イカの塩辛と迷走ニコちゃん
二徹の前にはイカが5杯置かれている。どれも午前中にミルルの魚屋で調達したものだ。イカはスルメイカ。ウェステリア王国の北部の海で採れるのだが、この季節は近海の沖合で一本釣りできる。どれもミルルの親父さんが釣った極上ものである。
「これをどう使うのですか?」
「ふふん……メイにはまだ分からないかもしれないけど、お酒のおつまみには最高の料理だよ。作り方は簡単だけど、時間はかかるんだ。今日は下ごしらえをするよ」
「お酒のおつまみですか?」
「うん。イカの塩辛って言うんだよ」
二徹は生まれ変わる間に料理修行で日本各地、そして世界を回っていた。今から作る特製のイカの塩辛は、漁師さんに教わった逸品である。
「まずは、肝を外すよ。潰さないように丁寧にやるんだ」
そう二徹は言って、メイに見本を見せる。イカのエンペラを下にして左の親指を胴の中へ差し込む。残りの4本指はイカを押さえる。そして右手で足を掴んで斜め上へ引き上げる。ズルリと足が抜けて肝も抜けてくる。
「こうですね……あ……気持ちいいですね」
ぬぽっと抜ける感覚が気持ちいいような、よくないような不思議な気にさせる。メイは器用なので二徹が教えたことを忠実に行い、難なくやってしまう。取った肝から墨袋を丁寧に取り除いた。
「次は足を切り落とす。切るポイントは目の上あたり。この料理、イカの足は使わないから、これは後で別の料理にしよう」
ザクッっと足を切り落とした。これを5杯分行う。取り出した肝は全部で5つ。どれもぷっくりと膨らんだ美味しそうな肝だ。
「ザルに紙を敷いたところに並べて、塩をたっぷりと敷く。ここに肝を破らないように転がして満遍なく付けるんだ」
白い塩がたっぷりと付着する。それを並べて更に塩で埋める。
「後は水が出るから下にバットを敷いて氷温庫に入れておく。1日は放置だよ」
「肝の塩漬けってわけですね」
イカの肝なんて捨てるのが普通だから、このように塩漬けにすること自体が珍しい。メイとしても初めての経験だ。
「そして今度は身の下ごしらえだよ」
そう言うと二徹は身に包丁を入れて開いた。そしてエンペラを上へ引っ張って剥がすとついでに皮をべろりと剥いてしまう。
「皮を剥くのがポイントだよ。剥いた皮の下の薄側も剥く。布巾を使って摘むといいよ」
「わあ~、面白いように剥けますね」
つつつ……っと薄皮がはがされていく。メイの手際は相変わらずいい。
「二徹様、どうして皮を丁寧に剥くのですか?」
「皮があると先ほど仕込んだ肝と混ぜた時にうまく馴染まないんだよ。あ、あと身の先と裾は硬いので切って捨てる」
「エンペラはどうしますか?」
「そこは食感が違うのを利用して使うんだ。コリコリして面白いからね。皮は一枚だけ剥けばいいよ。味よりも食感の違いを重視するんだ」
これは漁師さんから教わったことの受け売り。こういう素朴な料理は、漁師にように長年、その素材を扱っている人間の方がおいしく調理する術を知っているものだ。
二徹は捌いたイカに塩を振る。これは水分を出して下味を付けるためだ。そしてここからが工夫の真骨頂。細いロープと洗濯バサミを使ってイカを吊るす。3時間ほど干して乾燥させるのだ。こうすることで、後でイカの肝の旨みを染み込ませるのだ。
干し終わったら、氷温庫に入れて保存をしておく。今日はこれで下ごしらえが完成だ。翌日は塩漬けにした肝の仕込みが終わる。二徹は氷温庫からイカを取り出す。それを0.5ク・ノラン(約2.5mm)幅に切る。
この幅が重要で後の食感に関わってくるので、慎重に切る。肝と和えるとふやけて太くなるから、その計算もしておく。あと注意するのは水を使わない。水を使うとこの後の工程で腐ってしまうのだ。
「イカの肝の塩を拭いて、皮を剥くんだよ」
