ニコールの戦死
翌朝になった。雨が激しく降っている。第3師団の司令部は楽観的な気分になっていた。偵察に出た参謀はフランドル軍の動きをフリューゲル少将に報告した。それによると、雨の中、炊事をのろのろと行い、遅い朝食を取っているとのこと。それから午前中の戦闘はないと判断したのだ。
「これでは敵も攻撃をしてこないだろう」
「では、予定通り、ニコール准将の連隊は後方へ下げます」
「うむ。今のうちに体制を整えておこう」
フリューゲル少将は予定通り、陣替えを指示する。前面の陣地にいるニコールの連隊を後方に下げ、第3師団の兵を前線へと動かすのだ。雨の中、部隊移動が始まる。これは偵察していたフランドル軍に察知される。
林や建物の陰に隠れていた部隊が動くことで、カテル・ブロに布陣していた兵の数が推測されてしまったのだ。それでネム将軍は、自分がウェステリア軍を過大評価していたことに気づいた。
「なんだと、敵の総数は7千程度だと?」
「恐らく、昨日はこちらに数を誤認させようとさせたのでしょう」
「まんまと謀られたというわけか……。だが、この雨では戦端は開けない」
「雨でも戦えないわけではありませんが、白兵戦になるとこちらの損害も大きくなります」
「その通りだ。それにこの状況で守備陣を変更するというお粗末なことをするだろうか?」
ネム将軍はウェステリア軍の動きをそう疑った。自分をだました敵が間抜けであって欲しくないという奇妙な気持ちが湧いてきたのだ。
「午前中は様子を見ますか?」
「そうする。警戒を怠ることなく、兵にはゆっくり休めと伝達しろ」
この時点ではネム将軍は待つことにした。戦力差が2倍以上と分かったから、天候が回復してからでよいと判断したのだ。激しい雨の中では砲撃も満足にできず、白兵戦になる。それだと損害が大きくなるという判断だ。
ここまではウェステリア軍には運があった。だが、その運も昼過ぎには尽きてしまった。雨は小ぶりになったが、この戦場にフィードル1世が手勢5千を率いて現れたからだ。彼は8キロ先の主力軍を率いて東進していたが、カテル・ブロを未だにウェステリア軍が占領していると聞いて激怒して駆けつけてきたのだ。
「こ、これは国王陛下……急なお越しで……」
突然現れた国王にネム将軍はたたき起こされたような心境になった。これから昼飯を食べてゆっくりしようと思っていたのだ。
「ネムよ。余がカテル・ブロを落とせと命令したのは昨日であった。なのに、お前は未だに何をしているのだ」
フィードル1世は巨体である。2m近い身長に筋肉をまとわりつかせた鋼鉄のような男だ。髪はライオンのオスのたてがみのように荒々しくうねっている。年齢は50歳を過ぎているが、体に衰えはない。20代の頃からずっと戦場を駆け回り、ついにはフランドル国王の座まで得た武人である。
ネム将軍も猛将で知られたが、フィードル1世の前に出るとその猛きオーラは霞んでしまう。この王の持つ戦のオーラは一瞬で全兵士を奮い立たせるものがあった。
「はっ……天候が悪く、十分な砲撃が行えないため、天候の回復を待って戦端を開くつもりでした。敵は1万弱。戦えば圧勝です」
「馬鹿者!」
一喝が鳴り響いた。ネム将軍の幕僚たちの背筋がピンと伸びる。
「戦を舐めるな。勝てるときに戦わないでどうして勝利を得ることができよう。戦いはスピードでもある。勝てる敵を前に手をこまねいていてどうするのだ!」
「はっ」
「すぐさま、攻勢をかけろ。2時間で落とすべし!」
フランドル王国では軍人出身の王であるフィードルの命令は絶対である。命令違反は即、軍法会議で死刑になり、無様な負けは銃殺である。それは恐怖で指揮官を操ることにもつながっていた。
フィードル1世が見ている戦場では、恐怖に支配された指揮官が激烈に攻撃を行い、数々の勝利をもたらす。しかし、彼がいない場所では失敗することを恐れ、消極的な指示待ち人間に陥るマイナス面もあった。
それがフランドル軍の強さであり、弱さでもあったのだ。ウェステリア第3師団が不幸だったのは、その戦争のカリスマである王がやって来たということ。
ネム将軍は昼飯もすっ飛ばし、全将兵に攻撃を命じた。一斉砲撃の後、3方向からの突撃を敢行する。
「ニコール連隊長、敵が攻撃を開始しました」
大砲が火を噴き、次々とカテル・ブロの陣地を破壊していく。後方で待機をしているニコールはシャルロットからの報告を聞くと同時に、望遠鏡でフランドル軍の一斉突撃の様子を見ている。
「まずいな……。敵は犠牲を厭わぬ攻撃を仕掛けてきている」
「第3師団は5000もいません。あれでは持ちこたえることはできないでしょう」
「だが、援軍の要請がなければ、我が連隊は動くことができない」
ニコールはジリジリと味方が崩壊していくのを黙って見ているしかない。フリューゲル少将の命令は後方に待機である。だが、ニコールの兵は3000。現在のウェステリア軍の半分近い兵力だ。
「このままでは、味方は全滅してしまいます」
右翼の堡塁陣地がフランドル軍に飲み込まれていく様を見て、シャルロットは絶望的な声を上げた。左翼も中央軍も支えきれそうもない。
「砲撃を右翼へ行う。砲撃準備……」
ニコールは決断した。このまま、命令を待っていては負けが確定する。崩れた右翼への攻撃を開始し、自分の連隊で押し返すのだ。
