大きいとレオンハルトは思った。
「すぐに出撃だ。ニテツ君、君は私と一緒に行動しなさい」
そう命令したのは、二徹がすぐにでも飛び出して行きそうだったからだ。戦場に一人で行けば、途中で死んでしまうことを恐れたのだ。
「大丈夫だ。君の奥さんは無事だ」
「ありがとうございます……閣下」
レオンハルトと二徹はすぐに移動した。その途中でシャルロット率いる伝令隊と合流した。カテル・ブロの惨状を聞いて全速力で戦場へたどり着いたのだ。
4万5千もの大軍の到着にフランドル軍は驚いた。フィードル1世はここでなし崩しに決戦が始まることを避ける決定をした。すなわち、全軍にカテル・ブロからの撤退を命じたのであった。
こうしてウェステリア軍は戦略的には逆転勝ちをしたのだが、戦術的には敗北であった。将兵を含む1万4千もの兵を失い、ニコールまでもが戦死してしまったからだ。
カテル・ブロの焼け残った教会の祭壇にニコールは横たわっている。その傍にはうなだれ、冷たくなった妻の手を握る二徹。誰が話しかけても返事をしない。生きる屍のような状態になっていた。
「ニテツさん……ウェステリア軍は今からワーテル平原に向かって出発します。連隊長のご遺体は……ダイエルンから引取りの馬車が到着する予定ですから……」
そう二徹に話しかけたのはシャルロット大尉。彼女も悲しみから立ち直っていたわけではないが、決戦に向けて部隊の再編の仕事が忙しく、悲しみを紛らわせていた。二徹の姿を見るとまたこみ上げて動けなくなってしまう。
「ニテツさん……しっかりしてください。連隊長も悲しみます」
「……」
シャルロットは今にも消え入りそうな二徹の背中を見て不安になった。この仲良し夫婦は片方が死ねば、残った方も後を追ってしまうのではないかと思うからだ。
「ニテツさ……ん」
何か言おうとしたが、シャルロットは止めた。もう何を言っても無駄であろう。ニテツまで死んでしまいかねないとは思ったが、それは天国に召されたニコールが絶対に許さないと思うことにしたのだ。
「それでは……」
シャルロットも明日の戦いで生き残れる保証はない。だが、ニコールによって生かされた命を大切にしようと決意を胸に秘め、顔を上げた。目指すのは北。ワーテル平原である。
*
(ニコちゃん……どうして死んだんだよ……)
(目を開けてよ……)
二徹は冷たくて死後硬直したニコールの手を優しくさすった。ニコールとは小さい子供の頃から一緒だった。まさに幼馴染。
最初に好きになったのはニコールの方からだと言う。それはニコールが酒に酔って昔、二徹に話したことがあったからだ。
ある園遊会で二徹を見かけたニコールは、目が離せなかったという。幼心にこの人が私のお婿さんと思ったそうだ。そして男の子の格好をして近づいた。
そんなニコールを好きになった二徹。もう付き合いは12年以上になる。一心同体と言って良い仲だ。
二徹は祭壇に小さな短剣が置いてあるのを見た。それは儀式で使うものだが、十分な殺傷能力はある。思わずそれを手に取った。
(そうか……この短剣でニコちゃんに会いに行こう……)
鞘から剣を抜く。銀色に輝く刀身に自分とニコールの顔が映る。
「死んではダメです」
突然、女の子の声が教会に響いた。声の主はあの時の女神である。
「君たちは……」
「やはり、こうなる運命でしたか……」
「あの飛行機事故であなたは死にました。だから、この世界でもあなたは死ぬ運命」
「そんな悲しい結末をウブロは見たくはありません」
3人の女神たちはそう言って、二徹の前に現れた。3人の女神、過去の女神ブライトリング、現在の女神ウブロ、未来の女神ルクルトである。
「ニテツさん、ニコールさんが死ぬという運命を変えたいと願いますか?」
そうブライトリングは二徹に尋ねた。当然、答えは一つである。
「ニコちゃんが死なないなら、僕は何でもする。例え、僕の命を失っても……」
「それはダメですわ。あなたが死ねばニコールさんも死んでしまいますから」
これは未来を司るルクルト。二徹とニコールはどちらかが死ねば、残ったものも死んでしまう運命らしい。
「助ける方法は一つです。別世界のあなたの命を救うこと。あなたは、その世界のあなたとなって、飛行機事故を防ぐのです。そのためには、その世界でのニコールさんと協力することです」
「……言っていることはわからないけど……それは僕が異世界の人間の生まれ変わりだという記憶と関係がある?」
「そうね。ですが、今からあなたをその世界のあなたに同化します。しかし、今の記憶が継承されなければ、その試みは失敗に終わるでしょう」
過去の女神ブライトリングはそう説明した。今の記憶を持たないと飛行機事故を防ぐ行動を取ることができない。それくらい一度固定してしまった過去は変えられないのだ。
「それをするには、あなたのニコールさんを助けたという強い気持ち。それにかかっています。でも、それはとても難しいのです。3%といったところでしょうか」
「3%……」
「ニテツさん。あなたとニコールさんが死なないためには、5つのターニングポイントをクリアしなくてはなりません。でも、それを達成すればこの世界の運命も変えられます。いいですか、ここからはあなた次第なのです」
「分かりました……僕は3%にかける。そしてニコちゃんが死なない運命を手に入れます。お願いします」
二徹の真っ黒な心に小さな光が灯った。3人の女神は二徹の頭の上に手をかざした。このまま、意識を別世界に転送するのだ。




