03-11 疑惑のフォーマルハウト (改訂)
アスラ神殿までは飛んで行った方が明らかに早いから、ここはパシテーの手を握って、ビュンとひとっ飛びに乗っかって行きたかったのだけど、ここは逸る気持ちをグッと抑え込んだ。願望を言うと手を引いてもらって、空を飛んでみたかったというのはあるんだけど、絵面を考えると、どう見てもお姉ちゃんに手を引いてもらってる、いい歳こいた弟って感じに収まるから。
人目に付くところじゃあ、あんまり格好のいいものじゃない。
アリエルは自前の[スケイト]で森を行き、芋虫の落ちてくるのをうまく避けながら岩山を登った。まあ、こういう込み入った所を移動するとパシテーには逆立ちしても勝てないのだけれど。
転移魔法陣まで戻って、さっき自分たちが現れたところ。つまり、テンキー2番といえばアリエルには分かりやすくパシテーにはまったくわからないが、要するに南の石板を踏むと思った通り、南のイグニス神殿へ転移した。
初心者に優しいフレンドリーな仕様に感謝しながらエドの村、レダたちの家のドアを叩くと、タレスさんはが拙い土木工事魔法で自宅の改修中だった。何をしているのかと聞いてみたら、娘が隠れる地下の隠し部屋を作っていたらしい。
アリエルの顔を見ると作業を止め、セキは恩人の来訪に慌ててお茶を淹れる準備を始めた。
「タレスさん、取り急ぎ用件から言うよ。転移魔法陣が使えた。転移先は遥か西にあるエルダーの森で、あっちの神殿のすぐ近くにフェアルというエルフ族の村がある。そこはどうしようもなく貧しい村だけど、村人の心は温かい。それに、もう20年も鉄を打てる者がいなくて困ってるらしい。親子3人住む家も、仕事も用意してくれるそうだ。どう? 行く気はあるかい?」
「な……なんと、本当ですか? 冗談ではなく?」
「冗談は言わないよ」
「ぜひ! ぜひとも。セキ、レダ、すぐにここを出ていく準備をしなさい」
タレスさんの鍛冶道具と、セキ、レダの着替えやぬいぐるみなど、子どもたちの荷物も丸ごとまとめて[ストレージ]に放り込むと、急いで村の奥から山道を歩いて神殿に向かった。
ここの山道は荒れてるからとちょっと心配だったけれど、さずがにこんな山奥の村に生まれ育った娘たちだ、二人とも山歩きには慣れているようで、まったくもって心配いらなかった。
「アリエルさん、世話になった。約束のミスリル800グラム受け取ってくれ」
「ありがとう、遠慮なくいただくよ。だけど報酬としては多すぎる気がする。だからついでにタレスさんの奥さんの特徴と名前を教えといてよ。もし旅の途中で出会ったら伝言ぐらいするからさ」
タレスさんの奥さんの名前はドロシー。エルフには珍しいトビ色の瞳と栗色の髪なんだそうだ。
まだ幼いレダと同じ目の色、髪色だということなので、百聞は一見に如かずという言葉通り、とても分かりやすくイメージできた。身長は175ぐらいらしい。エルフ女性にしてはちょっと高身長だけど珍しくもない、一般的というところ。
「分かった。もし出会ったら必ず伝えるよ」
「なに、私たちエルフは人族の何倍も生きられる。200年かかろうが300年かかろうが、必ずドロシーを探し出して、そして迎えに行くさ」
人族には考えられないほどスケールの大きな話だ。それはアリエルには想像もできなかった。
……っ。
アリエルはタレスの言葉を聞いて、もうすぐ神殿だと言うのに、ぴたっと歩みを止めてしまった。
" ……? 何年かかろうと……必ず妻を探し出す " といった。
その言葉に魂を持って行かれそうになった。
いや、言葉にではなく、言葉の意味するところだ。
