18-09 ルーの決断(2)オートマトン
薄暗い路地だ。通路は引くか戻るかだけ。一瞬で姿を消したということは、上空に逃れたか!
エリノメは見失った逢坂の姿を上空に探す。
あの女は危険だ。
セカで塩人形を使って騒ぎを起こした危険な女だ。その塩人形もサオでは相手にならなかったし、剣では相当な実力と見ているロザリンドも苦戦必至の実力だった。
いま塩人形はいないが、この女は気味が悪い。
エリノメには塩人形と聞いて不安を感じるだけの要素があった。
そんな気味の悪い女がいきなりこの距離に現れたことは不幸としか言いようがない。エリノメはいま圧倒的不利な状況なのかもしれない、なぜなら一般人レベルの戦闘力、防御力しか持たないシャルナクをこの女から守らなければならないからだ。
エリノメは自らの耐魔法障壁に加え、対物理障壁を多重に張り巡らせようと魔法を重ねた……が、しかし移動時にあらかじめ張っていた多重障壁はすべて打ち消されていることに、いま気が付いた。
目の前の女からの重圧かと思っていたが、どうやら本当に身体が重く膝の反発力も低い。もしや強化魔法も失われているのか。
(こ、これはアンチマジック……)
だとすれば防御魔法も……。
過去にこの世界に侵攻してきたアシュタロスたちと戦ったとき、アンチマジックを使うゾフィーに手も足も出ず、赤子の手をひねるように倒された悪夢がフラッシュバックする。強力な魔法を使えることで十二柱の神々なんてものに選ばれたのだ、魔法を使えなくされてはどこにでも居るヒト族の町娘と同じレベルにまで下がってしまう。腕力じゃその辺の学生にもかなわないのだ。
防御魔法もない、強化魔法もない。自らの強みである障壁も瞬時にかき消えてしまった。
エリノメはそれでも手刀を構えることをやめず、見失ってしまった襲撃者に備える。
しかし襲撃者は、出入り口を管理する衛兵の後ろにいて、肩の後ろからひょこっと顔を出し、指で少し頬をかきながら問うた。
「あの……、えっと、あなたイシターさんですよね?」
エリノメは過去の名前を呼ばれて、眉間のしわが露わとなった。
警戒心を隠そうともせず、怪訝そうに答えた。
「いかにも、過去にそう呼ばれていたころはあります。ではあなたは? 名乗らないのですか?」
逢坂はというと対照的に表情をやわらかく緩めると、足を揃えたのち深くお辞儀をしながら、まずは名乗った。
「逢坂美瑠香といいます。アルカディアからきました、うちの生徒たちが何人もここでお世話になっているので、あなた方と敵対するつもりはありません」
「敵対する気がないのであれば、アンチマジックを解いてください。あと、私をイシターと呼びましたね? なぜその名前を知っているのですか? あなたはアリエル・ベルセリウスやゾフィー・カサブランカと知り合いだったようですが、どういう知り合いなのか? 教えていただきたいものです」
逢坂は「失礼」と言って人差し指を一本立ててみせるとアンチマジックの効果が切れ、肉眼でも見えるほど強固な多重障壁が再構築され、逢坂の目の前に組みあがった。
逢坂は多重障壁の瞬時に組みあがるさまを見上げるように観察し終えると「申し遅れました」と言ってから自らのことを話し始めた。
「私はベルフェゴール、つまりあなたたちがアシュタロスと呼ぶアリエル・ベルセリウスの、そうですね、姉だと考えていただいて間違いありません」
逢坂がアリエルの身内だと明かしてもエリノメの疑念は晴れることはない。
いや、むしろ敵である可能性のほうを考えたのは自然なことであった。
エリノメはつい先日、セカで逢坂と会っている。
サオやロザリンドたちといざこざを起こしていた女だ。
そのときはシャルナクの護衛で同席していたので、耐風障壁を張っていたせいか話している声がうまく聞こえず、いったいどのようなやり取りが行われたのかは分からなかった。それにアリエルの陣営の話なんかを小耳にはさんで面倒に巻き込まれたくないというのが本音だった。
ただ騎士勇者をかたどった塩人形を連れた不気味な女だと思っていたのだが…… それがアリエルの前身、ベルフェゴールの姉だというならば話は別だ。
