本陣陥落ス
平成29年最後の投稿です。2話分ぶっこみました。(本当は明日投稿する予定でしたが)
平成29年は書籍化して、多くの人に買ってもらい感謝です。
平成30年も「異世界嫁ごはん」は躍進します。ありがとうございました。
そして、平成30年もよろしくお願いします。
「さあ、露天風呂が完成したよ」
庭の一角を塀で囲い、雨が降ってもよいように洒落た屋根までついている。ちょっと洒落た広めのガゼボ。日本風で言うなら東屋である。浴槽は2つ。一つは石でできた岩風呂。5畳ほどの広さで中央にはテーブルのような平らな石が設置されている。
2つ目は壺風呂。特別に作ってもらったもので大人二人が入れる大きさだ。この2つの浴槽には常にお湯が供給され、パイプを通って浴槽の上から流れ落ちる。
屋敷の地下から湧き出る水をタンクに貯めて、それを沸かして供給する仕組みだ。沸いたお湯はかなりの温度だが、途中で水と混ぜられて少し熱めのお湯となって浴槽に供給される。野外だから多少熱くても大丈夫だろう。
「こんなお風呂見たことありません」
目を真ん丸くして驚いているメイ。そりゃそうだろう。こんな露天風呂、大貴族の家でもない。日本人としての記憶がある二徹ならではの発想だ。
ちなみに大陸には温泉が湧き出る場所があって、そこで温泉を楽しんでいる地域あると聞くが、それは特殊な事例である。そういう地域でも、その温泉に入るときは、真っ裸ではなくて水着を着用して男女混浴で入るらしい。
二徹は満足そうにできたばかりの露天風呂を見る。これはいつか作ってみたいと思っていた夢が実現した光景だ。
「たぶん、ウェステリア王国初の露天風呂だと思うよ。今日はこれでニコちゃんを癒そうと思うんだ」
「このお風呂とあのイカの塩辛だったら、ニコール様も満足してもらえると思います」
「とどめはこれだけどね」
二徹が手にしているのは、まるまると太ったキンメダイ。今朝、ミルルの魚屋で手に入れたものだ。キンメダイはウェステリア王国では、『ビグアイドリム』と呼ばれて、鯛の中でも高級魚として扱われる。採れても上流階級への食卓へ上るために、市場の魚市場ではお目にかからない魚である。
「すごく美味しそうな魚ですね」
赤くて大きな目をしている金目鯛。見た目はグロテスクだが、その身は肉厚で柔らかく、そして噛めば噛むほど味が染み出る。ウェステリアでは香草と一緒に蒸すのが定番であるが、今日は完成したお風呂で食べるということもあり、趣向を凝らすことにした。
ちなみに金目鯛は3匹調達したので、2匹は香草で蒸してジョセフやラオさんたちの賄いとする。こちらは二徹が仕込みと蒸し上げまで監修してメイが行う。
やがて夕方になる。
いつもは帰宅が遅いニコールであったが、この日は早く帰ってきた。仕事は山のようにあったが、昼間に二徹と戦争(先に好きと言わせる)だと思いに至ったためだ。ニコールにとっては、この帰宅は戦場に到着したという高揚感を伴ったものであった。
「お帰りなさい、ニコちゃん」
「ああ、今帰った。二徹……今日こそは決着をつけるからな」
「決着?」
二徹はきょとんとする。一体、この勇ましくも可愛い嫁がどんな心境なのか全く分からない。そりゃそうだ。ここ数日のニコールは、勝手に『甘えると飽きられるので自制』モードになり、悶々とした日々を過ごした。
そして今日は『自分はここまで我慢したのに、二徹は平気。これは許せない。今日こそは好きだと二徹に言わせる!』と最初のボタンを掛け違い、一周してまた掛け違えるということになっていたのだ。
そんな愛妻の心の中はなんとなく察して、今日までゆったりと構えて様子を見ていたのだから、二徹の方が余裕はあったのだが、まさか『決着をつける』という状況になるとは想像もしていなかった。
「決着がどんな形なのかわからないけど、今日、露天風呂が完成したよ。早速、入ってみようよ」
「ろ、露天風呂だと!」
二徹に連れられて、できたばかりの露天風呂を見たニコール。そこはたっぷりのお湯がたたえられた魅惑の空間だ。
「ここでお酒とつまみを食べるのが今日の趣向だよ」
「こ、こ、ここで!」
「そうだよ」
「お風呂で食事だと!」
「うん。こういう変わった趣向もいいでしょ?」
ニコールは思いがけない二徹の提案に戸惑った。脳内には二徹との戦闘場面を妄想している。副官の黒い悪魔ニコールが囁く。
(ニコール大尉、敵はトラップを仕掛けているようです。気を付けないと大変ですよ)
(露天風呂に酒だと……大掛かりな罠だ。だが、私がそのようなトラップに引っかかるものか!)
