03-17 大精霊テック その5 【注:R15】★
主人公が精神的に追い込まれます。そこそこキツい表現があるのでご注意ください。
その場合、03-18 大精霊テック その6 にお進みください。
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ハア……ハア……。
……夢か。
夢だったのか。
いや、どんな夢だったのか……赤い髪の女……。
惨い夢だったのだろう、びっしょりと汗をかいている。
確か、病院に入院していて、注射を打たれて……。
ああ、そうだ。あの綺麗な看護師も夢に出てきて、一緒に磔にされてたっけか。
どっちが先だっけか? 思い出そうとすると混乱してしまう……。
ん?
―― ハッと気が付いた。
あれ?
ここは?
音が聞こえる。
車の走行音か。
辺りは夜なのに、周囲は明るくて黄色い光で包まれている。
少しの混乱。
夢を見ていた? 幻覚か?
さっきまで見ていた夢? いや幻が心に突き刺さって、ショックから立ち直れずにいたけれど、ここには歩道があって、鉄の欄干があって黄色い光でぽつーんと照らされている。
いまアリエルを照らし出しているのは、鮮烈に記憶に残っている黄色のナトリウムランプで、ここは家の近くの街道だった。
思い出したように、慌てて左手を確認してみる。
あった。手があった。
動く、感覚もある。
釘を打たれた痕もない……。
左足は? 踏んでみる。バタバタと左足で、舗道を踏んで感覚を確かめたが、足首から先もちゃんとついてて、思ったように動かせる。
ああ、良かった。
どこまでも深い絶望を見た。
本当に夢で良かったと……、心底そう思う。
そうだ。ここにはもう一人いたはずだ。
ハッと左を見るちゃんとそこにいた。
すぐ横に、上目使いでこちらを観察するように見つめる黒い瞳の少女は、少し不機嫌そうにしながら、次の言葉を待っているようだ。
美月だ。よかった、まだ間に合う。
「えっと、俺たちさ、どんな話してたっけ?」
「え? どうしたの? 深月が卑怯者だって話」
美月はちょっとむくれたような口調で言った。ああ、なるほど。もうそんなとこまで話が進んでるのか。その次はどんな話になったっけ? もういいや、そんなこと考えなくても信号と横断歩道が近づいてくる。
確か、ここを渡ろうとして事故に遭うんだ。
「そうだ。俺は卑怯者なんだ。だけどね、もし許されるならずっとここにいて、美月の顔をみていたいよ。そして、願わくばずっと、ずっと……」
ここで告白したいのは願望だ。この話の続きをしたくて、アリエルは日本に帰りたかった。
だけど、すぐに死んでしまうような男の告白を聞いた美月はどうなる?
嵯峨野深月は、この後の人生を生きちゃいない。ここで死んだんだ。
……そう、もうすぐ。
美月はきょとんとした表情で話の続きを待ってる。
嵯峨野深月という男は、美月が弱ってるときだけ優しい言葉をかけてくれる卑怯な男だということは知っていたけれど、でもまさか、今このタイミングでそんな愛の告白めいたセリフを言われるとは思ってなかったので何と返せばいいのか分からないでいる。
「ほら、美月、靴紐がほどけてるよ」
そういって深月は、街道を絶妙のタイミングでトラックが突っ込んでくるのを確認したあと、しゃがみ込んで靴ひもを結び直す美月を確認すると、覚悟を決めて横断歩道に飛び出した。
アリエル。いや嵯峨野深月はもうこの時を生きた。
確かにこの続きをやりたいとは思っていた。だけど違う。違うんだ。
「俺は思い出を繰り返すため過去に戻りたいわけじゃない! 一緒に未来を生きるため、日本に帰るんだ!」
一瞬のことだった。
「兄さま、諦めちゃダメ。諦めちゃダメなの!」
パシテーだ。
目の前にパシテーが立ち塞がり、両手を広げて嵯峨野深月が飛び込むのを止めたのだ。
景色がスローモーションになる。
トラックがノーブレーキで突っ込んでくる。一瞬運転手を見えた。
スマホを操作しているのかあの野郎、真っ暗闇に運転手の顔だけが浮かんでる。前を見ていない!
手を伸ばす。
だが届かない。
「パシテエェェェ!!」
―― ドン!