二徹はメイとともに、肝の処理をする。皮をむいた肝はザルを2重にした細かい目で漉すのだ。ドロッとした暗い橙色の肝がねっとりとボウルに落ちる。そこへ切ったイカの身を投入。ぐちゃぐちゃと混ぜてあとは氷温庫で3~4日寝かせれば完成である。
「二徹様、すごく手間がかかりましたね」
「イカの塩辛は意外と手の込んだ料理なんだよ。これでニコちゃんとお酒が飲めたら最高だね」
相変わらず、ニコールは二徹を避けるようにしている。ただ、二徹の観察によれば、それももう限界かなと思っている。今日の朝なんかは、パンを食べようとして手を伸ばし、皿のパンではなくて、ナフキンを手に取って食べようとしていたくらいである。
*
「大尉、ニコール大尉、何かお考えごとですか。先程から書類の決裁が滞っていますけど」
シャルロット少尉はそうニコールに注意を促す。ここ最近のニコールは様子が変だと感じていた。いつもはつらつと仕事をし、類まれな美貌で光り輝く存在のニコールが色あせているようにも見える。
相変わらず、見た目は美人だが完璧の3乗くらいの仕事ぶりであるのに、ここ3日では考えられないうっかりミスが散見した。
「そうだったな……」
「大尉、お体でも悪いのですか?」
「別に悪くはない」
「ですが、最近、様子が変ですよ……ああっ!」
シャルロットは何かを思い出したように両手を頬にあてた。
「大尉、もしかしたら、ご主人と喧嘩してしまったのでは?」
「な、何を言うか、急に!」
ニコールはひどく慌てた。喧嘩はしていないが、原因は夫婦関係であるのは間違いがないからだ。
「大尉、喧嘩をしても大丈夫ですよ。大尉の方から、『ごめんなさい、私が悪かったです。お詫びに私をた・べ・て……』といえば解決です」
「ば、バカを言うな。そんな恥ずかしいこと言えるか。それに二徹とはケンカなどしていない」
「そうですか~?」
疑わしそうにそう尋ねるシャルロット。喧嘩はしていないが、間違いなく夫婦感での問題が影響しているらしいと気づいたようだ。
「大尉、ここは同じ女同士。相談に乗りますよ」
シャルロットはそう言って胸を叩いたが、ニコールはこの方面においてシャルロットの能力を知っている。その能力は実践の伴っていない教科書レベル。いや、人から聞いただけの不確かな情報レベルだ。だが、ニコール自身もこの方面の知識については、シャルロットよりも劣っている。何しろ、恋愛経験は夫の二徹だけという、純粋純潔の嫁なのだ。
実践という点では、ニコールの方が圧勝ではあるが。
(ううむ……。家で夫に甘えているなどということを、この娘にしゃべったら私の威厳がなくなる。悪い子ではないが口の軽さでは迂闊なところがあるからな……)
ニコールは思案する。だが、ここ最近の不安を誰かに話さないと精神衛生上よくないことは分かっている。ニコールはコホンと1つ咳払いをした。
「これは親しい友人の話なのだが……」
「ふむふむ……」
疑いもせず、ニコールの話に耳を傾けるシャルロット。
「その夫婦は、外面は普通を装っているのだが、家ではその……イチャイチャと仲良くしているのだが、あまり仲良くしすぎて、このままだと飽きられてしまわないかと私に相談があったのだ」
「へえ……」
シャルロットはバカではない。親しい友人と聞いた瞬間に(これは大尉のことだろうなあ)と直感した。こういう直感は鋭いのだ。それでもシャルロットは顔色を変えなかった。
しかも、この話は先日に近衛隊の先輩から聞いた話にそっくりなのだ。
「で、私としては飽きられるから、その友人にイチャイチャするのを辞めたらどうだとアドバイスしたのだが、その友人は我慢ができないというのだ……」
「はあ……」
「こういう場合の助言はどうしたらよいのだ?」
「そうですね……その友人はもちろん女性ですよね」
「もちろんだとも!」
