カテル・ブロにて
ニコール連隊がカテル・ブロに到着したのは、その日の昼過ぎ。天候は雨が降ったり、止んだりを繰り返していた。本格的な雨は夜以降になりそうだ。
砲声が時折、西の方から聞こえてきている。カテル・ブロへ向かう途中にあるフランドル軍のものと思われた。
カテル・ブロには、既に前線から撤退してきたフリューゲル少将が4千の兵と共に駐屯していた。駐屯とは言っても、逃れてきたばかりで疲れきった兵は村のいたるところで腰を下ろし、立ち上がることもできないでいた。
「フリューゲル少将、ニコール准将、今、到着しました」
「ああ、よく来てくれた。命令は聞いている。ここで敵を防げとあるが……」
「はい。2日間持ちこたえろとの命令です」
「……簡単に言ってくれるものだ。我が軍は敵の追撃を受けてやっとここへたどり着いた。まだ、前線では3千もの兵が戦っている」
フリューゲル少将の第3師団は当初1万2千の兵力を擁していた。ところが不用意に進出し、フランドル第2軍団を率いるネム将軍の2万と遭遇。激しい戦いの末、敗走したのだ。分散した各隊が抵抗しているので、まだフランドル軍はここへは来ていないが、それも時間の問題であろう。
これは想定外の出来事である。このカテル・ブロは無傷の第3師団とニコールの連隊で守備することであったからだ。第3師団が半分以下になったことは、作戦の支障となる。
「急ぎ、防御陣地を作ります。敵の主力は北西方面にいますね?」
「ああ、間違いがない」
「それとこの状況をダイエルンの総司令部へ報告してよいでしょうか?」
「それは無用だ。既にこちらから報告している」
ニコールの進言を間髪入れずに否定したフリューゲル少将。その態度にニコールは違和感をもったが、ここでの上官は彼である。その命令に従わないわけにはいかない。
「……カテル・ブロの守備陣地の構築は私にお任せ願いますでしょうか?」
ニコールはそうフリューゲル少将に聞いてみた。この守備隊の総指揮官は彼であり、ニコールはその与力に過ぎない。だが、疲れきったフリューゲル少将とその部下はその余力がない。
「ああ、任せる。北西方面から撤退してくる部隊の救援も頼む」
「分かりました。師団本部を村の東方地区に置きます。一時的に指揮権を私が預かります」
「頼む。今から5時間。午後6時まで全軍の指揮権をニコール准将に与える。それまでの間、第3師団の全将兵は休息とする」
一時的に指揮権を預かったニコールは、すぐに自分の連隊に命令を出し、砲兵陣地を作る。敵の主力が来るだろう北西方面に手厚く、南西方面と西方面にも陣地を作る。
カテル・ブロは平坦な土地で、守備側には不利な条件であった。村の建物や林などの遮蔽物はあるが、3方向から大軍で攻められれば、単純な数での勝負とならざるを得ない。
ニコールは自分の連隊本部を北西の林の中に設置。木の上に観測所を設け、さらに斥候を放って敵の動向を探った。
時間とともに西から傷つき、逃れてくる味方の兵士が増えてくる。また、砲声も大きくなってきた。
(第3師団の損害が想定よりも大きい。1万どころか、7千にもならない。負傷兵が多くてまともに戦えるのは私の連隊だけか……)
フリューゲル師団は元々1万2千ほどであったが、初戦で敗北し、半分以下になっていた。そして残った兵の2割が負傷。残りも激しい戦闘で疲れきっている。
「シャルロット、各小隊に命令。すぐに火を焚き、食事の用意をするよう」
ニコールは突飛もないことを副官に告げた。普通は中隊ごとに行うことだ。それにこういう場合は携帯食で済ます。火を炊いて食事を作るのは、よほどに余裕がある時にしか行わない。
「連隊長、もしや、ブラフですか?」
「ああ。煙を見て敵はこちらが大軍を派遣したと思うだろう。それで様子を見てくれれば、時間が稼げる。それに雨が激しく降ってくれば、道がぬかるんで敵の大砲の移動も遅れるだろう」
「はい。すぐに各小隊へ連絡します」
ニコールの命令でカテル・ブロに食事を作る煙が上がった。
*
「敗残兵を掃討しつつ、本日中にカテル・ブロへ到着可能です」
「うむ。予定よりも早く片付いた。この天候だ。急いだ方がいい」
フランドル軍を率いるネム将軍は、百戦錬磨の軍人である。その経験は20年以上にもなる。ただ、彼自身は思慮深い性格ではなく、若い頃から自ら先頭にたち、力で押し込む戦いを好んでいた。