(では、大尉、この申し出をお断りになるのですか?)
今度は天使ニコールの副官。ニコールは頭を横に振る。
(断ったら、敵前逃亡になる。ここはあえて敵の誘いに乗る)
大きく頷いたニコール。そして二徹に言い放つ。
「いいだろう。戦場は決めさせてやろう!」
「戦場?」
ニコールの言っていることが分からなかったが、二徹はバスタオルと水着を差し出す。これに着替えてねという配慮だ。いくら夫婦でも裸で入るのは抵抗があると思ってのことだ。
(これもトラップですよ、大尉。水着なんて着たら戦力が削がれます)
(ト、トラップだと!?)
小悪魔ニコールの言葉に、慌てるニコール。お風呂に入るということは、二徹の前で裸になるということだ。そりゃ、夫婦だから別に恥ずかしがることではないが、塀で囲まれた空間とはいえ、これはかなり勇気がいる。
日が暮れてまわりは暗くなっている。ランプの灯りが何となくムードたっぷりな風情を醸し出していた。この状態で無防備な姿。これでは狼の群れの前に投げ出されたウサギさん状態である。
(み、水着を着なかったらどうするのだ?)
(それは決まっているでしょう。スッポンポンですよ。それで二徹はメロメロ。間違いなく、奴は好き、好き、大好きでちゅうううう……と屈服します。これは完全勝利ですよ)
(ば、バカを言うな。そんな恥ずかしいことできるか!)
脳内に現れた小悪魔に怒鳴るニコール。だが、敵のトラップ地帯に敵に言われるままにするのも危険だ。
(そうですよ。スッポンポンなんてはしたいないです。こういう場合はバスタオルで体を包んで入るのですよ)
(そ、そうだよな。いくら夫婦でもベッド以外で裸というのは恥ずかしすぎる……恥ずかしくて死んでしまいそうになる)
そう天使ニコールのアドバイスでニコールは、服を脱ぐとバスタオルで体を包んだ。その色ぽい姿に二徹も流石に顔が赤らむ。そしてニコールをまともに見ることができない。
無論、夫婦だからニコールの露わな姿は見たことがないわけではない。しかし、露天風呂だとその色気はダイナマイト級。これはヤバイ。
(見ろ、二徹が照れている。初戦は我が軍の勝利だ!)
(大尉、我が軍は敵の前衛を突破。一気に行きましょう)
(うむ、一気にたたみかけるぞ!)