嵯峨野深月は飛び込んでパシテーに手を伸ばしたけれど……、届かなかった。
激しい衝突音がして、ダンプトラックがそのまま通り過ぎると、パシテーの姿はそこになかった。
深月が事故に遭うのを目撃し、靴ひもを結んでいたせいで助けられなかった常盤美月の無念が、いかほどのものだったのか。いまアリエルが追体験している。
一瞬の後悔、だけどそれは一生後悔するに足る悔恨だった。
トラックはパシテーを轢いたあと、慌てて急ハンドルを切り、電柱を薙ぎ倒して停止。
壊れたラジエターから湯気がもうもうと噴き出して嫌なにおいが辺りに充満しはじめた。
「うわああああ、パシテーー!……なんで、そんなぁ」
トラックの前にまわりこみパシテーに駆け寄って、車の下から引っ張り出して抱き起こした……でも、意識がない。身体が脱力していて、首がカクカクと関節の緩くなった人形のようになっている。
血が流れ過ぎていて……
「ダメだ、パシテー、俺を見ろ、しっかりして!」
再生、再生させるんだ……だけど日本に住んでいる嵯峨野深月には自己再生なんて便利な能力は備わっていない。誰か……誰か! と心の中で懇願するばかりだ。
「誰かパシテーを助けて! パシテー! パシテー! おおあぁぁぁ……」
呼びかけてももう何も答えない。もう動くこともない。
うっすらと開かれた瞳……。パシテーの顔を強引に持ち上げて声を掛け続けている。だけど力なく項垂れる。いくら呼びかけても、ゆすっても、はたいても。もう何も。
心臓ですら鼓動を止めたのだから。もう誰にもパシテーを救う事はできない。
パシテーを抱きしめながら顔を上げると、美月がゆっくり歩いて近づいてくるのが見えた。
日本刀を持ち、顔の前でスラララッと鞘を抜き捨て、ゆっくり、ゆっくりと歩を進め、こっちに向かって歩いてくる。
アリエルはハッとして我に返った。
美月じゃない、あれはテックだ。
「俺を殺せばいいだろう! なんでパシテーを!」
パシテーを冷たいアスファルトに、そっと寝かせて、だらんと無造作にぶらさがった手を、そっと胸の前に重ねた。死んでゆくパシテーの手は、まだ温かかった。
アリエルは名残惜しそうに、パシテーから手を放して……、だけど視線だけは外すことなく、ゆっくりと立ち上がった。
テックに向け、スッと前に突き出した左の手にフッと刀が握られた。
アリエルは初めて美月に剣を向ける。氷龍を倒した業物、美月の名を冠した愛刀美月を。
「テック! 答えろ。なぜパシテーを殺した。なぜ……」
ルーティーンの最後、刀身に語り掛ける美月の言葉を初めて聞いた。
(どうせアナタが死んだらその娘も後を追うのよ)
そしてゆっくり上段の構えが完成し、伏せていた視線を上げ、眼前の獲物をしっかりと見据えると、怖気立つその戦慄を隠し切れない。全てを斬り伏せんとする激情のプレッシャーを放ち、その体からは黒っぽい煙のようなオーラが立ちのぼる。
美月が深月を敵と認識した。凍り付くような、絶対零度の視線を突き刺す。
こんな時にでも、今にも獲物を仕留めようとする美月の、剣を構えた時の癖が目に付く。
左手の人差し指がわずかに浮く。それを見せつけて、こちらの覚悟を揺るがそうとしているのか。
だが、想定内だ。
先に動いたのはアリエルだった。
「美月ィィィ」
刹那の踏み込み。景色が線になる。
スピードは互角か。
刹那、刃の届く間合いに踏み込んだ。
―― ズバッ。
上段から振り下ろされ、肩を深く斬り裂く。
数秒遅れて大量の血液が流れ出す。
残心。ひと思いに魂を乗せて振り下ろした刀を、ゆっくりと鞘に戻す美月。
―― カチン。
鍔音がして、美月はゆっくり、大きく息を吐き出した。
勝負あったのだ。
アリエルは、前世も含めて、生まれて初めて美月に剣を向けた。
振りかぶって、踏み込みはしたものの、結局、刀を振り下ろすことはできなかった。致命傷を負ったのはもちろんアリエルのほう。ただ怒りに我を忘れて、覚悟もなく刀をとった者の哀れな末路だった。