この感じどこかで? デジャヴって奴か。思い出せそうなのに、喉につっかえて出てこないこの感じ……。モヤモヤするなあ。ここまで出かかってるのに、なんで出てこないんだろう。
突然動きを止めて考え込むものだから、パシテーがアリエルを気遣った。
「兄さま?」
「あ、ああ、なんでもない。なんでもないんだ」
アリエルは頭が重く感じて、少し気分が悪くなってきた。……ちょっと疲れたようだ。
一方、パシテーはアリエルの表情が曇ったのを見逃さなかった。なにしろ転移魔法陣でエルダーから南のアムルタまで数千キロを一気に飛んだのだ。それなのにパシテー本人、僅かばかりのマナすら消費していないように思えたからだ。なぜマナを消費しないのか考えていたところに、アリエルのあの表情である。兄弟子がひとりで代償としてのマナを一人で支払ったのかもしれない。この時はそう思った。
パシテーが転移魔法陣には何かあると訝るのは当然のことだった。それなのにアリエルはといえば、何か気付かれたことを察したのか、平然と誤魔化すようなことを言った。
「あ、そうだ、エドにあるタレスさんの工房さ、通りがかりにちょっと使わせてもらってもいい? 俺の工房は北の果てのノーデンリヒトなんだよね。ここで刃物の修理ができたらいいな」
「ああ、あの家はもう捨てる。使いたいというのならどうぞ自由に使ってくれ」
「ありがとう、じゃあ飛ぼうか……」
「兄さまストップ!」
みんなして手をつないで転移魔法陣のある石板を踏もうかとしたその時、パシテーが制止した。
「どうした?」
「ちょっと待つの」
言うとパシテーは、ひとりだけ石板を触ってみたり、踏んでみたりしていろいろと試してはみるものの、魔法陣の立ち上がりは見られず。
「兄さま、ちょっと足を乗せるだけ。してみてほしいの」
「ほい。なにさ?」
アリエルが足を乗せると、まるでそれが起動トリガーだとでも言わんばかりに魔法陣が光輝いた。
この魔法陣は何をエネルギーにして動いているのだろうか。パシテーには訳の分からないことばかりだ。
そしてアリエルが足を降ろした後、パシテーが降れようが踏もうがウンともスンとも言わない。
やっぱりアリエルがトリガーなのだ。
パシテーの不信感が少しだけ疑惑に変わった瞬間だ。
アリエルには何か秘密がある。
「どうしたパシテー。もういいか? そろそろ飛ぼうか」
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一方、こちらアリエルたちがすっ飛んでいったフェアルの村ではタレスたちを迎える家の準備や、誰にも使われず、火をも入れられないで何年も放置されたままの鍛冶工房を念入りに掃除したりと、女たちが集まって、てきぱきと手際よく作業をしている。なにしろフェアルの村では何百年ぶりの移住者なのだから。
村長のタキビが手持ち無沙汰に空を眺めていると、何やら森のほうからまた悲鳴が聞こえてきた。
「キャアアァァァァァ!!」
「ヒヤァァァァッ!」
「ヒエェェェェェェ!」
虫を飼ってるコロニーあたりから、けたたましい3人分の悲鳴に驚き、バサバサと鳥たちが飛び立つ羽音が響いた。
「はははははっ、早いな、もう着いたようだ」
フェアルの村ではタレスたち親子はとても歓迎された。
300人規模の村では、一日の食い扶持を考えるだけでも大変だ。皆の身なりを、皮のヤレ具合、村の子どもたちが痩せているのを見ると容易に察することができる。この村もギリギリ生きているのに3人の食い扶持を受け入れてくれたのだ。タレスもそれを察してか、娘たちが歓迎されているうち、先人が使っていたという炉に火を入れ、残されていた鉄を打ち始めた。
妻や娘の顔に刃を立てて以来、もう二度と打つまいと誓った刃物を打つために。
槌音が高らかに森に響き渡る。