ニコールは初戦の好調な出だしに満足した。そして岩ぶろに足を入れる。じわじわと温かさが伝わる。これは気持ちがいい。そのまま、ゆっくりとしゃがむ。岩に背中を預けて足を伸ばす。
「ふう~っ……これは気持ちがいい~っ」
思わず声が出てしまった。疲れた体が溶けていくようだ。そこへ二徹が小さなトレーを持って現れる。ちなみに二徹は服を着ている。ズボンを折り曲げてはいるのは、湯船に入るから。中央にある平たい石にトレーに乗せられたものを置く。
「な、なんだ、それは?」
「アレンビー船長からもらった特上の日本酒だよ。そして、これはその肴」
日本酒は冷やしてある。大吟醸は冷酒に限る。湯船に入ってキンキンに冷やした大吟醸。想像しただけで酒好きならもう死んでしまうと思うところだが、初体験のニコールはあまりに無防備であった。
小さなガラスの器に入れられたピンとしたかぐわしい香りの酒に、つい不用意に口をつけた。
(うあああああああっ~)
口の中で広がる香り。ほのかな甘味とキリリとした辛味が一体となる至高の味。そしてアルコールが血流に回り、一気に脳へと侵入する。温められた体だから、いつもよりは酔いが早い。
(た、大尉、敵の逆襲です。突入した我が部隊、壊滅です!)
(我が軍の損害、甚大。士気が低下中です!)
「さあ、ニコちゃん、次はこのイカの塩辛を食べてよ」
二徹が差し出したのはドロドロしたオレンジがかった食べ物。ちょっと抵抗ある見た目であるが、二徹は白くて小さな丸いものを添えていた。これは『赤ちゃんせんべい』である。
赤ちゃんせんべい。
米粉と砂糖、塩で作る素朴なせんべい。味は淡白。口に入れると溶ける、離乳食を食べ始める赤ちゃんのおやつだ。
それにイカの塩辛をちょっと乗せて食べる。すぐに食べないとせんべいがふにゃふにゃになる。寿命は30秒もない。だが、その破壊力は恐ろしい。見た目はよいとは言えないイカの塩辛の見た目をどうにかしようとした二徹のアイデアであるが、味がほぼない赤ちゃんせんべいのパリパリの食感とイカの塩辛の濃厚な味。口に入れたニコールは悶絶する。
「うあああああ~。美味い、溶ける、そして体に染みる塩の味。もちもちしたイカの食感が心を溶かしていく……私の鉄壁の本陣が~」
「はい、ニコちゃん、冷酒をもう一杯」
二徹に勧められて、また冷酒を一口飲むニコール。そしてまたせんべいに乗せられたイカの塩辛。もう舐めるように味わう。目を閉じてこのまま水の奥底へ落ちていく感覚。それは心地よく身も心も委ねたくなってしまうもの。
(大尉、我が軍の主力も大混乱状態です……)
(大尉、ここは踏ん張り時です。でないと、ニコちゃんモードに堕ちます)
頭の中で必死に訴えかける小悪魔と小天使の副官。でも、ニコールの思考は完全に停止しつつある。もうこのまま、まな板に乗って、料理してちょうだいとお願いしてしまいそうなのを何とか精神を奮い立たせて持ちこたえる。
「ふぇ……ふぇ……もう、ダメだ~」
二徹が次の料理を持ってくる。それは鍋に入れられたもの。炭火の携帯コンロに乗せられている。
「メイン料理は金目鯛のしゃぶしゃぶだよ」
「ひゃ、ひゃぶひゃぶ?」
ろれつが回っていない。これは酔いというより、もはや風呂の気持ちよさとお酒とイカの塩辛で本陣まで崩壊中の証拠。そんなニコールへのとどめ。強烈な一撃である。
金目鯛のしゃぶしゃぶ。昆布と金目鯛のアラを置いて水を張り、そこへ日本酒をひと振りかけたものにゆっくりと火を通す。アラの旨みがじんわりと昆布の出汁に加わる。
「これは進化する料理なんだよ」
二徹は鍋に野菜を入れる。ネギに白菜、水菜である。まずは野菜から食べる。これは出汁を育てるため。野菜から出たエキスが出汁をさらに高貴な段階へと高める。これが進化だ。
野菜は二徹の特製のポン酢で食べる、シャキシャキした食感と出汁の味が口に広がり、さらにこのポン酢が体を覚醒させる。
「ふあああああっ~美味い、死ぬ。旨すぎるううう……」
「はい。今度は熱燗。あまりお風呂で飲み過ぎると良くないから、少しだけね。日本酒は温めても美味しんだよ」
ためらわず、注がれた小さな器で一気に飲み干すニコール。もう目からはピンクのハートが溢れんばかりだ。
(中央軍崩壊中!)