そう、いまこの女は自らをベルフェゴールの姉だと言った。
ベルフェゴールという男はザナドゥの小国、アマルテアの国王で、少数民族デナリィ族の族長だった。神話戦争の初期、ザナドゥという世界の全域を巻き込んだ紛争に勝利し、アマルテアでは英雄王と呼ばれた男の名だということも知っていたし、その後、スヴェアベルムとアルカディアが参戦したことにより、英雄王は亡国の王となったこともだ。
そして処刑されたベルフェゴールはアシュタロスという名でスヴェアベルムに転生し、世界の七割を滅ぼす破壊神となったことも知っていた。
ベルフェゴールの姉であると知らされたところで、加えてアンチマジック使いであるという事実はエリノメにとって絶望的な状況であるということを補完したに過ぎなかった。しかもいますぐ後ろにシャルナクがいる最悪の状況だ。
空気はピリピリと神経質に凍り付いていた。
アンチマジックが解除され魔法は戻ってきたものの、険しい表情を崩さないエリノメの肩をポンポンと合図するように叩き、シャルナクが少し微笑みながらしゃしゃりでてきたのだ。
「なんと、アリエルくんのアルカディアでの身内のかたでしたか、失礼、こちらも挨拶が遅れて申し訳ない。私はシャルナク・ベルセリウスといいまして、アリエルくんは私の弟の息子になるので、甥という関係になります。つまり奇妙ですが私とあなたも身内といって過言ではないと思うのです」
そういって闘争の構えをやめないエリノメの手首を優しく掴んで、そっとおろさせた。
しかしエリノメはシャルナクの手を振り払って、前に出ず、後ろにいるよう言った。
「前に出ないで、この女は危険……」
警戒心を解かないエリノメに向かって逢坂はため息交じりで言った。
「私に敵対する意志はないと伝えましたよ、むしろ私の生徒たちを受け入れてもらって感謝しています、もしかすると受け入れていただきたい生徒がまだ大勢いるので、あなたとは良好な関係を築きたいと考えていいます」
エリノメは逢坂の顔とシャルナクの顔と、あと護衛なのに何もできず手持ち無沙汰に立ち尽くす護衛の男たちの顔を交互に見ながら、この最悪の状況をさらに悪くしないよう最善の手で切り抜ける方法を模索する。
だがしかし、アンチマジック。これがどうしようもなかった。
エリノメの知る限り、魔法陣ではなく純然たる魔法としてアンチマジックの使い手は、これまでの歴史上たった三人しかいない。
最強最悪のデバフ魔法と呼ばれる魔法技術なのだから研究されなかったわけがない。
当然、大勢の魔導師がアンチマジックの研究を何千年も続けた結果、アンチマジックの作動原理などは突き止められた……にも係わらず、なぜそんなに使い手が少ないのかというと、それは魔法を使えなくする魔法が発動した瞬間に術者本人が魔法を使えなくなるからだ。対策のための障壁を張ったとしても、障壁ごと消えてしまうという……、いかにも当たり前という結果になった。
しかし高度な魔法陣技術で実現したかもしれないという噂までは聞いたことはあるが、魔導師個人の技術で発動することに成功した者はいないという激レアな魔法技術だ。
そんなアンチマジックの使い手としてはヤクシニーが真っ先に頭に浮かぶ。
数万の兵士が待機している陣に突然空間転移で音もなく突然現れたかと思ったら同時にアンチマジックを範囲化させて発動し、障壁、強化、防御など兵士たちが纏っているすべてのバフを解除したうえで空間ごと切断してくる存在そのものがチートのような女のせいで、アンチマジックは最悪のデバフ魔法と呼ばれることになった。
アンチマジック使い、残りの二人はエリノメも会ったことはなく、のちのアンチマジック研究などで知ったのだが……うち一人はザナドゥの世界樹を守る精霊だという。
エリノメは緊迫した空気の中で、この逢坂美瑠香という女を観察してみた。
まず顔のパーツひとつひとつを見る、髪も。肌を露出させるような服装ではないのでよくはわからない。ぱっと見ヒト族のように見えるが、少なからず違和感が残る。どうやらヒト族ではなさそうだ。人種に関して特定することはできないが、エルフより人に近いヒトの近縁種に見える……、だがしかし、どう見ても精霊ではない。