「タレスさん、これ、ボトランジュのマローニって街で作られた包丁用のハガネ。これ1枚でたぶん50本ぐらいは打てると思うけど、3枚、餞別に置いていくよ」
「おお、それはありがたい。何から何まで本当にありがとう」
「いやあ、俺のほうも、ウーツ鋼とミスリルの合金とか、併せ打ちとか、今すぐにでも試してみたいことがたくさんあってさ、こっちこそ本当にありがとう」
なんて雑談もほどほどに、タレスさんの仕事っぷりを見学させてもらった。
タレスさんは刀鍛冶ではない。切れ味を追及したりとか、そういう趣味の領域を完全に排除した、生活に根差した職人だった。確かな腕で、一定品質の刃物を打つ。アリエルが4時間かけて入念に槌を入れ、短剣を打つような一本物の技術ではなく、20分ほどで包丁を一本仕上げてしまうほどの手際よさで、次々と生産されてゆく刃物。
技術的にはアリエルも負けてはいないと思うが、生産性という観点においては明らかにタレスさんのほうが上だった。
包丁だけでなく、実に小さな鏃も慣れた手つきで……ああ、そうだった、タレスさんはいま狩人で生計を立ててるって言ってた。鏃を打つのは日常だったのか。
南方諸国の鍛冶を見せてもらった。興味深く、そして勉強にもなった。
パシテーはどうしてるだろう? またレダに捕まってるのかな?と思ったら、レダのほうが村の女たちに大人気で、引っ張りだこにされていた。ちなみにアリエルの方には誰一人として寄ってこない、気が付いて傍に来てくれるような女は、やっぱりパシテーだけだった。
アリエルはセキやレダが村にとけ込んだことを見て、ホッと胸をなでおろしていたところ村の中央の広場の、岩山側になにやら慰霊碑のようなものが立っているのを見つけた。
何気なしにチラと見た視界に信じられないものが映り二度見してしまう。
慰霊碑の横に彫られた名前。『下垣内誠司』と日本語が彫られていたのだ。
「タキビさん、ちょっとこれについて教えてほしいのだけど」
「ああ、これは岩山の神殿に住んでた精霊アスラに殺された村人157人の忠霊塔だよ。千年前になるか、この村の精霊使いが使役していた精霊が狂ったのだ」
「ここでも精霊が狂ったのか?」
「ここでも? いや、よそがどうかは知らないが、確かにそう伝わっている。大精霊アスラが狂ってしまい最初に精霊使いのゼダンが殺され、その後は次々と村人たちを殺したとか。そこに偶然通りかかった大魔導師フォーマルハウトさまが精霊アスラを討伐して村を救ってくださった。そしてその左の神代文字の意味は分からんが、フォーマルハウトさまがサインしてくださったのを石工が彫って残したという話だ」
「これは本当にフォーマルハウトのサインなのか? 下垣内誠司って書いてるけど」
「ああ、そういい伝えられている」
パシテーと顔を見合わせる。何も言わないけど『あやしーい』と声が聞こえてきそうなほど怪しんでる目だ。たぶん自分の顔も、同じように訝っている。
フォーマルハウト正義伝説、これは怪しい。とても怪しい。
フォーマルハウトが正義の味方だと信じるということは、トリトンがロリコンでも巨乳好きでもないと言ってるのを何の疑いもなく信じるのと同じことだ。つまり、完全なる『黒』を意味する。
フォーマルハウトは嘘つきだし、トリトンはロリ巨乳が好きなんだ。
たまたま近くを通りかかって、ただでさえ世界に何柱かという、そんな僅かしか居ないような、出会うことすら難しい精霊が、あろうことか偶然狂って村人皆殺しにしようとしてる場面に、2度も出くわすなんて、まるで映画か小説のような話だ。
「兄さま、この文字読めるの?」