「準備できました!」
「撃て!」
ニコールが右手で刀を振りかざした。それを合図にフランドル軍左翼に対して、すさまじい砲撃が開始される。そして、ニコール自らが陣頭に立ち、突撃を開始する。陣地を破壊し、飲み込んだフランドル軍は蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
「ほう……。敵にもできる奴はいるのだな」
フランドル軍の本陣で馬に乗り、戦いの様子を観察していたフィードル1世はそう感心して誰に尋ねるでもなく言葉を発した。
ネム将軍の必死の攻撃で全面的に押し込んでおり、もはや勝敗は決していた。だが、その流れに逆らうかのようにウェステリア軍の予備連隊が占領した陣地を奪い返したのだ。
「見ろ、あの連隊の士気の高さを。そして実にいいポイントに砲撃を加えている。あの連隊長はできるな……面白い。あの連隊に砲火を集中。できる敵を葬ることで、戦の全体の流れを決定づけるのだ」
そうフィードル1世は久しぶりに面白い戦いができることを喜んだ。中央を突破した味方に、時計回りに移動して半包囲するように命じたのである。
「シャルロット、第3師団はどうなっている」
「崩壊し、潰走し始めています。フリューゲル少将は戦死されたとのこと……」
ニコールは戦場を見渡す。どこも敵、敵、敵である。噂通り、フランドル軍兵士は強い。どの兵士も勇気をもって向かってくる。そんな軍に3分の1程度の兵力で対抗しようとしたことが浅はかであった。
「シャルロット、お前に10騎の騎兵を付ける。すぐにここを離脱。レオンハルト閣下のところへ行け」
「え……そんな、嫌です。ニコール連隊長。私はここでお供をします」
「ダメだ。これは命令だ」
「連隊長はここで死ぬ気ですか。だったら、行きません。命令違反でも従わないです」
シャルロットはそうはっきりと言った。ニコールは心を見透かされたような気になった。だが、あえてニコリと笑った。
「シャルロット、私がここで死ぬわけがないだろう。ここを死守する。2時間はもたせる。だから、すぐに援軍が来ないとダメなのだ。そのためにはお前が行くしかない。我が連隊の命運はお前にかかっているのだ。頼む!」
そうニコールは頭を下げた。その姿にシャルロットは涙を拭った。そして顔を上げる。その目は決意に満ちていた。
「連隊長、シャルロット大尉、命令に従います。すぐにレオンハルト閣下を連れてきます。だから、絶対に死んではだめですよ。約束です。准将はウェステリアに帰って、私のことをお姉さまと呼ばないといけないのですから」
ニコールはクスッと笑った。シャルロットは敬礼をして10騎の騎兵と共に戦場を離れる。離れることすら、銃弾が飛び交う中での行動だ。危険な中をシャルロットは離脱していった。
それを確かめたニコール。すぐに砲兵に砲撃するよう命じ、自ら先頭に立って兵士を鼓舞し、陣地に近づく敵兵を撃退し続けていた。
「まだ落ちないのか、ネム将軍」
フィードル1世はカテル・ブロの戦いの勝利を確信しつつも、未だに頑強に抵抗するウェステリア軍に業を煮やしていた。ネム将軍も無能ではない。先ほど、3度目の突撃を敢行し、それも撃退されて失敗に終わったのだが、その度にウェステリア軍は兵数を削られ、まともに戦える人数は500人程度まで減っていた
「申し訳ありません。これほど粘り強く戦うウェステリア兵は見たことがありません。我が方の損害も馬鹿になりませんし」
フィードル1世は望遠鏡で獅子奮迅の働きをしているウェステリア連隊を見ている。その中心で指揮する金髪の美しい女将校もだ。
「なるほど……敵の指揮官はまるで女神のようだ。あれなら神がかり的な戦いぶりもわかるような気がする……だが、これ以上は時間をかけられない」
もう戦端が開かれて3時間以上になる。これ以上時間をかければ、ウェステリア本軍がやってくるかもしれない。
「狙撃小隊を呼べ」
そうフィードル1世は自分の連れてきた5千の手勢から、親衛隊に属する部隊に命令した。敵指揮官を狙撃せよと。
*
(まだか……まだ来ないのか……)
絶望的な戦況の中でも、ニコールはそれを顔に出さない。出さないからこそ、兵士は勇気をもって戦い続けられる。
ニコール連隊は未だに陣地を死守していた。このまま守りきれば、ウェステリア軍の来襲とともに敵軍は撤退するしかない。99%敗北している状況だが、守りきるという1%にかけて、死に物狂いで戦い続けていた。
ニコールの計算では、そろそろ援軍が来てもおかしくない。事態の緊急性に気づいたレオンハルトなら、シャルロットが到着する前にここへ駆けつけてくるはずだと思っている。
(それにニテツがいる……きっと、ここへ来てくれるはずだ……)
ニコールは右手にもった刀を握り直した。血しぶきで赤く染まったそれは、この戦いの激しさを象徴していた。
「れ、連隊長、後方に近づく軍が……あれは……我が軍です。ウェステリア本軍です!」
部下がそう叫んだ。ニコール連隊の生き残った兵士は力がみなぎってきた。あと少し、あと少し踏ん張れば勝てる。そう誰もが思った。その瞬間。
生き残った兵士たちには、光がニコールを貫いたように見えた。そして彼らはそのまま崩れるように倒れる美しき連隊長を固まって見守るしかなかった。