では三人のうち残ったあとの一人はというと、これが謎に包まれている。
16000年前に起きた後の世に神話戦争と呼ばれた戦争の初期に、ザナドゥという世界をまるごとひとつ滅ぼしてしまうような激しい戦争があった。これは今も創作含みで書籍として記録されているから知ろうと思えばだれでも知れる事実だ。
だが記録されていないストーリーも当然ながらあって、そこにアンチマジック使いである可能性が極めて高いとされた最後の一人がイシターの記憶に残っていた。
実際に会ったことはない。見ていたわけでもない。
しかし名前だけは知っていた。『ルー』という名前。
戦後のスヴェアベルム、空も地面も海もすべてが灰によって汚染された暗黒の時代をかろうじて生き残り、十二柱の神々が世界を治めていたことなど人々の記憶からとっくに消えてしまったあと、権力構造がリセットされたスヴェアベルムで当時の夫であるクロノスとひっそり平民として暮らしていたイシターのもとに、ヘリオスからの使者が現れた。
こんな神々から見捨てられた地に、平民として暮らす "元"十二柱の神々序列第七位のことを覚えていてくれたらしい。
使者が持ってきたのは序列変更の公布だった。
何をいまさらと思った。そんなものに意味はないとも。
自分の序列が解除されたことを告知に来たのかと思い、話を聞いてみると、それまで十二柱の神々として序列第十位を誇っていた、アルカディアの男神ヘクターが倒され、替わりに『ルー』という女神がそこに収まったのだという。
ヘクターは豪胆であり自信家、そして野心家だった。
先の大戦で大きな戦果を挙げて英雄となった。とくにアマルテア殲滅戦での働きが評価され、空席だった序列第十位の席に収まった男神だった。
戦場をスヴェアベルムに移してからも勇敢にアシュタロスたちと戦った、あのアルカディアの男神ヘクターが、ルーに正々堂々と一対一の戦いを挑まれ、いともたやすく倒されてしまったというのだ。
ヘクターは序列で十位と低めだが、それは比較的新しく十二柱の神々に選出されたというのが原因で、その実力はテルスに次ぐとまで言われるほど戦闘力は高かった……にもかかわらずだ。
あのヘクターが容易く倒された? 隣で話を聞いていたクロノスも、にわかには信じられないような荒唐無稽ともいえる話だった。
ヘクターを倒し、序列第十位に収まったルーという女神。
アルカディアにあるヘクターの居城を襲撃し、有無を言わせず玉座の間に押し入って正式な決闘を申し込んだのだという。暗殺を企てたわけではない。正々堂々、真正面から挑んだのだ。
もともと好戦的な性格だったヘクターはそれを笑って受けた。
決闘は突然の来訪により急遽決まったが、立会人が選定され正式な手続きのもとで執り行われた。
その結果ヘクターは圧倒され、いともたやすく倒されてしまったのだという。
ヘクターがどう戦い、いかにして敗れたかを聞いたが、序列変更の公布をもってきた使者には詳しいことはわからなかった。ただ、ヘクターが一対一の決闘で敗れたことはアルカディアでは有名な話になっていて、どうやらあのヘクターが魔法を使うことなく、一方的にやられたという。むしろ魔法が使えなくなっていたのではないかと。
戦いに敗れたヘクターはというと人外の最期を遂げたという。
なんでも全身が粉々に砕け散り、その場にはうずたかく積み上げられた塩の小山がだけが残されたとか。
塩についてはよくわからなかった。その塩がヘクターの成れの果てなのか、それか何かの魔法の触媒に使われたのかは分からない。だがヘクターほどの魔導師が魔法を使うことなく一方的にやられたということで、アンチマジックの使い手だろうという結論に達したのだ。
アンチマジックはこの世界で最も恐ろしいデバフ魔法のひとつとされている。
なぜなら魔法の強さは十二柱の神々、つまり自分たちの存在証明でもあるからだ。それをなかったことにしてしまう、アンチマジックは神々という世界でも最も強力な力、神々の魔法をも無力化してしまうのだ。