「ああ、でもこれは神代文字なんかじゃないよ。日本語で『しもがいとせいじ』と彫られてあって、これは男の名だ。もしかするとフォーマルハウトの真の名かもな。だとするとフォーマルハウトも俺と同じ神子で日本人で、そして転生者だ。精霊にもフォーマルハウトにも会ってみたくなったな。どこに行けば会えるんだろ?」
「フォーマルハウトさまの消息は分からないが、精霊さまなら100年ほど前か、北のドーラにある神殿を守る精霊テックを使役するとかで、エルフの有力な魔導師が戦いを挑んだと聞いたが、テックを使役して帰ったという話を聞かない。きっと戦いに敗れて命を落としたのだろう」
「ああ、北なら転移できるからたぶんすぐだろ。パシテー、次は北に飛ぼうか」
「うん、でも寒いのかな。防寒の服がほしいの」
「二人はダメだ、精霊は一人で行かないと会ってくれない。精霊を従わせるには一騎打ちで戦って負かす必要があるからな。邪魔が入るのを嫌うのだ」
「いや、戦ったり従わせたりなんて考えてないのだけど……」
ああそうか、でも戦う可能性が1ミリでもあるのなら、ちょっとエドに戻って刀を打ちたいかな。
せっかくウーツ鋼とミスリルを手に入れたのだから。
「パシテー、剣を打つから手伝ってもらえる? 数日かかると思うけど」
「うん、兄さまを守る剣を打つ手伝いなら何年でもするの」
それでは……と、タレスさんやセキ、レダの姉妹にさよならの挨拶をし、電光石火の勢いでエドに転移して戻ると、タレスさんの工房を借りて炉に火を入れた。パシテーが得意な高位の土魔法を使えば、まったく同じ力で重量ハンマーを連打することができる。
これのおかげで大幅な工期短縮ができるようになった。
タレスさんから頂いたウーツインゴットを叩いて叩いて一振りの刀に。マナの伝導をよくするため鎬の部分には贅沢にミスリルを使う。現代日本では錆びやすいハガネをステンレスで挟んで打つ工法が広く普及していたが、ウーツ鋼とミスリルなんて全然違う金属同士を溶かして貼り合わせるなんて初めての経験だ。
そこはもう匠の技術ではなく、パシテーの土魔法による圧縮に加え、アリエルの風魔法、カプセルの高圧縮を加えるという力技で切り抜けることができた。
型は太刀。170センチぐらいの長刀、野太刀にするつもりだ。
刃渡り140センチ近くにもなる……。
イメージを膨らませる。反りはこんなものか。
美月が持ってた木刀はこんな形だったか。美月素振り、空気を切り裂く一閃をイメージして槌を振り下ろす。カン! カン! と槌音が響くごとに、美月のイメージが浮かび上がっては、消えてゆく。
自分の相棒になる刀だから、自分の思い出の中に残る美月をイメージして形にしていくんだ。
「兄さま、嬉しそうなの」
「ああ、なんだかイメージ通りに仕上がってきたからね。ルンルン気分さ」
打ち上げるのに4日、研ぎに2日かけて完成した刀に『美月』と銘を刻んだ。
水をたたえたようにしっとりとした研面が、まるで誘惑するように甘い言葉を耳元で語り掛けてくる。そんな刀に仕上がった。
暫定的にその辺の木で柄を作り、糸を巻いて適当に仕上げてみた。
強化魔法を使わないと到底まともには振れないほどの全長170センチの、刃渡りは140センチ。
身長170センチ弱のアリエルには長すぎる野太刀。
最初から腰に差すことも背負うことも考えず、[ストレージ]に収納すること前提の長さ。
どうせどう持ったところで、鞘に収めたらアリエルの身長では、すんなりと抜くことが出来ない長刀なのだから。
試しに振ってみるとなかなかに難しい。また間合いをミリ単位で覚えなおす必要があるけれど長物はロマンなんだ。鞘がないので抜き身のまま[ストレージ]に仕舞い、夕暮れが近いということで、急いでイグニスの神殿へ上がると、ここでも綺麗な夕焼け空が見られた。
