03-14 大精霊テック その2★
20170818 改訂
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………ここは?
ドルメイ山じゃないのか。
空気のにおいが違う、これは…… 潮の香り? 近くに海があって、潮風が吹きあげている香りだ。
気温も一気に上がった、マナ暖房なんかしてたら大汗かいて熱中症で死んでしまうほどに暑い。さっきまで極寒のドルメイに居たはずなのに、むっとする湿度で毛穴が開くのが分かる。
感覚がマヒさせられているのか、この暑さを信じてマナ暖房を切ったとして、実は騙されてました、凍死しました! なんてことになったら大変だ。それに何だこの、この音……眉間が皺ばむほどに不快な騒音に耳を覆いたくなる。
術中にはまって、どこかに転移させられたか。
「テックはどこいった?……」
ここが暗い夜道だということを理解した俺は、黄色い光が断続的に地面を照らし出していることに気が付いた。そうだ、アリエルはいま、バイパス道路を照らし出すナトリウムランプの黄色い光が連続した、舗道歩いている……。
……あれっ?
突然河が決壊して襲い来る濁流のように、美しい思い出が蘇り、脳裏にフラッシュバックする。
一瞬の混乱。
……っ!
ここは、うちから国道に出るまでの街道か。
状況がうまく掴めなくて……、キョロキョロと周囲を見回すアリエルの隣に彼女が立っていた。
自らの置かれている状況が明らかになるにつれ、ますますその度合いを深めてくる混乱。
どうしよう、すぐ横に、なぜだ、どういうことだ。
オロオロしていると少し驚いたように「え? なに? どうしたの?」とでも言いたげに、少し心配したような表情で、そのあどけない視線を投げかけてくる。
黒髪ショートカットの洗い髪。驚いてるアリエルを下から上目遣いで覗き込む小悪魔のような仕草、そしてそれら丸ごとすべてを見透かすような、少し生意気な表情をみせる大きな瞳がそこにあった。
心臓が早鐘を打つ。
どれほど、この時、この瞬間に戻りたかったか。
どれだけ後悔したか、そして、どれだけお前に会いたかったか……。
「えっ? 美月? どうして?」
あれほどに会いたかった、会って話をしたかったと願っていたというのに、いざ目の前に美月がいるというのに、第一声がこれだった。
「どうして? って、大丈夫? 深月、10秒ぐらい止まってたよ?」
10秒? たった10秒? いや違う、長かったよ、14、5年ぐらいかかったよ。
「いや、なんでもない、なんでもないんだ」
涙がぽろぽろこぼれてくる。
話したいことはたくさんあった。
たくさんあったんだ。
言いたいことも山ほどある。
だけど、言葉が出てこないんだ。
「あれ?……おかしいな。なんでだろ、涙が……」
「ほんとに深月は世話が焼けるね。泣きたいのは私のほうなのにさ。何があったのかお姉さんに言ってみなさい。私はいつだって深月の味方だからね」
アリエルは涙腺が崩壊したままその場に立ち尽くして、一歩も動けなくなってしまった。
体重が減ったんじゃないかと思うぐらいに止め処なく涙が流れて、あんなにも会いたかった美月の顔がよく見えない。もっとよく見たいのに、もっと近くで見たいのに、涙で前が見えないなんて。
酷い世界から戻ったことが信じられなくて、自分が信じられなくて、何を思ったのか、自分の身体を確かめずにはいられない。
シャツの胸のプリントを見る……、アウトドアブランドのTシャツを着ている。
左手首に巻かれているのは高校の入学祝いに買ってもらったカシオのGショック、センサー付き。
いま夜の8時53分。ELバックライトも点灯する。
手のひらを見る。特徴はなくとも自分の手だ、節々の形も爪の形も、血管の浮き加減も覚えている。間違いなく、生命線が長いと言われた自分の手だ。
覚えてる。
間違いない、これは嵯峨野深月の手だ。
本当に戻れたのか? 日本に……。戻ってきたのか?