しかし、48歳を超える現在は、その自慢の肉体に衰えを感じやや消極的な指揮をするようになった。それは老練さが加わったといえば聞こえはいいが、弱気からくるものであった。さらにここ数年は雨に打たれると体調を崩すようになっている。
(ああ……もう戦はしたくない。国王陛下は何をお考えなのだ。このままでは私の一生は戦争で終わってしまう……。せめて、今回の戦いを最後にして欲しいものだ。幸いにも前哨戦では我が軍が優勢であるが)
彼は初戦の成功でこの戦いにゆとりを感じていた。それが彼に慎重な作戦行動をさせ、猪突猛進をさせないことにつながっている。これはニコールにとっては幸運でもあった。
「カテル・ブロに援軍が到着したとのことです」
「どの程度だ」
斥候からの報告を聞くネム将軍。それが3千程度と聞いて、薄笑いを浮かべた。自分の幸運を神に感謝する。
「それなら、今日中に片付けるか……。進軍を急げ。この勢いのまま、カテル・ブロを落とす」
そう命令したが、その村へ近づくと急に攻撃命令を止めた。無数に上がる煙が気になったのだ。
「敵の援軍は3千と聞いたが、あの炊事の煙を見ろ。あれは1万5千以上だ。しかも敗残兵を加えれば、2万を超えるだろう」
これは長い軍歴を重ねてきたネム将軍の経験からくる判断だ。斥候からの報告によれば、強固な陣地が作られているとのこと。実はこれもニコールの工作で、大砲に見せかけた丸太を使った偽装である。
「うむ……。ここは様子をみよう」
「しかし、明日になれば敵の援軍がさらに到着するかもしれません」
そう意見する者もいたが、ネム将軍は進軍を止めた。敵が自軍と同じだけの数がいるなら、ここは慎重になるべきだと考えたのだ。初戦に勝ったことで、彼らしくなく守りの心境になったのは、年齢による衰えのせいであった。
それに慌てなくてもフィードル1世率いる大軍が来る。ここでリスクを取る必要もないと考えたのだ。
部隊の様子を視察してきたシャルロットは、ニコール連隊の司令部のテントに戻ってきて、詳細な報告をしている。
「敵軍2万。カトル・ブラの北西、西、南西方面の街道に布陣完了しました。どうやら、敵は今日のところは様子を見るようですね」
ニコールも情報収集は怠りない。戦いは情報線がその勝敗を分けることを知っている。だから、この地についた時に斥候を放ち、敵の状況を正確に把握しようと努めていた。
「こちらの兵力を過大にとらえたのであろう。あと3時間で日も陰る。今日は攻めてこないだろう」
「准将の作戦が成功したのでしょう。よかったです」
「だが、明日は激戦になるだろう。この雨が激しくなってくれればよいのだが」
午後から降り始めた雨はやっと小雨となり、断続的に降っていた。これが大雨になってくれれば、明日いっぱいは攻撃してこないだろう。
(だが、雨に頼るのは神だのみだ。それでは勝てない……)
ニコールは第3師団の司令部へ向かうことにした。師団長のフリューゲル少将に進言するためだ。
*
「なんだと、夜襲をかけるだと?」
「はい。私が指揮を取ります。敵は第3師団と戦い、ここまで来ましたが、今は陣を敷いて休んでいます。きっと、今は疲れて立ち上がれないほどでしょう。味方の第3師団の兵士のようにです」
カテル・ブロに逃れてきたフリューゲル少将の兵は疲れて寝ている状態だ。これは陣を視察したニコールは実際に見ている。敵も同じ状況であろう。
「夜襲は諸刃の剣だ。敵の攻勢を煽りかねない。このまま、黙っていてもこの雨だ。明日の午前中までは戦闘にはならないだろう……うまくいけば、午後も天候の悪化で戦闘を避けられるかもしれない」
そうフリューゲル少将はニコールの提案に反対した。彼の幕僚もほぼ同意見である。慎重な作戦を基本とするフリューゲル少将に賭けに出る度胸はなかったし、幕僚の中にはニコールの提案を快く思わない者がいた。彼らは自分よりも年下でしかも女性という連隊長に対して、やっかみが少なからずあった。それはニコールの積極策の利点には目をつむり、リスクだけに注目することになった。
「夜襲は却下だ。それと明朝、部隊の守備位置の変更を行う。ニコール准将の連隊は今の位置から後方へ移動。代わって第3師団が守備陣地へ移動する」
「待ってください。敵は我が軍の数を過大評価している可能性があります。全軍で守備隊形の再編成をすれば、全容が分かってしまいます」