アンチマジックの恐ろしさはアシュタロスたちと何度も戦い、そのたび甚大な被害を受けてきた自分たちが一番よく知っている。
ヘクターの敗北は当時イシターも気になってはいたが、序列に興味が無かったので、それからどうなったかまでは知らずにいたのだが……。
それがつい先日の話だ、セカで塩人形を見た。
オートマトンなんて技術、アルカディアにもスヴェアベルムにもない。あれはザナドゥ起源の技術だ。
それにヘクターを倒したあとに塩が小山となって残されたという共通点、そしていまこの女は確かにベルフェゴールの姉だといった。
アリエルの姉でもなく、アシュタロスの姉でもなく、ベルフェゴールの姉と、そういったのだ。
アリエル・ベルセリウスの前身ベルフェゴールはザナドゥの小国、アマルテアの国王だ。
ヘクターは神話戦争の初期、アマルテア殲滅戦に参加し、大きな戦果を挙げたことで十二柱の神々のなかでも序列第十位に選出されたのだ。
ヘクターを倒した女神の正体が、16000年を経たいまようやくわかった。
点と点が線になって繋がったのだ。
エリノメの口をついて出た名前……。
「ルー?」
「はい、ルーと呼ばれていた頃もあります、イシターさん。この前セカという街でお会いしましたね、でも挨拶がまだでした。不躾でごめんなさい、ルーの名はもう捨てました。いまはアルカディアの日本人、逢坂美瑠香と名乗っています、今年、アシュガルド帝国の勇者召喚に巻き込まれて、スヴェアに来ました」
ルーは神々がみな撤退し、小さく閉じた輪廻の輪と化した牢獄、アルカディアに潜伏していたのだ。
しかしアシュガルド帝国の勇者召喚……いったい、なんてものを召喚してくれたんだと文句を言いたかったが、この場でこの女を召喚した帝国を批判したところで、なにも解決しない。
警戒を解くことなく一定の間合いを保ったまま逢坂の出方を見るエリノメと、そんなことお構いなしに幾重にも重ね張りし結界化した多重防護障壁を手で触ってはその強度と造形を確かめる逢坂美瑠香。
「うん、こんだけあればそこそこ耐えられそう。素晴らしい障壁魔法です。でもどうせならあなた、この屋敷に住み込みでVIPの護衛をしていただけないかしら? ここ転移魔法陣の位置が安全性無視しすぎなんですよね。帝国軍の精鋭部隊が転移してきたら守れないんじゃないかしら?」
「ここに転移魔法陣を設置したのは、そちらの身内だと思います」
「ゾフィーね、わかりました。警備と利便性をバランスして最も有利な場所を確保しておいてくだされば、あのバカ女に言って移動させます。それまではここの警備、お願いできますか?」
「私よりもあなたのほうが適任ではないですか? アンチマジックを使えばだいたいの敵は無力化できるでしょうに」
「それができれば良いのですが、わたしはしばらくここを留守にしなければならないので、お願いできないかなあ?……と」
「ご自分にそれだけの力があるのですから、ご自分の身内はどうかご自分で」
「断るってこと?」
「あなたのお願いを聞く義理はありませんから」
「そう? じゃあ無理強いはしないわ。でも私が戻ってきてベルフェゴールの愛するひとが傷つけられたりしていたら、私はあなたの敵になりますよ? それでも構いませんか?」
逢坂の口調が変った。声質が低くなった。
その口からでた言葉は明白な脅迫だった。
エリノメは脅迫されたことで、この女とはまともに話ができないと判断した。
「お断りします。私を脅迫するなんて、本当にバカな女……」
「えー? ヘリオスの脅迫には屈したくせにどの口がそんな偉そうなことをほざくのかな? 私はあなたが連れてきた危機のことを言ってるんですよ?」
「危機? あなたがそこに居る事のほうがよほど危機なんですけど?」
「分かってないわね、ほんと油断してたら足もと掬われるわよ?」
「護衛中は油断なんかしません」
「へ――っ、油断しまくってるじゃないですか。まだ気付いてないのでしょう?」
