03-16 大精霊テック その4 【注:R15】★
主人公が精神的に追い込まれます。そこそこキツい表現があるのでご注意ください。
その場合、03-18 大精霊テック その6 にお進みください。
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……はっ!
美月!……。
いや、ここは? どこだ。
ひとつ分かったことがある。あれは、夢だった……のか?
薄暗い部屋で目を覚ました。さっき目の前で美月が小岩井さんトコのハスキー犬に咬み殺されてしまったことが夢だったことに、ホッと胸をなでおろしている。
まったく、酷い夢だった。本当に夢で良かったと……心からそう思う。
白い天井をぼーっと見ながら、よかった、夢で良かったと、ずっと頭の中で繰り返すばかり。
……? 白い天井? どこだろう?
記憶にない天井。見慣れない天井、これ、どこだっけか。
頭の動く範囲で辺りをざっと見た限り、目を覚ましたところは病院のベッドの上だった。この身体にはいろんなチューブが取り付けられていて、起き上がろうとしても、うまく起き上がれない。
この感覚をどう表現すればいいのだろう、そう、例えるなら疲労の極限とでも言えばうまく表現できたと言えるだろうか、それとも、催眠ガスでも吸わされて意識が朦朧としているとでも言えばいいのだろうか、どっちがより今の状況を正しく伝えるかなんてどうでもいい。とにかく動けないレベルで体が重い。
今どういう状況で、なんで病院のベッドに寝かされているのかも分からない。
ただ、点滴がシトシトと水時計のように水滴を刻むのを見ているだけだ。
白い石膏ボードが張られた穴だらけの天井の下、閉じられたカーテンの中で。
病院のベッドに寝かされていると分かってからも、何とかして身をよじったり、肘をついたりして身体を起こそうとするけれど、動けない。身体が動かない訳じゃなく、単純に筋力が足りないようだ。
重力に逆らって、ただ寝かされてる状態から身を起こすことも、ましてやベッドに腰かけることもできやしない。
はあ、あれは夢じゃなかったのか? 美月はどうした? 無事なのか?
「う、動け……みつ……」
身体が重くてやっぱりダメだ。起き上がれない。かけられたペラペラの布団を持ち上げる力もないなんて、本当に俺の身体かと疑いたくなってくる。
自分の身体の重さを知り、重力と格闘することを諦めてからしばらくするとシャッとカーテンが開き、看護師さんがテキパキと点滴の交換作業をしてくれているようだ。
(あ、すいません俺)と言おうとしたが声が掠れて思ったように話せない。
まさか声も出ないなんて……。
満足に話すことも出来なかったけれど、俺が何かを伝えたいことだけは伝わったらしく、看護師はひどく驚いた様子でハキハキと大きな声で「嵯峨野さん、嵯峨野さん、分かりますか?」と呼び掛けてきた。
ああ、そんなに重症だったのか……と、冷静に思ってしまった。
その後看護師さんは「先生を呼んできますね」と言ってどこかに行ってしまった。
ナースコール押せばいいのになんて考えてたけど、それどこか間違ってるだろうか。頭がぼーっとしててまだよく働かない。
先生が来る前に、もう一人、別の看護師さんが慌てて走ってきた。とても美しい、まるで女優さんのような看護師さんだ。どこかで見たことがあるような気がしたけど、たぶんテレビか映画だと思う。
「良かった。本当によかった……」
そんな奇麗な人が、自分の頬を撫でながら涙ぐみ、良かった、本当に良かったと繰り返した。
しかし綺麗な看護師さんだ、白衣の天使ってこういう人の事を言うのだろう。
自分は入院患者で、こんなにも奇麗な看護師さんが頬を撫でてくれるのなら、ベッドに縛り付けられるように入院することも悪くないと思った。
ほどなくしてインターンかと思えるほど若い男性医師が走ってきて、眩しい懐中電灯で眼球を見られたリ、指は何本に見える? だの、あなたの名前は? だの簡単な質問責めにされた。そのあとはいつ眠ったのか覚えてないけど、次に気が付いた時には、窓から明るい日差しが差し込んでいた。
朝か、それとも昼なのか。カーテンの隙間から差し込む日差しが眼球に沁みる。
