魅惑の食前酒
「まずは、これを飲んでよ。食前酒」
「なんだ、これは?」
二徹が差し出したのは細長いグラスに入れられた透明な液体。リンゴのスライスが飲み口に差し込まれている。
「これはアピのようだが……」
「まあ、飲んでみてよ」
恐る恐るグラスに口をつけたニコール。
「ん?」
アピのほどよい酸味が口の中に広がる。そのあとにポッとアルコールが小爆破する。カーっと体が熱くなるのを感じる。
「これはアピの酒か?」
「アピ(リンゴ)の汁と焼酎を混ぜたリンゴチューハイだよ」
「リンゴチューハイ?」
「とある国ではアピのことをリンゴというんだよ」
二徹がニコールに前世でのことを話すとき、面倒なので『とある国』と説明している。自分が日本で和食職人を志していた若者の生まれ変わりで……なんて話しても、簡単には理解してもらえないので、そんな答え方をしている。
「チューハイとはなんだ?」
「焼酎をジュースなんかで薄めた飲み物だよ。焼酎は、麦や芋なんかから作る蒸留酒。アルコール分が高いけど、香りが豊かなお酒になるんだ」
「ふむふむ……。変わった酒だ。口当たりがよくてどんどん飲める」
グラスは比較的小さいものであったから、ニコールはキュッと全部飲んでしまった。
「食前酒だから、これでおしまい」
「そんなこと言わず、もう一杯……お願い……」
言葉遣いから、もう仮面は脱ぎ捨てて、素直なニコールの素顔が出ている。ニコールの顔がほんのりと桜色になっている。二徹はあまり酒に強くないが、嫁のニコールはかなり強い。普段はあまり飲まないニコールであるが、ここぞという時には男性顔負けの飲みっぷりを披露する。この特製の食前酒は、アルコール度数の強い焼酎をアピ(リンゴ)のジュースだけでなく、水でも割ってあるから2杯では彼女が酔っ払うまではいかないだろう。
「じゃあ、もう一杯だけ」
二徹は氷の入った箱を開けて、グラスに放り込むとリンゴの絞り汁を入れて焼酎を入れる。さらに水で割った。カランカランとガラス棒で撹拌する。
「はい。これと同時に料理もどうぞ」
「うわ! 美味しそう」
二徹が皿に盛ったのは、『豚肉とジャガイモ、リンゴの蒸し煮』である。この世界風に言うなら、『ブル肉とタルロ、アピの蒸し煮』である。
「どうぞ、召しませ、奥さん」
「お、お肉がやわらか~い」
ナイフで肉を切るニコール。力を入れなくてもサクッと切れる柔らかさ。丁寧に処理して煮込んだからこそできる食感である。
「はふっ……タルロもほこほこ……そして、アピが甘い~」
「アピ(リンゴ)は熱を入れると甘くなるんだ。元は酸っぱいのに不思議だね」
「それにしてもこのお肉、いつも食べているけど美味しい。二徹はいつも美味しい肉を買う。こんな美味しい肉は滅多にお目にかかれない。よほど、新鮮なんだな」
ニコールはそう二徹を褒める。肉は二徹がこだわって仕入れている。しかし、新鮮というわけではない。
「ニコちゃん。お肉は新鮮じゃない方が美味しいんだよ」
「え? 嘘。古い肉じゃ臭みがあるだろ」
「そうでもないんだよ。肉は殺してすぐのものは美味しくないんだよ」
「でも、これは臭みもないし、古い感じはしない」
「ふふん。これはね。殺して枝肉にしたものを山の頂上にある雪の中に埋めて、1週間寝かしたものなんだよ」
「え、えええ~っ! い、一週間も!」
ニコールが驚くのも無理はない。一週間も放っておいたら腐る。だが、雪の中に埋めるのなら別である。二徹は日本で武者修行していた頃、ジビエ料理を研究したことがある。鹿や猪を獲る猟師の中に、獲った鹿をその場で解体して雪の中に埋める人がいた。1週間ほど寝かすと肉が熟成してとてつもなく味が良くなるのだ。
そんな知識をもっていたから、この世界で同様に肉を熟成している人間を見つけた時に、二徹はよき理解者になっていた。値段は少々高いが味の差は歴然である。量が少なく、また二徹だけでなく、美味しさに気づいた他の料理人が同様に仕入れているから、いつも手に入るとは限らないが。
「はう~っ。美味しい~。私は……もうたまらない……」
いつもきりっとしているニコール。今日も二徹の料理にメロメロである。おまけに口当たりの良いリンゴチューハイと肉料理に心が溶かされてしまっている。