「ふむふむ……聞いているわたしの心に悪魔が現れています。そしてそいつがこういうのです。『それって、オノロケだよね。自慢だよね。もげろって感じだよ』ああ、これはあくまでも、悪魔が言っているのですよ。悪魔だけになんちゃって……」
「のろけているって!?」
ニコールの声が裏返る。そんなつもりは全くない。自分は本当に悩んでいるのだ。
「大尉、敵陣を突破して殲滅する作戦があったとしましょう」
シャルロットはニコールにもわかりやすく、戦場を例に今の悩みを解説する。
「敵陣に同じ攻撃を仕掛け続けると、確かに敵にはその対処法ができて対抗手段ができるから、同じ攻撃は通じないことありますよね」
色恋沙汰の話から急に戦場の話になったので、ニコールの顔は真剣になる。同じ攻撃しかなければ、当然、それに対する防御体制が構築される。攻め落としにくくなることは間違いがない。
「そういう場合は、当然、違う攻め方をするだろう」
「そうですよね。そして違う攻め方もするけれど、もし、圧倒的な力があればどうします。敵もどんな防御体制をしても力で突破できる場合は?」
「そんなのは決まっている。圧倒的な力でねじ伏せる」
「はい。答えは出ました。大尉というか、そのご友人は圧倒的イチャイチャで飽きるなんて思わせなければいいと思います」
「あ、圧倒的なイチャイチャだと!」
戦場なら理解できる。例えば、混乱状態の歩兵部隊に対する装甲騎馬兵による突撃。自分が指揮すれば、その圧倒的な力でねじ伏せられる。だが、それが夫婦間の営みとなるとどうすればよいかは全く分からない。
「例えば、普段よりも色っぽくとか、積極的にボディタッチとか、こっちから襲っちゃうというのもいいかもです」
ここからはシャルロットは適当である。圧倒的なイチャイチャなんて、彼氏いない歴19年の彼女には全く想像ができない。
「こ、こっちから襲ってしまうだと、ば、馬鹿なことを言うな。そんなこと恥ずかしくてできるわけがない!」
「それをするのはご友人でしょ?」
「あ、そうだったが、きっと彼女もそう言うに決まっている」
ニコールは慌てた。これが自分のことだとバレたら、恥ずかしいどころではない。
「そうですかね……ああ、そういえば、第4小隊のマックニール中尉の奥様、実家から帰ってきたそうですよ。ちょっと、離れただけで恋しくなってしまったそうで、もうマックニール中尉、また惚れ直したと言って毎日早く帰っているそうです。心配していた周りはやけ酒を飲む会をやったそうです」
「そ、そうか……そうだよな。それはよかった」
ニコールはそう答えたが、心がこもっていない。もし、自分をそれに重ねたのなら、少し引っかかるところがあるのだ。
(そうだ、大体、二徹の方に主導権があるのがいけない。マックニール中尉の場合、飽きたと言った奥さんの方がたまらず折れたのだから、私の方も二徹が先に言うべきだろう。ここ数日、二徹の方も私に触れてこないし、愛を囁くこともしない……いつも私の方が言わされているのだ)
腕組みをして深刻そうに考えるニコール。考えすぎて、壮大な迷走に突入している。自分が自重していたのに、二徹が平然としているのが許せなくなったのだ。
(二徹の方から、もう我慢できない、ニコちゃん、愛しているよ~っと言わせないといけない。これは勝負だ、戦争だ!)
「大尉、何を考えておられるのですか?」
何やら、深刻そうな顔からニヤニヤ顔になったり、また厳しい表情になったりとくるくると変わるニコールにシャルロットは少し心配になったが、結論が見えるだけにこれ以上は首を突っ込まないことにした。
(突っ込んだって、たぶん、当てられるだけですよね~)
有能な副官はそう判断したが、それは間違ってはいないだろう。
「よし、敵を誘導してのそのそと出てきたところを一挙に殲滅する。うむ、これしかない。これだったら、永久にこちらの勝利だ」
その勝利が何につながるのかは、ニコール本人も分かっていない。