(近衛隊が突破されます~)
(ダメだ、踏み止まれ~っ。逃げる奴は斬る!)
本陣が落ちつつある状態。そして最後のダメ押しである。育てた出汁に金目鯛の切り身が浸される。それは熱を加えられ、ほんのりと色が変わり、脂が活性化して身をとろとろの甘味で満たす。それに特製のポン酢を漬ける。
「んん……んんん~っ」
口で溶ける。快感。まさに全身を震えさせる快感。
「ふあああああああああっ~」
(本陣、陥落~っ)
(全軍、総崩れです!)
目を開けたニコール。顔はほんのりと桜色に染まり、そして目はもうトロトロの色気に溢れている。
「ニ・テ・ツ~」
「ど、どうしたの、ニコちゃん」
給餌をしていた二徹に抱きついて押し倒す。湯船で全身ズブ濡れだ。
「私だけずるい、ニテツも脱いで」
「脱いでって……」
「お風呂では服は脱ぐものだ!」
「ニコちゃん、酔っている?」
「酔ってない。もう私の負けだ。全軍崩壊だ~」
「全軍崩壊?」
こくりと頷くニコール。
「お前が好き。大好き。もうお前のことを考えると頭がいっぱいでもうダメ」
もう可愛いというか、食べちゃいたいくらいのニコちゃんモード。二徹は岩風呂に腰を落とし、ニコールを抱き抱えるようにすると、右手でそっと可愛い頬に触った。
「僕もだよ。僕もニコちゃんが大好き」
「いいや、私の方がその3倍は好きだ」
「じゃあ、僕は10倍」
「うううう~っ。私は100倍、いや、1000倍好きだあああ~。うあああああん~」
感極まって泣き出したニコールの頭を撫でなでして、ニコールを抱きしめる二徹。二徹の胸にスリスリと顔をくっつけるニコール。そしてこれまでの経緯をポツポツと話す。
「ニコちゃん、バカだなあ。僕がニコちゃんに飽きるわけがないじゃない」
「だ、だって、あまり同じパターンだと飽きられるって聞いたのだ」
「僕はね……」
二徹はニコールの顎を右手でそっと持ち上げて、視線を自分に合わせた。
「毎日、目覚めた時に君を見て惚れるんだよ。いつも君に一目惚れなんだ」
「わ、私も、一緒だああああっ……」
お湯の中にぱらりと落ちるニコールのバスタオル。
が、夫婦のイチャコラタイムは無情にも終止符が打たれた。
すさまじい爆発音。お湯の表面にさざ波が立つ。そして同時にぶつかる音。
ドンガラガシャーン。
露天風呂の屋根を突き破り、そして黒い物体が落ちて湯船に落ちる。
ザブーン。
お湯が飛び散った。
「うあああああっ!」
「きゃああああっ!」
抱き合ったまま、湯船から立ち上がった二徹とニコール。
「うぐっ……」
プカ~っと浮いてきたのは人。小柄な男だ。手や足の隙間から2匹のムカデが絡みついた刺青が見える。
「また、貴様か~っ!」
「ニコちゃん、裸、裸!」
スッポンポンのまま、岩風呂から飛び上がり、置いてあった刀に手を伸ばそうとするニコールに二徹は注意する。二徹の方は幸い、まだニコールに服を脱がされていなかったが、ニコールの方はバスタオルが取れて湯船に浮かんでいる。
「わ、分かっている……お前以外に私の裸体を見せるものか!」
ニコールは二徹が用意したバスローブを急いで着る。その間に二徹は浮かんでいる男に近づく。
「おい、大丈夫か?」
この男は二千足の死神。凄腕の暗殺者だ。これまでも何人もの人間(ほとんど悪人)を殺してきた冷酷な男だから、注意を払う。状況から考えて、彼が屋敷に忍び込んでここへ落ちてきたというわけではなさそうだ。
