『好き』を封印
「今帰ったぞ……」
愛馬から降りて玄関に現れたニコール。今日も遅くて帰宅時間は、夜の10時を過ぎている。上着を家令のジョセフに渡して玄関ホールへと歩いてくる。二徹はいつものように出迎える。
「お帰り、ニコちゃん」
「あ、ああ……」
何だか朝出勤した時と違う雰囲気をニコールに感じた二徹であったが、シャワーを浴びるか、それとも食事にするかを尋ねる。
「夕飯はいい。今日もシャルロットと食べた。最近、ゼーレ・カッツエの動きが活発化していて仕事が多くてな。二徹も私に構わず、寝ていていいのだぞ……」
「そんなことできないよ。ニコちゃんが頑張って働いてくれているのだからね」
「そ、そうか……」
夕食はいらないとは言ったが、夜食に軽めの軽食と暖かい牛乳を用意しておく。暑いシャワーを浴びて部屋着で出てきたニコールにそっと差し出す。
「お疲れ様。今日、お酒はどうする?」
「酒か……」
「実はアレンビーさん経由で日本酒のいいのが入ってね。大吟醸といって、お米を削って良い部分だけを使ったお酒だよ」
ハポン酒。はるか東方のハポンという島国で手に入れた酒。米を研いて作る酒である。特に大吟醸と呼ばれる酒は選りすぐられた米を削って、より香りの高い部分を使うことでできた酒に素晴らしい香りと風味を得ることができる。
二徹からすれば日本酒で、料理に使えることもあるが、ピンとした果実酒のような香りの大吟醸と呼ばれるレベルの酒は滅多なことでは手に入らない。
それが手に入ったのだから、酒好きで特に日本酒や焼酎にはまっているニコールに勧めたのだ。
「な、なんだと……日本酒の高級酒だと……」
ピクピクとにやけそうな顔を引き締めようと努力しているニコール。目を閉じて何だか考え事をしているようだ。
(ニコール、二徹がせっかく用意してくれたのだ。ここはキュッと飲むべきだ)
(いやいや、それを飲んでしまうと制御ができなくなるぞ。また、好きを連発する醜態を晒すことになる)
(醜態って、何だ。夫に好きというのは当然だ)
(だ・か・ら……飽きられてしまうと言っている……ここは我慢だ、ニコール!)
「今日は遠慮しておく。夜食もいい。すまない、準備をしてくれていたのに」
「いいよ。体調もあるからね。じゃあ、今日はもうベッドへ行く?」
「うむ。今日は寝る」
「じゃあ、お休みなさい……」
ニコールと二徹は夫婦だから、当然、ベッドは1つで一緒に寝る。いつもは二徹に寄り添って寝ているのだが、片付けを終えた二徹がベッドに入ろうとすると大きなキングサイズのベッドの隅に包まって寝ている。
しかも背を向けたままだ。
(なんだか、ニコちゃんの態度が変だな。何か怒らせちゃったのかな?)
夫婦で10年以上付き合っていたから、二徹はニコールの性格や行動パターンをよく知っている。何か不満なことがあればちゃんと口に出すのがニコールの性格だ。となると不機嫌というわけではなさそうだ。
背は向けているがまだ起きている感じがしたので、二徹はそっと聞いてみる。
「ねえ、ニコちゃん、今日、お仕事で何かあったの?」
「べ、別に……そうじゃない」
「ふ~ん。そうなの……」
「あ……あの……だな……」
「何?」
「私は自分を見直すことにする。家で二徹に甘えていては、ウェステリア軍人として沽券に関わる」
「そうなの? 家ぐらいは素直なニコちゃんになった方がいいと思うけどねえ」
「と、とにかく、甘えるのは封印だ。お前のことをす……す……」
「す?」
二徹は向こうを向いたまま、ギュッとシーツを掴んでいるニコールに優しく聞いてみた。ニコールの言いたいことは理解できている。
「好きというのは、私の方からは言わない。滅多に言わないから」
「?」
「1年に1,2回にするから!」
またまた、キュッと体全体を丸めてそう叫ぶニコール。
「ふ~ん。なんだか、分からないけど。それは残念だなあ。ニコちゃんに毎日、言ってもらえると僕は嬉しいけどね」
なぜ、そんなことを言い始めたのか二徹はちょっと疑問には感じたのだが、ニコールの性格をよく知っているから、ここは彼女の好きなようにさせようと思った。