これにはニコールは反対した。フランドル軍が自軍の半分以下と気づけば、総攻撃してくることは間違いがない。
「いや、それはないだろう。敵は疲れて休んでいるだけだ。天候が回復すれば、午後から攻勢に出てくることは間違いがない。その時に君の連隊では支えきれないだろう。君の連隊は急遽編成された部隊であろう」
「そうですが……」
「ニコール准将ご自身も将軍としては初陣。外国の軍隊と戦うのも初めてでしょう」
言葉は丁寧だが、少し蔑みの色が出ている口調で、第3師団の参謀がそうニコールに言った。その言葉にヒソヒソと幕僚たちが話している。
退却してこのカテル・ブロに到着した時は、そんな余裕はなかったのだが、ニコールのおかげで一息つくことができた。そうするとむくむくと功名心が頭をもたげてくる。ニコールの手際の良さを目の当たりにすると、ここでの戦功を横取りされると思ったのだ。
第3師団は1度、敗戦しているから挽回しなければという思いもある。よって、助っ人であるニコール連隊は後方へ下げるという結論に至る。
「確かに大陸での戦闘は初めてです。しかし、我が連隊は無傷です」
ニコールは強くそう主張した。だが、もはや作戦会議はニコールには不利な空気で充満していた。参加している将校はもうニコールを軍人とは見ず、女として馬鹿にする気持ちしかない。
「初めてとは、新進の連隊長閣下はご経験がないようで」
「経験がなければ無傷だわな……ははは……」
「ニコール准将はご結婚されていましたな。じゃあ、経験はあるんだ。あっちの方はね」
「じゃあ、無傷じゃないよな。傷だらけじゃないか、はははっ……」
「ついでに私たちも美しい連隊長殿に戦いを臨みたいですな」
遠まわしに自分を侮辱する言葉にニコールはぐっとこらえた。こうなると何も動かない。さらに卑猥な言葉をぶつけられ、不愉快な思いをするだけだ。
「分かりました。我が連隊は明朝、陣替えをします。が、一つだけ、ご許可を願いますでしょうか?」
「なんだ、准将」
「すぐにレオンハルト閣下に援軍を乞う伝令を出しましょう。敵は2万。こちらは7千。戦力差は歴然です。当初の計画では第3師団が無傷であるという前提でした。しかし、初戦で破れ、その前提は崩れました。すぐに援軍の要請をするべきです」
「ニコール准将。戦ってもいないのに大将閣下に援軍を求めるなど、私は恥知らずなことはしない。准将は女だから、そのようなことが言えるのだ」
フリューゲル少将はそう言ってニコールの進言を却下した。彼は初戦で不用意に突出して損害を出し、その件ですぐにでも挽回しなくてはならない状況にあった。だが、それは彼個人の評価だけの問題であり、その判断でこのカテル・ブロの拠点を失うことはあまりにも全体に悪影響がありすぎる。
「フリューゲル閣下、ここを失うことは大変な損失です。すぐに援軍の要請を……」
「ニコール准将。ここが重要な拠点であることは言われなくてもわかっている。だからこそ、ここで討ち死にする覚悟で守る。我が第3師団の力を後方で見守ることだな。本当の戦いというものを教えてやる」
フリューゲル少将はそう言い放った。彼の幕僚も力強く頷く。だが、それは根拠のない強がりに過ぎないとニコールは思った。明日、敵が全面攻勢に出てくれば、3倍の敵と戦わねばならない。そしてこちらはバラバラなのである。
「……わかりました。私の連隊は後方に陣地を構築し直します。明日は後方から支援を行います……」
「うむ。それでよい」
「それでは……」
ニコールはそうフリューゲル少将に告げて退出するしかなかった。これ以上、どうあがいても、自分の意見は入れられない。
「ニコール連隊長、どうしますか」
部屋の外で待っていたシャルロット大尉は心配そうにニコールに聞いた。彼女も危機を感じていた。
「指揮権が本日中まで私にあればよかったのだが……」
ニコールに与えられたのは夕方6時まで。これが夜中の12時までであったら、ニコールの独断で全部隊を動かすことができた。そうすれば夜襲もできただろう。
今思えば、このカテル・ブロに到着し、指揮権が一時預けられた時に、戦力が低下していることを理由に援軍の要請をするべきであったとニコールは悔いた。
これがターニングポイントであったことは、この時点では誰も気付かなかった。