高い雲が夕日に焼かれて赤く燃える。
刀を打ってる間ずっと美月のことを考えていたので、夕日なんか見ると海岸でテトラポッドの上に腰かけて見る夕焼けと重なって見えてしまう。
夜になると星に手が届きそうなのに、本来ずっと近いはずの夕焼け雲は遠くて高い。
転移魔法陣の神殿は高い位置にあるせいか、ここからの眺望は息をのむような絶景だ。
西側の一枚岩に乗ったまま転移するのも忘れて、真っ赤に焼けた空を名残惜しそうに眺める。
影が長く長く闇に溶けるまで。
「あちゃ、また夕日に見とれてしまったか。ちょっと急がないと、真っ暗なイモ虫の森を歩くハメになるな」
「嫌なの、急ぐの、兄さま急ぐの」
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アリエルたちが飛んでフェアルの村に着くと、まだ時間的には早いのに闇の中だった。
松明も灯さない貧しい村である上に森の中だ。空よりも地面のほうが先に暗くなる。
村長に許可をもらって村はずれの空き地にカマクラを建てさせてもらい、しばらくの滞在を許してもらった。カマクラのドア前で鹿肉を焼いていると、村はずれのほうから人影が二つ、近づいてきた。
「こんばんわ。アリエルさん」
「セキさんとレダか。何か食っていくかい? てか、肉食ってけほら」
セキとレダはここにきてからまだ6日しかたってないのに、もう新しい環境に慣れたようだ。子どもの環境適応能力には目を見張るものがある。
「アリエルさん、ありがとうございました。この村の人は優しくて、いろいろお世話になっています。外の世界って、いい所なんですね。私初めて知りました。アリエルさんの故郷もいいところなんですか?」
「んー、俺の故郷はね、いま戦争してるから危険だなあ。家族がいるのはボトラジュってところ。冬は長くて厳しいけど、綺麗だし、ここと同じで人は温かい。人もエルフも幸せに暮らしてるいいトコだよ」
「怖い人が来てさらわれたりしないの?」
「大丈夫だよレダ。ボトランジュはそんな土地じゃない」
「うん、じゃあレダはおっきくなったら兄ちゃんトコ遊びに行く」
「うーん、遠いから危ないよぉ。平和になったらいつでもおいで」
その日は夜遅くまでセキとレダの笑顔に包まれ、楽しく過ごせた。
タレスさんが心配して迎えに来てくれるまで、二人は帰らなかった。
タレスさんが奴隷狩りに殴られた傷の腫れは引いたけれど、いまこの焚火の炎がおさまって、炭火のような灯りのなか、顔中青あざだらけというのがゾンビの様相を呈していて、そんな顔を見たセキがホラー映画の登場人物さながらの悲鳴を上げた。
悲鳴を聞きつけた村の男たちが飛び出してきて、ちょっとした騒ぎになり、ぺこりぺこりと頭を下げてまわるタレスさん。後で聞いた話だけど、エドの村では、本当に娘たちがエルフ狩りに捕まって、いまままさに攫われて行こうとしてても、娘たちが泣いて喚き散らそうが、悲鳴を上げようが、誰も助けに出てきてもくれなかったそうだ。
老人とはぐれエルフしか住んでいない限界集落だから仕方ないといえば仕方ないが、エルフ狩りと思しき冒険者がきたら、みんなどこの家も、窓を閉ざし、カーテンを引いて、外で何が起こったとしても知らない振りをするのが当たり前だったという。
「だけどこの村はどうだ? セキが驚いた声を聞きつけて、村の男たちがみんな出て来てくれたじゃないか。エドの村では忘れられて久しい、そんな当たり前のことに感謝している。私はね、たったそれだけの事がとても嬉しいんだ」
タレスさんはエドの村はもうとっくに死んだのだと言った。この際といってはなんだけど、ちょっと疑問に思っていたことで、聞きづらかったことをここで聞いてみることにした。