やはり勝てなかった。いや、勝敗以前の問題だろう。美月に剣を向けるなんてこと、考えたくもない。トラックに轢かれて死ぬよりも、でっかいハスキー犬に咬みつかれて死ぬよりも、美月の剣にかかって死ぬのが、きっと性に合ってるんだと思った。
嵯峨野深月に勝利し、致命傷を与えたと理解した美月はただ気の毒そうな眼差しを幼馴染に送っていた。
嵯峨野深月はアスファルトの舗道に倒れることを嫌い、なりふり構わず身体を預け、そのまま美月の華奢な、小さな背中に腕を回し、そしてぎゅっと。
いま、初めて美月を抱きしめた。
「俺のことを好きでいてくれて、ありがとう」
目が霞む。もうほとんど何も見えない。
「ああ、美月、お前、思ったより小さいんだな。はは」
視界が真っ白になる……。もう何も見えない……。
また負けたよ。ごめんなパシテー。
肩越しに振り返るアリエルの視線の先には、事故を起こしたトラックも、倒れているパシテーの姿もなかった。
ただ、そこには闇が広がっているだけ。
アリエルはまたもや、精霊テックの前に敗北を喫した。
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ゆっくりと目を開けると、そこは静寂が支配する、とても狭い空間だった。
物音が少しもしない。耳を澄ますと、耳鳴りのように、小さく高い音がピーンと聞こえるだけだ。
真っ暗な中、暖炉の炭火がぼんやりと写し出す、ドーム状に湾曲した天井。この天井は見覚えがある。ここはカマクラの中か。そしてこの下手くそな加工技術こそ、アリエルの作品だ。
翠の瞳をもつ精霊が顔を覗き込ませて頬に手を触れると、アリエルは精霊の手の暖かさを知った。精霊も人と同じだった、ちゃんと体温を感じる。
普通の人とは違う生き物なんだって言われてるけど、そんなに遠いようには感じない。むしろ、心も体も触れ合うことができる、より近しい存在にすら思える。
「死んだと思ったんだけど?」
「アタシは止血をしただけ。それ以上出来ないのよ。アナタが勝手に治って生きたの」
「そうか、ありがとう。お前優しいなテック」
テックはグスグスと鼻をすすって涙を流し始めた。鬼の目にも涙っていう言葉もあるほどだから、精霊の目に涙が流れても少しも不思議じゃない。ただ、なんで泣いているのかは気になるけれど。
「じゃあ、ちょっと眠ってからまたやろうか。なんか恥ずかしいところ見せてしまったようで申し訳なかった。でも次こそ負けないからな」
「もうイヤよ。絶対にイヤ。アタシの負け。アナタ悲しすぎるのよ。アナタはあのコに会いたいだけ。思い出に逃げ込んでるだけ。これ以上は無理、もうイヤ……。もうゴメンなのよ」
テックはシクシクと嗚咽しながら泣き出した。
まったく、泣きたいのはこっちなのに……。
「自分が酷い筋書きにしたくせに」
「アタシが見せられるのはアナタの脳に残る記憶だけ。アナタが見たのはアナタが体験した絶望なのよ」
違うぞ?……、いちいち結末が違った。よく覚えてないけど違う。記憶を再生しただけ? そんなことがあってたまるか。
「いや、百歩譲って日本の夢ならわかるけど、磔と死体の山は絶対にないわー」
「磔? なんなのよ?それ」
「いや、俺がなんかブットイ柱に釘で打たれて磔にされてたんよ。あれちょっと前に胸糞悪いモン見たせいだと思うんだが……」
「アタシの紡いだ絶望にそんなのなかったのよ」
アリエルはエーギルの公開処刑を見せられたせいで、その記憶をいじくられたのかと思ったが、当のテックはそんなことしてないという。
テックにちょっと確認してみたかったこともあるけれど、傷を治すのにマナと体力の消費が大きくて、身体の自由が利かず、意識を保ってもいられないほどだった。
そうしているうち、ゆるやかな睡魔が襲ってきて、アリエルは心地よいまどろみの中にストンと落ちて行った。