「う、うう……」
どうやら、この暗殺者。先ほどの爆発音で吹き飛ばされてここまで飛んできたらしい。オーガスト家の敷地はそれほど広いわけではないが、それでも門からかなり離れている。凄腕の暗殺者が、ここまで飛ばされたということなら、相手も相当な使い手であろう。
「死神、殺す~っ!」
怒り狂ったニコールがじゃぶじゃぶと岩風呂へ入る。その音に反応して死神の意識が戻った。素早く、起き上がるとジャンプしてニコールの剣撃の射程外へと逃れる。
「待テ……今日ハ……悪事デハナイ……救イヲ求メルモノヲ案内シテキタノダ……」
右手を広げて抵抗しない意思表示をする死神。そんな言葉が耳に入らないニコールを二徹が制する。
「救いを求める者?」
「今、門ニイル……一応、追っ手ハ撃退シタ……ダガ、再ビヤッテ来ルダロウ。赤イマントノ恐ロシイ男ダ」
二千足の死神をして恐ろしいと言わしめる男だ。相当な手練なのだろう。その男と戦って二千足の死神は、ここまで飛ばされてきたという。
「救いを求める者とは誰だ?」
ニコールは刀を構えてそう問いかける。だが、二千足の死神は答えない。後退りをすると、そのままダッシュで門を飛び越えて脱出した。
「待て!」
追いかけようとするニコールを二徹は押しとどめる。バスローブを羽織っただけの半裸の妻を人目に曝すわけにはいかない。
「二徹様、ニコール様、大変です!」
家令のジョセフが駆けつけてきた。彼と一緒に来たメイにニコールの着替えを頼むと、二徹はジョセフと門へ駆けつける。そこには傷ついた猫族の老人とそれに寄り添う猫族の女の子がいた。
「だ、大丈夫ですか!」
「助けてたもれ、爺が死んじゃう!」
泣きじゃくる女の子。老人は肩から血を流している。銃で撃たれたような跡である。血は出ているが、ジョセフの応急処置で止血ができている。すぐに死んでしまう傷ではなさそうだ。
「こ、ここは……ニコール・オーガスト大尉のご邸宅でしょうか……」
「そうだよ。あなたは?」
老人は苦しそうに答える。
「私は……バクルー家執事、オイゲンと申します……この方は……ご令嬢のエリザベスさま……どうか……お助けを……」
やっと声を振り絞って老人はここまで答えて意識を失った。乗ってきた馬車は銃撃の跡が残る壮絶な状態であった。
「爺~っ。死んじゃ嫌じゃ。リズを一人にしないでたもれ~」
泣いてすがる女の子の頭を優しくなでる二徹。落ち着かせようと一つ一つの言葉を噛み締めるように女の子に言い聞かせる。
「大丈夫だよ。気を失っただけだよ。ちゃんと手当すれば元気になる」
「本当か?」
「本当だよ。ジョセフ、この方をベッドへ。リズちゃんも屋敷の中へ。もう大丈夫だよ。ここは安全だから」
二徹はそう言いながらも、暗がりを警戒する。あの死神をあそこまで追い詰めた奴が潜んでいるかもしれない。
やがて、ニコールの命令でAZK連隊から3個小隊が屋敷の護衛に派遣される。後に、オーデフ事変と呼ばれる大事件の始まりである。
*
赤いマントの男は気を失いそうになるのを必死にこらえていた。ポケットに忍ばせた着付け薬を震える手でやっと飲む。
「ぐっ……ううう……痛え……心臓がえぐらえる……」
首に受けた小さな傷は吹き矢で付けられたもの。強力な麻酔毒が塗られた矢は、通常の人間を一瞬で意識を失わせる。気を失えばあの恐ろしい男に意識がないまま、首をかき切られて殺されたに違いない。