「ニコちゃん、お酒は2杯までだよ」
「そんな~。こんな美味しい料理にこのお酒は反則だ。もっと欲しい~」
だだをこねるニコール。二徹はやれやれと両手を広げた。それでも妻に弱い二徹は、もういっぱいだけグラスにチューハイを作る。カラカラとガラス棒で撹拌して、愛妻の前に置く。そして、ニコールが酔っ払う前に彼女の悩みを聞こうと話を振った。
「それよりもニコちゃん。何か仕事上のことで僕に相談があるんじゃないの?」
「え、な、なんでわかる?」
「そりゃ分かるさ。いつも君を見ているからね」
二徹の言葉に(かあ~っ)と顔が赤くなるニコール。お酒のせいではない。
「も、もう……二徹、大好き~っ」
今日も完全に陥落。そのまま、ありのまま。いつになく、甘えん坊になってしまったニコールから、相談事を聞き出す。実のところ、部屋に入る前の難しそうな表情を見たときに、二徹にはニコールの気持ちがおおよそ分かっていた。ああいう顔の時は、大抵、仕事で行き詰った時なのである。
二徹に言われて、今日あったことを話すニコール。作戦内容はいくら夫でも守秘義務があるから話さなかったが、オズボーン中尉の態度を事細かに話す。
「なるほど。オズボーン中尉は相変わらずだね」
「そ、そう思うだろ。あの男、イヤミ臭いったらありゃしない。元々アイツは、士官学校の時からそういう奴。いつも私には意地悪なことばかり言うんだ」
職場では人の悪口を決して言わないニコールだが、二徹の前ではこのように結構弾ける。そうじゃないと体だけでなく、心も疲れてしまう。そういうところもほぐすのが専業主夫の務めでもある。それに同じ男だけに、そのオズボーン中尉の気持ちも理解できるのだ。二徹は妻に助言をする。
「まあ、ニコちゃんのお怒りは分かるけどね。オズボーン中尉の気持ちになると、分かることもあるよ」
「ど、どんなこと?」
「男だからね。女の子に言われると素直になれないんだよ。プライドとか、カッコ付けとかあってね」
「そんなの勝手だ。職務に男とか女とか関係ない」
「そうなんだけどね。人間、分かっちゃいても感情は制御できないものなんだよ」
「そんなものなのか?」
二徹は皿の上のリンゴを指差す。
「このアピはとっても酸っぱくって、そのままじゃ食べられないけど、熱を入れると甘く変化するんだよ。酸っぱければ、酸っぱいほど、具合がいいんだ。オズボーン中尉は今の状況じゃ、全く使えないけど、うまく煮込めば使える人材じゃない?」
「そりゃそうだけど」
「使えるように料理するのが、隊長でしょ」
「……じゃあ、私は彼を説得するためにはどうすればいいのだ?」
「可愛くお願いすればいいんじゃない?」
「嫌! そんなのガラじゃない」
「僕も男とか女とかで差別するつもりはないけどね。性差はあるのは事実だからね。それぞれの特性を生かしていくことは悪いことじゃないと思うんだよ」
「でも、女だから可愛くって変だ」
「うう~ん。言葉足らずだったかな。素直にお願いするということだよ。ニコちゃんが素直にすれば可愛いということ」
「なっ……なに言ってるのだ……もう、変なこと言う!」
「もちろん、甘えた感じじゃないよ。ニコちゃんが甘えるのは僕だけってことで、他の男に媚を売っちゃダメだよ」
「わ、私はこんな姿は職場では絶対見せない……見せるのは……」
「見せるのは?」
オウム返しで聞き返す二徹。ちょっと、意地悪な感じだが。ほろ酔い加減のニコールをちょっといじめたい。
「ううう……。二徹だけ! 私が甘えるのは二徹だけ!」
そう言って照れ隠しのために、ニコールは二徹の懐に飛び込む。ゴロニャン状態である。愛しい妻をそっと抱きしめる二徹。
「明日はオズボーン中尉に素直にお願いして、彼のことを褒める。これできっと上手くいくよ」
「わ、分かった……やってみる」
「がんばってね、ニコちゃん」
「うん。頑張る。けど……。今晩、私が二徹に思い切り甘えたい。甘えてもいい?」
「しょうがないなあ……」
妻の頭を撫でなでする二徹。いつも厳しい仕事で気を張っている妻をリラックスさせるのは夫の勤めであろう。