外は光の世界で、どうやら吸血鬼にでもなってしまったように光から逃れたかった。眩しくて目が痛いんだ。昼よりも夜のほうが美しいと思ってるから丁度いい。吸血鬼? 望むところだ。
別に何もすることがないし、身体も動かせないのでまた寝るしかないか……。などと考えていると病室のドアが開き、母さんと、誰だ? 若い女の人が入ってきた。たぶん二十代前半で清楚で飾りっ気のない、清潔感のある出で立ちの。でも見た顔だ、親戚にこんな子いたっけ? 覚えてない。
母さんは痩せたように見えて、どこか弱々しい。痩せたなんて言葉じゃとても足りなくて、やつれたと言った方がいい。背中に縋りついてシクシク泣いてる女性は誰なんだろう? 話を始める前に知っておかないと、忘れたなんて言ったら傷つけてしまうかもしれない。必死で思い出そうとしてたら、母さんが教えてくれた。
妹だという。
真沙希おまえは、ちょっと見ない間にどんだけ大きくなってんだ。
よくよく話を聞いてみると嵯峨野深月はあの夜、トラックに轢かれたあの日から今日まで8年間ずっと眠り続けていたんだそうだ。いつの間にか真沙希が23歳になってた理由がやっとわかった。兄である自分が26歳になってるというのだから単純な足し算だ。
だけど、吸血鬼になってしまったのかと思ったのに、実際は浦島太郎になっていただなんて笑えない冗談だ。確かにガキの頃から浜辺でよく遊んだものだけど、亀を助けた覚えがない。
26歳になってどうなったかというと、腕は上げられないほど筋肉が落ちて痩せ細り、あたりまえだけど立ち上がるどころか、ベッドで寝返りを打って姿勢を変えることもできない。介護ベッドについてる電動リクライニングのリモコンを看護師さんに操作してもらって背もたれを起こしたような状態で寝てるんだ。
さらに悪い知らせが2つあって、その1つめ。
左足の膝から下を切断。左手も手首と肘の間ぐらいから先を失った。
そして悪い知らせの2つめ。
腎臓と肺は事故の時にパンクしてしまったので、いまは1つずつが機能しててギリギリ生きてる状態らしい。
でも悪い事ばかりじゃなく、いい知らせも1つ。
半年前に美月が結婚したのだとか。
その知らせを聞いて、本当は喜ぶべきなのに、正直言って素直に喜ぶことができなかった。
うまく作り笑いをして、よかったなあ……なんて話を合わせただけだ。
あの、美月が小岩井さんトコのゴルバチョフに咬み殺されたのが単なる夢で、美月が無事に生きて、そして恋愛して結婚していることにホッと胸をなでおろしはした。本当に夢で良かったと思った。
だけど、本当に良かったのか、自分の中で答えが分からなくなってしまった。
深月にとって、あの黄色い街灯、ナトリウムランプの下を美月と一緒に歩いた、あの夏の夜の思い出は、昨日のことのようで、あの夜、街道のあの横断歩道を渡って、海浜公園のあの薄暗いベンチに腰かけて、告白するつもりだった。美月に思いを告げるはずだった。
そしてうまくすれば、それから美月と二人で、幸せな日々を送るのは自分のはずだった。
それがどういうことだ? 目が覚めたら、あの日から8年もたっているだなんて、美月があのガンツのクソ野郎と結婚してるだなんて……。悪い夢であってほしいと、心の底からそう願った。
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ずっと意識不明の状態で眠り続ける深月が目を覚ましたという一報を聞いて、その日の夕方には美月が見舞いに来てくれた。
美月のことだからバタバタと駆け込んでくると思ったら、足音もさせないほどお淑やかに入って来たので驚いたほどだ。
うーん、思ってたよりも老けてない、髪は長いのかな、後ろで束ねてから上げてお団子ヘアを作ってて、薄化粧してるのか、手慣れた感じで童顔の美月によく似合ってる。
ちっちゃいくせに大人の美月だ。
結婚して姓が変わり、いまは岩津美月になったというのが一番の驚きだ。
なんで美月があのガンツと結婚してんだよ。ちょっと小一時間ぐらい問い詰めてやりたくなった。
お前ら敵だったろう? 顔を合わせたらケンカしてた天敵同士だったんじゃなかったのか?