「タレスさん、なんでそんな村にいつまでも住んでたの? 早くどこかに移住するとか、できたと思うんだけど」
「ああそうだ、とても反省しているよ。だけど、こんな甘いことは絶対ないと言われるのだろうけど、私はね、毎朝、目が覚めると、ドアを開けて、妻が、ドロシーが帰ってきてないかを確かめるんだ。獲物をとって狩りから帰ると、家にはドロシーが帰ってきてるかもしれないなんて、そんなこと絶対ないのに、自分のなかの、一縷の希望が邪魔をして、娘たちが実際に攫われてしまうまで、エドを出てゆくなんて考えられなかったんだ。つくづく父親失格だと思う。アリエルさんたちには一生かけても返せない恩が出来てしまった。貧乏暮らしだから受けた恩に報いるすべを持っていないが……」
「責めるようなことを言ってすまなかった。許してほしい。それと、セキとレダの件はもうウーツ鋼と精製ミスリルでお釣りがくるほどの謝礼をもらっている。言いっこなしにしよう。奥さんの件は確約できないけど、それでも俺が今後世界中を旅してまわってる間、見かけることがあったら必ずここにいることを伝えておくから。俺にしてみればこれも片手間だ、感謝されるようなことじゃない」
そういうと、タレスさんは言葉もなく、深々と頭を下げたあと、二人の手を引いて、自分たちの家に帰っていった。
「兄さま、タレスさんの奥さん、とっても愛されてるの」
「そうだな、人族の俺には200年、300年たっても必ず見つけ出すなんて考えられないんだけどね。また会えたらいいなと思うよ」
「きっと会えるの」
「じゃあパシテーはタレスさんが奥さんと再会するまで世界を終わらせらんないね」
「そうなの。だから世界を滅ぼすのは、ちょっとだけ待ってあげるの」
アリエルとパシテーはそのまま、にこやかな表情のままカマクラに入り、そして翌日に備えて寝ることにした。
明日は朝から精霊を訪ねて、北の転移門へ向かうつもりだ。
北には精霊テックの神殿がある。テックは『精霊王アリエル』の童話にもなった、スヴェアベルムでもっとも有名な精霊で、自分と同じ名前ということもあって、まだガキの頃、寝る前、ベッドでビアンカがよく読んで聞かせてくれた。
精霊とはどんな姿なのだろうか、童話の挿絵の通り、小さくて緑色をしているのだろうか。興味は尽きない。なんて考えると眼が冴えてきた。実は前世で日本に住んでた頃から遠足の前の夜は寝られずに難儀して、バスの中で大いびきをかいて寝てしまうという困った性質をもってたのだけど、実はそれ、現世でも引き継いでいるらしい。
なかなか眠れなくて、狭いカマクラの中で200回ほど寝返りを打ったりして寝よう寝ようと頑張れば頑張るほど目が覚めてゆくという悪循環の中、実際に眠ったのはたぶん朝方、4時ごろだったと思う。
翌朝、保存のききそうな食料と、パシテーの着替えの衣服、そして万が一、億が一にも事故があって帰れなくなった時のために、所持金ぜんぶパシテーに預けた。
「兄さま、本当に気を付けるの。精霊は死に無頓着。命を奪うことに躊躇いはないの」
「俺は精霊を従えようとは思ってないから大丈夫。ちょっと話をしたいだけさ」
「くれぐれも気を付けて」
アリエルを見送るため、パシテーはアスラ神殿までついていった。
アリエルが石板に乗り、パシテーのほうを向き直ると転移魔法陣を起動した。
パシテーの心配そうな表情に、すこし寂しさが同居したような独特の雰囲気が目に焼き付いた。
何も心配いらないよと、そういう意味を込めて手を振り、転移してきた。ここはえらく寒い、寒風の吹き込むような浅い洞窟。
外を眺めてみると、そこは雪国だった。