「いや、ごめん、こんなはずじゃ……。会いたかったんだ美月、俺さ、長い、長い夢を見てたんだ、ずっと、ずっと会いたかったんだ……」
「大丈夫だよ。私はどこにも行かないし、夢じゃないよ」
「ずっと探してたんだ、美月を、お礼を言いたく……て」
「……お礼? ……何の?」
「……俺が逝くとき、手を握ってくれたことに」
……っ。
美月の表情がなくなった。
アリエルの頭の中、ここはテックの術中だからと大音量で警鐘が鳴り響く。
分かっちゃいる。分かっちゃあいるんだけどこの夢から覚めたくないんだ、いつまでもここで美月と話して居たい。このあと嵯峨野深月は事故に遭って死んでしまう。
だけどもし、事故に遭わなければどうなったろう?
このあと事故に遭わず、海浜公園のベンチに行って、そして自分の気持ちを伝えることが出来たなら、そこからいったいどんな人生が続いたろう?
手を伸ばせば届いていただろうか。美月に。
それからの人生、ともに歩めただろうか、美月と。
アリエルは俯いて、小さく何度も、何度も何度も首を横に振った。
この場にいたい、せっかく会えたのにと葛藤する。
「だけど俺はこの時間をもう生きた」
そしてこのあと死んでしまうんだ……。
嵯峨野深月は立ち尽くしたまま、目の前の、小さな想い人を目に焼き付ける。
街道を行き来する車のヘッドライトが二人を照らしては通り過ぎて行く。
美月の顔がすぐそばにあって。瞬きする時間すらも惜しい。
お風呂上りのまま、しっとりと湿った黒髪。
大きくて少し潤んだ瞳。
小さくて薄い唇。
年頃の娘だというのに、お洒落なんてまったく気にかけない、Tシャツとジャージのズボン。
そして、ほどけかけたスニーカーの靴ひも。
「なあ美月、これはたぶん、夢なんだな」
「どうなのかな……、これは夢なの? 深月、あなたの後悔じゃなくて?」
ナトリウムライトの黄色い光の下、美月は小首をかしげながら深月に問いかけた。
だけど深月はその問いに答えられなかった。
美月はいつの間にか木刀を持っていて、いつものルーティーンを組み立てはじめた。洗練されたとしか言いようのない、まるで舞いを披露しているような、美月の姿に目を奪われてしまう。
「そう、これだ。俺が見たかったのは……」
アリエルは小さな声で称賛して、美月のルーティーンを目に焼き付ける。
自分の至らないルーティーンとは違って、明鏡止水を体現している。息を呑むほどに美しい。
これこそが美月の剣だ。
「剣を取りなさい深月」
剣を取る? 美月に剣を向ける? そんな事できるわけがない……。
たった一瞬の戸惑いが生死を分ける。
ゆくりと上段に構える美月。
左手の人差し指が浮く癖、小刻みに切っ先を揺らして威嚇するのも、顎をキュッと引いて、炎を纏うような闘気をぶつけてくるのも。いまは懐かしい。
だけど嵯峨野深月は迷うことなく剣を取らないことを選んだ。
剣を構える美月に向き合い、その目に愛しい人の姿を焼き付けた。
そして思い人は躊躇も戸惑いもなく、構えた剣を振り下ろす。
―― ドッ!
初撃、右の肩に激しい打撃の痛みが走り、次の一撃、木刀が鳩尾を貫通して背中から突き出した。
……ゲボッ!