なれそめを詳しく聞いたら、ガンツのバカ野郎、ガキの頃からずっと美月のことが好きだったんだと。
美月と幼馴染という理由で、ずっとべったりくっついてたヘタレ小僧の、つまり深月のことが相当妬ましかったらしい。
妬ましいからといって顔を見るたびに殴る蹴るの暴行を受けていた身としては「だからどうした?」と言ってやりたい気分なのだが……、あの夜、美月の目の前で事故に遭ってしまい、美月の心に大きな傷跡を残してしまった。
それから美月はうつ気味になり高校は休学。後に出席日数他足りずに留年した後、退学してしまったそうだ。それからもメンタルクリニックに通院したりしてるのを、何年もの間、ずっと支えてくれてたのがガンツだったのだとか。
ホント悪い冗談のような話だけど美月の人生を狂わせてしまったのは他でもない、自分だった。
恨み節の一つもこぼしてやりたいところだが、眠っていた8年の間、事故のトラウマに苦しむ美月を支えてくれたガンツには頭が上がらなくなってしまった。
「ガンツか、懐かしいな。美月はいま幸せなのかい?」
「うん、幸せだよ」
幸せだよと言った美月の顔は、これまでずっと見てきたどんな美月よりも奇麗だった。
8年前に告白しようとして、いい雰囲気を作っただけで失敗してトラックに轢かれてしまったドンくさい奴の出る幕なんてもう1ミリだって残されちゃいなかった。
ものの見事に、ド派手に振られてしまった。8年越しに、そんないい表情で振るなんて、美月は本当にひどいやつだ。
だけど、美月が幸せで本当に良かったと思う。
ただひとつ、隣に立つ男が自分じゃなかったことだけが、とても残念でならない。
悔やんでも、悔やんでも、悔やみきれないというのは、こういう事なのだろうか。
「そか、じゃあさ美月からお礼言っといてくれない? ガンツに」
「お礼?」
「うん、俺の美月がお世話になりました。ありがとな。ってさ」
そういうと美月は肩に顔を埋めてしくしくと泣き始めた。美月の体温を感じる、美月の息使いも感じる。生きていることをあらためて実感した瞬間だった。
深月は重い腕を力の限り持ち上げて、美月の肩に腕を回そうとしたけれど、左の手が無いことに気付き、スッと引っ込めた。
泣いてる美月を抱きしめてやる力も、髪をなでてやる手もなくしてしまった。
悪夢から覚めて現実に戻ってきたというのに、その現実ですらこんな酷い悪夢だなんて……。
美月が泣いてる間どうすることもできず、気の利いた言葉をかけてやることもできなかった。
いつか美月が言ってた、美月が弱ってるときにだけ優しい言葉をかける卑怯者にもなれない。いま美月がこんなに泣いているのに、もう何も言えないのだから。
もう美月を助ける役目は、自分じゃなくていいんだと、そう思った。
「面会時間、過ぎてますよ」
昨夜、頬を撫でてくれた、あの綺麗な看護師さんが病室に入ってくると、美月が言葉を失うほど驚いていた。どうやら二人は知り合いだったらしい。会話はよく聞こえないけど美月も看護師さんも泣いているようだった。
人はあまりに過酷な運命を突き付けられると涙も出てこないって言うけど、本当なんだな。もう泣いてもどうしようもない、今ここにあるのは圧倒的な濃度で俺を包む絶望だけだ。
ただにっこりと微笑んで美月に大丈夫だって強がりを言えたことだけで今日は満点だ。
母さんも妹も、美月も面会時間が終わったので、今日のところは家に帰った。美月もまた来てくれるらしい。ガンツの野郎は来てほしくないけどな。
8年間も寝ていたらしいので消灯になってもなかなか寝付けない。それとも考え事が邪魔をして、脳が眠ろうとしないのかな、消灯後、薄暗い病室で敢えて考えないようにしてたことを、やっぱり考えてる。
考えたくないのに、考えてしまう。
今後のこと、手足を失ったこと、これから家族に多大な迷惑をかけること、美月が人妻になっていたこと。
考えること考えること、すべてが絶望に繋がる。
嵯峨野深月は腎臓と肺を一個ずつ、身体の左側の手と足と、8年の時間と……、そして美月を失った。
もう何があっても、俺に失うものはないだろう。
目を覚まさないほうが良かった。
あの日、そのまま死んでいればこんな辛い思いしなくてもよかったんだ。
「テェェック! いるんだろ。テック! 来てくれよテック」
かすれたような、しわがれ声が病室に響いた。
患者の異変を感じたのか、バタバタと看護師さんが走ってきて心配そうに顔を覗き込んだ。
「どうかされましたか?」
「なあテック、俺を殺してくれよ。頼む……お願いだ、殺してくれ……」
看護師は死を望む患者の言葉に頷くでもなく、ちょっと驚いたような表情をみせたが、混乱している男に、優しい言葉で応えた。
「興奮しているようなので鎮静剤を打ちますね……。大丈夫だから落ち着いて、退院したら……」
その言葉はとても暖かく、深月の心に染み入るように響いた。看護師さんは点滴チューブの途中に注射針を差し込んで、それからのことはよくわからない。退院したら……なんて言ったんだろう。
…… ズキッ!
