外交官特権
フランドル大使館の周辺は物々しい警護が展開されていた。300名のAZK連隊の兵士が守備をしていたからだ。周辺の道路は封鎖され検問が行われ、アリ一匹も通過することはできない体制であった。
しかし、その包囲の一角をオルグレン司教とエイトン伯爵を乗せた馬車が突破した。最初の検問は旅用の都市間連絡の馬車を装ってフランドル大使館のあるエリアに入り込んだのだが、さすがに第2検問はチェックが厳しいために、比較的手薄な通路を強行突破したのだ。
だが、AZK連隊はこれを追跡し、ついに大使館前の道路でこの馬車を捕捉したのだ。
「オルグレン司教、エイトン伯爵。あなた方は完全に包囲されています。頭の上に両手を乗せて出てきなさい!」
シャルロット少尉がそう降伏を呼びかける。周りは300名の兵士が取り囲み、銃撃を辞さない体制。もはや逃亡に使った馬車は、片車輪が破壊されて動くことができない状態である。
ドアがゆっくりと開いて、オルグレン司教とエイトン伯爵がゆっくりと出てきた。どうやら、観念したようだ。
「大尉、容疑者がここへ来るとの判断が的中したようですね。さすが大尉です」
白馬に乗って指揮するニコールに、シャルロット少尉は本当に仕事のできる女性だと感動していた。ニコールはAZK連隊の参謀であるが、実質的には部隊の実行部隊を指揮しており、今回も2千人を超える部隊の配置とこの大使館前の6個小隊を自由に扱っているのだ。
この前までわずか50人の兵士を指揮する小隊長とは思えない指揮ぶりだ。
「シャルロット、まだ油断するな。完全に両名を捕らえてからだ」
ニコールはそう言って、兵士にすぐ両名を逮捕するように命じた。なんだか、嫌な予感がしてきたのだ。オルグレン司教とエイトン伯爵がここへ来ることは予想していたが、肝心のフランドル側の動きがここまでなかったからだ。
(おかしい……そろそろ動き出す頃だが……)
動かなければそれに越したことはない。だが、ニコールの予想は残念ながら当たってしまった。フランドル大使館の重厚なドアが開き、そこから馬車が走り出たのだ。
この馬車に対して、ウェステリア王国の軍隊は手出しができない。外交官が乗る馬車は金色のプレートを付けている。これは治外法権の印なのだ。そして、その馬車は真っ直ぐにオルグレン司教たちのもとへと進む。
「しまった、その手があった!」
ニコールにはフランドル大使館の狙いが分かった。だが、その馬車と容疑者までの距離はおよそ30m。横倒しになった辻馬車に横付けしたフランドルの特権馬車は、ドアを開く。
「早く、中へ!」
鋭く叫ぶ男が一人出てきた。白銀の髪をオールバックにした中年紳士。片眼鏡と黒い上着と黒いズボン。金時計の鎖がきらりと光る。その声に慌てて馬車へと乗り込む2人。
ニコールとシャルロット少尉らが馬で駆けつけた時には、既に2人はフランドル王国の馬車の住人となっていた。
「待て!」
ニコールは馬車の前に立ちふさがる。中年紳士は勇敢にもその馬車の前に立ちはだかる。
「この部隊の指揮官か、名を聞こうではないか」
白銀の紳士はニコールに向かって右手を突き出した。その姿は堂々として落ち着いており、馬の威圧にも一歩も引かない。
「AZK連隊参謀、ニコール大尉だ」
「吾輩はジェファーソン特命全権大使だ。大尉は知っていよう。この馬車は条約によって、外交特権を保持している。速やかに道を開けたまえ」
(くっ……)
「大尉、やっちまいましょう。こちらは300名。奴らは馬車1台に御者1名。犯罪者2名と敵国の外交官1名ですぜ」
そうけしかけるのは、カロン曹長。黒い大きな馬に乗ってニコールの後ろからそう進言した。だが、ニコールはその命令を出すことはできない。命令の代わりに隣に騎乗しているシャルロット少尉にこんなことを問うた。
「シャルロット、エルジェット条約における外交特権を説明してみろ」
「は、はい……。各国の大使館は特権によって守られています。主権はその大使館の国にあり、敷地内は領土と同じです。許可なければ、立ち入ることはできません」
「その特権の拡大範囲は?」
「え、えっと……」
ニコールはため息をついた。シャルロットに聞いたのは、カロン曹長に知らせるためなのだ。
「特権はその国大使館職員とその家族自身に及ぶ。そして許可された馬車も対象だ……」
カロン曹長の顔がみるみると青ざめる。
「と、いうことは……隊長……じゃなかった参謀閣下。つまり、馬車に入ったテロリストの首謀者どもを逮捕できないというわけですか?」
「そうだ。実行すれば宣戦布告と同じ意味だ」
カロン曹長もやっとわかったようだ。ニコールは馬車の行く手を開けるよう部下に命じる。300人の兵士はさざ波が引くように道を開けた。
「これは、これは、よく物事がわかっている指揮官だ。女性なのに感心なことだ」
そう言うとジェファーソン大使は馬車に乗り込む。そして悠然と兵士の道を大使館目指して馬車を進めた。そして門をくぐると窓を開けて、ニコールに向かって顔を出した。
「お役目ご苦労さま、ニコール大尉。そういえば、近々、大陸からのお客様をもてなす祝宴があるとのこと。私も招かれる予定です。あなたも是非、一緒に来てもらいたい。そのときは、そのような無粋な軍服ではなく、素敵なドレスでお願いしますよ。はっははは……」
高笑いをして中へと入っていくフランドルの大使。なすすべなく、それを見守るニコールたち。大きな門がゆっくりと閉じられた。
ガツン……。馬上から扉に近づき、拳を叩きつけたニコール。その怒りは静かに燃え上がる。シャルロット少尉が馬で近づき、ニコールを慰める。
「……仕方ないですよ。これは私たちAZK連隊の範疇を超えています。どうやら、今回の事件はフランドルが黒幕だったようですね。ここからは、外務省の仕事ですよ。外交ルートで容疑者2名の返還を求めるしかありません」
「ふん……。奴にはいずれ借りをきっちり返してやる予定だ。私の夫の料理でぎゃふんといわせてやる。それよりも……」
「それよりも?」
「いや、なんでもない……」
(それよりも、容疑者2名をここまで侵入させたのが問題だ。こちらの配置情報が事前にバレていたとしか思えない……)
ニコールにはその情報を漏らした人物が誰かおおよそ分かっていた。しかし、それを口に出すことはなかった。