「がはあっ!」
胃から食道を通って上がってきたものを飲み込むことが出来ず、思わず地面にぶちまけてしまった。
ナトリウムランプの黄色い世界の下、黒い、きわめてドス黒く見えるが、口の中に残る鉄の味がそれの正体を明らかにしている。
大量の吐血だった、そして、胸からどくどくと流れ出ているのも、いま吐き出したものと同じだ。
「ああ、美月……俺は……」
美月が顔を近づけて、耳元で囁く。心地よい吐息が頬に触れて、とても優しい声が鼓膜を震わせる……。
「あなたは弱い。挑むべきじゃなかった。おやすみなさい。永遠に」
嵯峨野深月はその場に膝から崩れ落ち、うつぶせに倒れ、アスファルトの冷たさを頬に感じながら、やがて意識を闇に落とした。
最期に見ていたものは、傍らに立つ美月の、靴ひもの解けそうなスニーカーだった。
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薄暗く心地の良い闇の中でアリエルは目を開けた。
どうやら眠っていたようだ。
頭がぼうっとする。
テックが倒れたアリエルを見下ろしていた。
「おかしいのよ? ……、死んだと思ったのに生きてるのよ」
死んだと言われて自分の身体を見てみると服に大穴が開いていて、どす黒く固まった血を撒き散らした跡があった。
夢に見た通り、戦いに負けて腹と背中に大穴が空いたことは間違いないのだろう。右の肩も折られてしまったらしく、動かすと痛みが半端ない。
まったく、あれが夢だったというなら、こんなにひどい怪我をさせたのはいったい誰なんだ?
夢だと思っていたけど、実は夢じゃなかったのかもしれない。
まったく、夢なんてものは実際、見てる間はリアルなんだ。だからこそ、夢から覚めた時の落胆は計り知れない……。だけど、美月に会えるなんて思ってもみなかったことだ。
まだ完全に再生できていない胸の傷を手でさすりながらテックに礼を言った。
「ありがとうな。美月と会わせてくれて」
「可愛い子ね、アナタあの子を探してるの? アタシの知らない国だった。遠いところなの?」
「うん、でもたぶんもう会えないんだ」
「そう、せっかく拾った命なんだから、大切にするのよ」
「うん、でももう一度頑張るよ」
「はあああああああああああ? アホなのよ? もし次やったら今みたいな幸運はないのよ?」
「大丈夫。今のは俺も油断してた。次は騙されないから俺が勝つよ」
また完治していない傷を押さえながら立ち上がろうとする少年を制止するようにテックは言った。
「アタシ疲れたのよ。今日はもうオシマイ」
「そか、それは奇遇だな。俺もちょっと疲れたんだ。ここで寝てもいいよな?」
洞窟の邪魔にならない端っこ、氷に閉じ込められたエルフの少女の近くにカマクラを作って転がり込む。火を焚いて暖房し、傷ついた身体を癒そう、そしてまた明日この大精霊に挑むつもりだ。
テックは記憶の中から後悔を抜き出して見せつけたんだ。要するにこれは精神攻撃というものなのだろう。夢の中の攻撃が現実に自分に降りかかるメカニズムは分からないが、とにかく夢の中でも死んでしまったら負けということだ。これは分かる、だけど夢の中なかでは正常な判断をすることが難しい、それが問題だ。
自慢じゃないけど自分のメンタルは絹ごし豆腐のように、簡単に崩れてしまうと自負している。精神攻撃なんて最も苦手な分野だ。そんな苦手意識を持ちながら戦えるかどうか不安だけど、それでも美月と会えるなら痛い目に遭う価値はある。
その内このテックにも勝つ方法を思いつくさ。きっと。
扉を閉めようとすると、この極寒の洞窟に居て、ただ立ってるだけのテックと目が合った。
「なあ、寒くないのか? テック」
「アホなの? 寒くないわけがないのよ」
「入れよ。美月に会わせてくれた礼だ。中は温かいぞ。俺しばらく寝るからさ、また明日になったら起こしてくれ」
テックはひとかけらの警戒もせず、アリエルが下手くそな土魔法で作った、少し歪んだ形のカマクラに招き入れられた。闇を纏う風の大精霊テックは、この少年に奇妙な親近感に似たものを感じていた。
