ツナの油漬け
「二徹様、これは何ですか?」
メイは二徹が仕込みをしている食材に興味津々のようである。メイがオーガスト家の屋敷に来て、1週間が経っていた。家令ジョセフの研修も終わり、メイは今日から本格的に二徹の助手兼ニコール付きのメイドをしている。朝はニコールの出勤支度の世話、午前中は学校に行って勉強。午後から二徹について食材の買出しと仕込みの手伝いをするのだ。
今、二徹が手に持っているのは透明の瓶。口は広めで食材を入れるのに適している。目の前にあるのは、マグロの赤身。ミルルの魚屋で買ってきた新鮮なものだ。マグロはこの世界では『マグ』という。両面にまんべんなく塩を振って氷を敷き詰めた箱で寝かしてあったものだ。
「今からマグのオイル漬けを作るんだよ」
いわゆるツナのオイル漬けである。作り方は転生前の二徹の家で作っていたものと同じ方法だ
「マグの肉の大きさに合わせた鍋に油を入れる。そこに水分を拭き取ったマグを入れる」
二徹はそっと鍋にマグロをいれると、ここへ香草と種を取った唐辛子を入れる。香草はローズマリーに似た香りのものである。唐辛子も香草も市場の香辛料屋で手に入る。
「さらにモレンの薄切りを数枚……」
モレンとはレモンのことである。大陸にある暖かい国で作られる果物だ。酸味があり、かなり酸っぱい。まさにレモン。この鍋の中に二徹は油を注ぐ。菜種やヒマワリの種、とうもろこし等から作られる油をミックスしたもので、いわゆるサラダ油と呼ばれる代物だ。この世界では一般に食用油として使われている。
「あの……二徹様。どうして油を常温で入れるのですか? 温度が高いところに入れた方が早く火が通るのでは?」
「温度の高いところに入れると急激に火が通ってしまうからね。特に表面に強く火が通ってしまうとしっとりとした食感にならないんだ」
そう言うと二徹は弱火にした炭火のコンロの上に鍋を置く。ゆっくりと火が通り、徐々にマグロの表面が白くなる。7割方火が入ったところで、二徹は鍋を下ろす。
「二徹様、もういいんですか? しっかり火を通さないと腐ってしまうんじゃ?」
メイの心配も当然だ。まだ、冷凍技術が発達していないこの世界では、生ものを長期保存することは難しい。屋敷にある冷蔵庫も氷を入れて保存するタイプのもので、長時間保存するには性能が足りない。
「火を通しすぎるとパサパサになってしまうんだよ。こうやって余熱でじんわりと火を通すのも料理のテクニックだよ」
「そ、そうなんですね……」
目を輝かせて鍋を見るメイ。確かに余熱でじわじわと火が通っていく様子が観察できる。この世界はコンロについてもガスではないために、細かい調整ができない。火の管理は料理の味を左右するだけに神経を使うところだ。
「それに油漬けは保存性が増すんだよ。これで瓶詰めして氷温庫に入れておけば、2週間はもつ」
「に、二週間もですか?」
魚の肉が二週間保つなんて驚きなので、メイは驚いたような表情だ。魚を長期保存する方法は、この世界にはないのだ。
「油に漬ける方法は、保存だけじゃない。油に漬けることで味が丸くなるし、濃くなる。さらに、香辛料の味も染み込む」
「美味しそうですね」
ヒクヒクと鼻を動かすメイ。余熱で火が通ったマグをほぐして瓶に注ぐ様子を見ている。二徹は手際よく瓶に詰めて蓋をした。鍋には具材から出た水分が残っている。
「保存食のコツはいかに水分を抜くか。水分があると細菌が発生して、ものを腐らせてしまうからね」
「細菌? 細菌って何ですか?」
「ああ……。人間を病気にしてしまう悪い気のことだよ」
二徹はそう言い直した。この異世界の医学はかなり遅れている。やっと、傷を化膿させたり、病になったりする原因は目に見えないものによる仕業と認識され始めた程度である。ローベルト・コッホやパスツールが病原菌の研究を始める前のレベルである。最新の医療技術で、傷口をきれいな水で洗い、殺菌作用がある薬草で覆うという治療法なのである。抗生物質などはまだ発明されていない。メイのような一般市民では、まだ病は目に見えないよからぬものの仕業だと思っていても仕方がない。
「他にも、ニュウズを漬けたり、ピルツを漬けたりしてもうまいぞ」
「なるほど、こうやって仕込みをしておいて、料理の材料として使うんですね」
二徹が他にも油漬けをした瓶を見て、メイは納得した。これまでの二徹の料理にもいくつかは使われていたことを思い出したのだ。
「まあ、これは今日の夕食に使うんだけどね」
今作ったツナは補充用だ。この前作ったものは、今日の夜のご飯に使ってしまうので作っておいたのだ。
「今日、ニコちゃんは帰りが遅いと言っていたからね。もしかしたら、徹夜になってしまうかもしれない。だから、お弁当をもっていこうと思ってね」
「奥様は今日は帰りが遅いのですか?」
今日はニコールが前から準備をしていた重大任務の日。朝早くから出かけて、帰りは深夜になると聞いていた。この件に関しては機密事項らしく、二徹にも一切中身は話してくれない。ただ、日々、ピリピリした雰囲気で任務の重大さを二徹も感じ取っていた。
「まあ、僕にできるのは疲れている妻に、美味しい食事を作るだけだからね」
「二徹様は謙遜なさっておいでです。食事だけではないように思いますよ」
「まあ、それが専業主夫というものだけどね」
「専業主夫ですか?」
「妻が外で稼いで、夫が家を守る。それが専業主夫」
この異世界ではあまりお目にかからない職業だ。女性に働かせて自分は遊んでいるヒモ男はいるが、家事全般を仕切って外で働く妻を支える男はほぼいないだろう。もちろん、女性が働くことは庶民レベルでは珍しくない。市場へ行けば元気に働く女性も多い。だが、家庭の仕事や子育てはやはり女性がするものだという認識がある。ましてや貴族社会では夫が仕事をして、女性は家庭にいるというのが常識だ。まあ、家庭にいても仕事はほとんど使用人がするから、実際はパーティやおしゃべりで時間を浪費していることがほとんどだが。
「二徹様は、家のこと以外にも仕事をなさっているじゃないですか?」
メイは知っている。何やら一緒に作っているジュラールのことや、町で困っている人に色々と手助けしていることをだ。それも誰も考えたことのないアイデアを出している。ほとんど、無償で行っているし、ビジネスでやっていくということもない。お気楽な立場で人助けも二徹の仕事みたいなものなのだ。
「さて、この後、ちょっと出かけるよ」
「どこへです?」
「ベッカさんのパン屋だよ。ちょっと、頼まれていてね。メイも来なさい。ちょっと、人手が必要なんだ」
「もちろん、お供をします」
そうメイはピンと立てた雉色の耳を嬉しそうに動かした。