無論、同時に自分が放った爆裂拳で吹き飛ばし、かなりのダメージを与えたはず。だが、あの死神はそんなことでは死んでいないであろう。目の前で首を切り落とさねば、あの男は殺せない。奴は死神なのだ。
「気を保つとはいえ、この薬は体を蝕む……」
毒には毒をもって制する。飲めばすさまじい激痛を全身に与え、心臓も止めかねない危険な薬であるが、二千足の死神の毒に対抗するにはこれしかない。
(猫姫は屋敷へ逃げ込んだようだな……ぐっ……いいだろう……今晩のところは見逃してやる。だが、絶対にあきらめないぞ……)
フェニックスと呼ばれるこの男は、どんな困難でもやり遂げる不撓不屈がモットー。これまで依頼された任務に失敗したことはない。
気を失ったら殺される状況から脱して、自分たちのアジトへ帰り着いたフェニックスは、3日間、動くことができなかった。それはフェニックスに手ひどい手傷を負わされた死神も同様である。火薬を仕込まれて爆発とともに衝撃波を放つフェニックスの必殺技のせいである。
「ウウウ……アバラ骨ガ折レタヨウダ……」
死神もオージュロー子爵家の屋敷へ帰り着いた。翌朝、ビアンカに窓ふきをしようとしたら、はしごから落ちたと報告したところ、
「さる吉、私は驚きました。サルも木から落ちるのですね」
そう嫌味めいたことを言われた。それでも医者を呼んでくれて治療までしてくれた。寝ているテーブルには、オージュロー家秘伝の打ち身薬とかいう軟膏が置いてある。ビアンカが持ってきてくれたのだ。これは塗ると清涼感があり、痛みを和らげてくれる。
「オ嬢ノオカゲデ……3日モ休メバ、動ケルヨウニナル……ソレハ奴モ一緒ダロウガ……」
死神の任務はまだ終わっていない。オーガスト家に無事に預けたとはいえ、フェニックスは恐ろしい男なのだ。きっとまだ諦めていないであろう。
*
「レオンハルト閣下、ニコール大尉から緊急要請です」
ニコールの副官シャルロット少尉が慌てて、レオンハルトの執務室を訪れた。レオンハルトはファルス市内の屋敷には戻らず、AZK連隊の基地である郊外の建物で過ごすことが多かったから、夜中でも幸いした。
レオンハルトはニコールからの手紙を読んですぐに命令を下した。これは国家を揺るがす緊急事態であると判断したのだ。
「うむ。急ぎ、3個小隊を大尉の屋敷へ派遣せよ。シャルロット少尉、君も小隊と共に大尉の下へ行きなさい」
「はい、連隊長殿」
シャルロット少尉は敬礼すると回れ右をして退室する。これは大変なことが起きる前段階であるとこの天然の副官でも分かった。ただ、自分に命令をした連隊長が、このことを予想していたどころか、知っていたことまでは考えが及ばない。
(ついに博打を打ったか、バーデン侯……)
ウェステリアの貴族の重鎮の一人。バーデン侯爵がゼーレ・カッツエで総統と呼ばれる事実上のリーダーであることは最高幹部の7人衆しか知らない秘密である。
(さて、俺はこれからどう動くべきか……。このウェステリアの運命を握っている立場としては、選択に悩むものだ)
ゼーレ・カッツエの最高幹部にして、それを討伐する実戦部隊3千人を率いるレオンハルト。彼の動き一つで大きくことは動く。この戦争の天才はこの時までは、世界の歯車が自分を中心に回っていると信じていた。
翌朝、王宮から緊急の呼び出しを受けるまでは……。