逢坂はあからさまにバカにしたように挑発で返しつつ、付け加えるようにシャルナクの右側を守っている護衛の兵士をビシッと指さした。
「はい! では教えてあげます。ではそっちのあなた。私あなたの秘密を知ってるんですけど、バラしちゃいますよ? さきに謝っとくね、ごめんなさい……」
逢坂に指さされた男は周囲をキョロキョロと見て、何の事なのか分からないといった顔をしている。いま指さされたのが自分だとは思わなかったようだ。
そして怪訝そうな顔つきで睨んだ。
「あなたですよ、あなた。確か名前はケルン・ホートランドさん。でもね、本名はディファイ・アグロフ。帝国陸戦隊第二軍、諜報部所属の潜入工作員……、合言葉は『エリーゼにバラを買ってやれ』ですね」
男はあからさまに慌て始めた。
「ちがっ、そんなんじゃない、言いがかりはよせ!」
「あれっ? あてずっぽうで言ったのに、図星だった? ごめんなさい、仕事の邪魔しちゃったかな……なーーんちゃって、ボロが出てますよ?」
男は明らかに動揺しているのを逢坂に突っ込まれることとなり、周囲の視線が厳しくなったのを感じ、へたな言い訳が通じないと知るや、最も愚かな方法で身の潔白を示そうとする。
本名まで言われてしまったのだ、これ以上なにか話されるとマズイと考えたのだろう。必然的に、目の前で秘密を暴露する女を黙らせるという行動に出てしまう。これが愚かだった。
「聞き捨てならん。言うに事欠いて帝国軍の工作員とは、あまりに無礼な物言いだ。女!、いまの発言を撤回して許しを乞えば穏便に済ませてやるぞ?」
「あなたは穏便には済まないわよ。なんでバレたか理由知りたい? ねえ、知りたい? 頭を下げて、プリーズってお願いするのなら教えてあげるわよ? うふふっ……」
帝国軍のスパイと言われた兵士は口を真一文字に結び、強化魔法の起動式を重ねがけするのが見えた。この兵士はグリモアを使えないようだ。
そんな安い挑発に乗ろうとする兵士をエリノメは窘める。
「挑発に乗らないで、いいから下がりなさい」
しかし男は引き下がらなかった、まるで逢坂の言った帝国軍の諜報部員であることを立証するかのように慌てふためいて、自ら墓穴を掘って勝手にハマっていくこととなった。
「奥方さまこそ下がっていてください、護衛はそもそも私どもの仕事です」
そういって剣の柄に手をかけた兵士に、逢坂は更に挑発を加える。
「あちゃあ、躾のできてない犬ちゃんにはお仕置きしないといけませんね、仕方ない、じゃあちょっと遊びますか?」
ギリッ!
奥歯のきしむ音が聞こえると、男は我慢の限界に達した。
アンチマジックは解除されている。
兵士は強化魔法を極限まで乗せた踏み込みで逢坂に斬り込む。
いや、剣は鞘から抜かず、掴みかかった。女だから怪我をさせたくなかったとでも言うのだろうか。
ここまでエリノメが警戒しているにもかかわらず、最初から全力で殺しにいく覚悟もなく、明らかに手加減しているのだが、だからといって逢坂も手加減してくれるかというと、そうではなかった。
護衛の兵士が掴みかかろうとするも、逢坂はエリノメから一瞬たりとも目を離すことはなく、護衛の兵士と交錯する。逢坂は避けもせず、身を庇うための防御姿勢もとらなかった。
強化魔法をたっぷり乗せた踏み込みで兵士が飛び込んでくるのを見もせず、その攻撃を無防備に受けた。そう、確かにいま攻撃が入った。兵士は逢坂の顔に掴みかかり、関節でも極めてこれ以上なにも話せない状況を作り出そうとしたのだろう。
だがしかし兵士は逢坂の身体に触れることすらできなかった。
パチン! という軽い金属音のような甲高い音がしたのと同時に、いま掴みかかったはずの兵士が白く輝く砂状の結晶となり、強化魔法ダッシュで懐に入った慣性そのままに、ドシャッと地面へぶちまけてしまった。
護衛の男はエリノメが制止するのも聞かず、塩になってしまった。
シャルナクもセカで騎士勇者イカロスが塩になったのを見ていたが、今回は自分の部下が不用意に危険地帯へ飛び込み、塩となって命を落とした。こんなにもあっさりと、たやすく人は命を落としていいものなのだろうかと思うほどに。