「じゃあ、よく眠れるように頭を撫でなでしてあげようか?」
丸まったニコールの背後からそっと寄り添うように抱きしめようとする二徹。こうするとすぐにニコールは深い眠りに落ちてリラックスできるのだ。だが、今日はイヤイヤをする。
「わ、私に優しくするな!」
ここでそんなことをされたら、間違いなく『ニコちゃんモード』に突入してしまう。そうなったら、『好き、好き、大好き~』と間違いなく連発してしまうだろう。ここは耐えるニコール。
「そう……じゃあ、お休みだね」
何だか、愛妻がめんどくさい女になった感じであるが、二徹の懐の深さはそんな彼女もいつも受け入れる。ニコールは思わず、体を反対側に向けて二徹の懐に潜り込んで抱き合って寝たい衝動に襲われたが、両腕を交差させてがっしりと体を押さえ込んだ。
「ああ、そうだ。例の庭にお風呂を作る話だけど、明日から工事に取り掛かるよ……」
二徹が話題を変えようと庭の一角に露天風呂を作る計画が実行段階に移ったことを話したが、ニコールは耳をふさいで眠ろうと努力していたので耳に入ってこない。やがて疲れきった体が精神を侵食し、そっと眠りに身を委ねたのであった。
*
翌日も何だかぎこちない感じで出勤して行ったニコール。送り出したメイはいつものニコールと違うので、怪訝な顔をしている。
「二徹様、ニコール様と喧嘩でもなされたのですか?」
「いいや。何だか、ちょっと機嫌が悪いというか、僕を避けている感じなんだよ。別に悪いことしてないと思うけどね」
二徹には心当たりはない。それはそうだ。あくまでもニコールの問題。原因はあまりイチャイチャすると飽きられると思い込んでいるところから来ているからだ。
「まあ、数日で解決できると思うけどね。今日から露天風呂の工事が始まるからね」
「楽しみですね」
ウェステリア王国のお風呂事情は、庶民は基本的にシャワーのみ。裕福な家庭や貴族はバスタブがあって、そこにお湯を張って入る。そこで体を洗うスタイルだ。生前に日本人としての記憶がある二徹は、ここへ日本式のスタイルを導入しようと計画したのだ。
オーガスト家の敷地の地下には、ミネラル分たっぷりの地下水があることが分かって、それを組み上げ、タンクで湯にして湯船に供給する仕組みを作る計画だ。
庭の一角に囲いをして、石造りの小さな浴槽と特注で作った大きな壺に湯を張る壺湯の2つがある露天風呂を作るのだ。既に地下水を組み上げるシステムとお湯を沸かす施設は作ってあるから、今日から浴槽の設置工事にかかる。1週間もすればウェステリアで初めての露天風呂が完成する。
「露天風呂ができたら、ちょっとやってみたいことがあるんだよ」
「やってみたいことですか?」
「お風呂でお酒を飲むことさ。酒のつまみに日本酒なんて最高だと思わないかい?」
この二徹の言葉はまだ子供のメイに2つの点において不適切な要素を含む。まずは、お風呂でお酒を飲むのが最高かどうかは全く想像もつかないこと。もう一つはお酒を飲むシュチュエーション。どう考えてもニコールと一緒にお風呂に入るということだ。
(そ、それは……二徹様とニコール様は夫婦ですから、は……裸になって一緒にお風呂に入ることは別にいけないことではないですけど……)
そんなことを想像するだけで顔が赤くなるメイ。おこちゃまには刺激が強すぎるだろう。
ちなみにウェステリアでは夫婦でも一緒にお風呂に入る習慣はない。これは単純に施設が二人用ではないからなのだが。
「メイ、学校から帰ったら、イカを使った料理を作るからね」
「イカですか、それは楽しみです」
「その料理は仕込みに時間がかかるからね。ちょうど、露天風呂の工事も完成する頃に合わせられるからちょうどいい」
ニコールの態度は気になるが、そのイカの料理と露天風呂が完成する頃にはいつものニコールに戻っているだろうと二徹は楽観していた。ニコールのことは、よく理解しているのだ。手のひらで転がすように愛妻を扱うのは得意なのだ。