急に襲い来る頭痛……と共に、フラッシュバックして脳裏に浮かぶ映像。
なんだ? なぜこの女のことを憶えてるんだ?
この女のことを……知っている。
鎮静剤を血管に流し込まれ、なすすべもなく、また意識を手放した。
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ギシギシと何かが軋む音と、なにか揺さぶられて目が覚めた……。
い……痛い……。
全身を駆け巡る激痛と……、目に飛び込んできたのは……、死体、死体、死体、死体……。
おびただしい数の死体の山……。
悲鳴を上げる女、泣きじゃくる子ども。
見たことのある、どこか記憶にある民族衣装を着た女や子供まで、アリエルの目の前で、殺されて、物言わぬ血肉の塊に変えられてゆく。
こんな非道を許すことはできない。だけどアリエルは身体を動かせないことに気が付いた。
腕を見ると、柱に釘で打ち付けられていて、足も同じく、打ち付けられて引きはがすことが出来ない。ゴトゴトと荷車に乗せられ、アリエルが通るとき、アリエルに見せるため人々が次々と処刑されてゆく。沿道の木々には所狭しと死体が吊られている。
遠くの方では空を覆わんとするほどの巨木が焼かれ、その煙は遥か高空を流れて暗雲と化していた。
アリエルを打ち付けた柱を運ぶ荷車がひらけた場所に出た。
うずたかく積み上げられていたのは、人々の死体だった。何千、何万を殺して山積みにしたのだろうか。想像すらできない……。
死体の山の向こう側、アリエルと同じ大きな柱に釘で打ち付けられ、磔にされた者が見えてきた。
……っ!
赤い髪の女……、磔にされて、力なくうなだれている……。
思い出せない、だけど知っている。あの赤い髪の女を知っている。
細く、華奢な腕に何本も釘を打たれていて、足も重ね合わせて柱に縫い付けるように釘を何本も打ち付けられていた。
張り裂けんばかりのショックと、深い悲しみと、激しい怒り。およそ感情と呼べるものすべてが爆発するかと思えた。
アリエルは叫んだ。言葉にはならなかったが、ありったけの声を絞り出して叫んだ
赤い髪の女はうなだれた顔を力なく上げて、アリエルに何か言った。
見覚えのある、美しい女だった。
その言葉、声は聞こえなかったが、愛してる……と心に届いた。
どうにもできない大きな力が、愛するものたちを蹂躙してゆく。己の力足らずを悔い改める間もなく、号令が響いた。
自分も赤い髪の女に大声で告げている。命の限り言葉を伝えたかった。
「愛している……、ジュノー! 愛している」
二人が愛していると声を掛け合うなか、何百、何千もの矢が、暗雲のように押し寄せた、二人を容赦なく貫いた。磔にされた釘の激痛があったせいか、身体を矢が貫いても、不思議と痛みは感じなかった。
だがしかし、赤い髪の女の言葉が届かなくなり、アリエルも後を追うように闇の中に落ちていった。