大切な人をなくしてしまった孤独。
大切なひとともう会えなくて、思い出に耽る少年と精霊の奇妙なシンパシー。
テックは温かな寝床に腰を下ろす。実に千年ぶりの温もりだった。
そう、懐かしい感覚だ。横になった途端にストンと眠りに落ちてしまったこの少年の顔を眺める。
「14か15ぐらいなのよこの子……」
テックは少年の記憶から後悔を紡ぎ出した。
だがこの少年の後悔と絶望は、とても14や15の子どもが抱えきれる量ではない。
この少年の記憶には、およそ考えられないほどの後悔と悲しみが、詰め込まれていた。何千年ぶんも、もしかすると何万年という悠久の時を経てここにあるかのような、悲しい思い出があった。
そのどれもが、子どもの心に刺さる後悔にしては残滓が切なすぎる。
過去を遡る記憶は、折り重なり、重複している部分も大量にあって順序もはっきりしなくなっている。そして少年の心の奥の奥底、闇の精霊テックの力をもってしても覗くことができない奈落があった。
少年の生きてきた時代の思い出は美しく、後悔と絶望に彩られている。
風の大精霊なんて呼ばれていたのがいつだったか、それはもう覚えていないほど遥か昔のこと。今のテックはマナを抑えても抑えても漏れ出すのを止められず、漏れたマナが闇の瘴気に変貌してしまうという障害が出てしまっている、壊れてしまった精霊なのだ。
瘴気と化したマナは重く淀み、地を這うように流れる。
マナが淀むと、あれだけ自在に使えていた風の魔法はほとんどが使えなくなり、人に幻覚を見せたり、心を絶望で満たしたり、あるいは命を根源から刈り取ったりという闇の呪術ばかりうまくなった。
テックにしてみれば体質の変化に他ならないのだが、人族の感覚からすると、テックはもはや、妖怪、幽霊、悪霊、怪物、魔物……そう、バケモノの類に他ならない。
そんなテックを警戒心もなしにプライベート空間に招き入れ、剰え無防備にスヤスヤと眠ってしまうなんてアホとしか言いようがないのだけれど。
テックもこの温かな布団で横になり、ゆっくりと休んだ。
心に奈落を宿すこの少年の傍らで、千年ぶりに火の魔法で暖を取りながら。
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アリエルは今しがた殺されかけたというのに、先ほど目に焼き付けた美月とパシテーが左右の腕を引っ張り合いながら自分を取り合うというアホみたいに平和な夢を見ながら満足げな表情で朝までぐっすり眠った。
目が覚めると顔を洗うよりも先に、まずは昨日受けた傷の確認をした。
叩き折られた右肩の骨と、美月に刺されて大穴が開いてた胸の傷もおおむね完治しているようだ。傷は残ったもののコンディションは良好。自分が再生者だったことに心の底から感謝している。美月とパシテーが出てきたムフフな夢のおかげで、メンタルのほうも万全だ。覇気をグイグイと込めて、気合のノリも確かめてみた。大丈夫だ。
パンを齧りながらスープを温めて啜ったあと、準備運動で体も温めた。
「ねえアナタ、再生者だからって致命傷を負ったら簡単に死んでしまうことは知ってるのよ? 次も生きて戻れるとは思わないで。何度も挑んでこられるのは面倒なのよ」
「ああ、分かったよ。次は頑張るから」
「こちらは準備いいのよ? 今度こそ死なせる事になるけどそれでもいいかしら?」
「嫌だよ。俺が死んだら妹が泣くから殺されてやれないんだ」
「死にたくないなら諦めて帰ればいいのよ。愚か者」
「愚か者か。まったくだ。俺もそう思うよ」
目の前で微笑を浮かべる少年に愚か者と言ったテックは『呆れた』という仕草をその小さな体全体で表現した。
アリエルは自信たっぷりに腕組みをして、このドラゴンよりいくらも手ごわい、最強の精霊にケンカを売って見せた。
「よし、準備いいぞ。テック、お前と戦おう」
「その意気やよし。なればアナタの絶望を紡ごう」
テックから真っ暗な闇があふれ出すと、狭い洞窟の空間を瞬時に満たす。
そしてアリエルは腕組みをしたまま深く深く、その仄暗い闇へと意識を沈めていった。