一方、たったいま塩となり、身体をぶちまけて死んだ兵士は一億粒のキラキラと輝く、透明感のある白い結晶となって逢坂の周囲を取り巻く渦のように立ち上がり、飛び込む前の兵士の姿へと形状を戻していた。
動けず、シャルナクの隣で剣を構えているもうひとりの護衛の男は、塩になった同僚が元に戻ったことで一瞬ホッと胸をなでおろした。いまのやりとりのどこにホッとする要素があるのか分からないが、いま同僚の身に何が起きているか分からない、それほどまでにここで起きた出来事は常軌を逸している。
逢坂はまだ終わらせない。
立ち上がった塩人形の肩を掴んでエリノメたちの方に向けた。
「はい、あなたが上から受けた命令を実行しなさい。いまここで!」
逢坂の命令を受けてすぐさま、ゆっくりとした動作で立ち上がった塩の兵士は、まるで石膏像のような無表情で逢坂の前に立ち、そしてゆっくり剣を抜くとシャルナクに向けて構えた。
逢坂はプルプルと小さく首を振って窘める。これはあってはならないことだ。
「いけない子、どんな命令を受けていたのかなあ?」
逢坂のセリフが終わったか終わらなかったか、たったいま死んで塩人形となった兵士は、肉体を持っていたころとは段違いの、縮地ばりの加速をみせ、剣を振りかぶった。
狙いはシャルナクだ。
「ちいっ!」
エリノメは身を低くして構えた。
いつもなら剣の攻撃など障壁で受け止めるか、素手で掴んで防ぐのだが、今夜は相手が悪い。
エリノメは懐に隠し持っていた短剣を抜いて攻撃を受け止めながらも、逢坂の挑戦的な視線を感じていた。要するに塩人形をけしかけてエリノメの戦闘力を値踏みしているのだろう。
エリノメも長い間戦闘から離れているとはいえ、過去にアシュタロスとの戦闘で互角の戦いを繰り広げた女神だ。その地位は実力よりも低いと言えるだろう。おそらくは四世界で1、2を争うぐらいの障壁使いだ。しかし自慢の障壁も、たった一撃耐えただけで、剣の触れた部分から障壁の大部分が急速に削り取られてゆくのが分かった。
この感覚……、弱いけど、
(アンチマジック!?)
エリノメもまさかアンチマジックを塩人形の身体に纏わせてくるとは思わなかった。
「ピンポーン! さすがスヴェアベルムの主神サマですね、このまま削り取られるかと思ったらさきにバレちゃいましたか。そうなんです、塩化ナトリウムは非金属では最もマナのノリがイイんです。だから表面を魔法でコーティングすることができるの。今回はアンチマジックコーティングを施した特別仕様です」
エリノメ・ベルセリウスは過去にイシターと呼ばれた、十二柱の神々の序列七位に座する女神だった。
耐魔法防御に長け、各種障壁魔法を強固に多重に展開させ、小柄で華奢な身体からは想像できないほど強靭な肉体とカリカリにチューンされたハイレベルな強化魔法を乗せて物理攻撃を仕掛けるという戦法を得意としていた。障壁魔法が得意だからといって防御特化というワケではない。
ジュノーがクソ女と言って嫌うのには理由がある。
とにかく防御力が高く、戦闘モードになるとほとんどの攻撃魔法を無効化するくせに防御魔法も堅く物理もまともに通らない。そのうえ縮地なみの高速で自在に踏み込んではカチカチに硬化させた手刀で一撃必殺を狙ってくる。アリエルやジュノーのような魔導師にはとても厄介な相手なのだが、アンチマジック使いとなると有利には戦えない。
それほど強者であるエリノメが、即席で作った塩人形にすら苦戦している。
「舐めるなあっ!」
この男の身体の表面にアンチマジックが施されているとして、魔法攻撃は有効ではないということだ。
しかしセカでゾフィーが塩人形を破壊するのを見ていたので、対処法はある程度分かっている。
いま耐魔法障壁が破られるまで0.5秒かかった。ということは0.5秒で破壊してしまえば、こちらの強化魔法、防御魔法までは消されることはない!
エリノメは左手にもった短剣で振り下ろされた剣を防ぎながら、空いた手を手刀にして耐魔法障壁を貼り付け、そして心臓を狙って手刀を繰り出した。
ドッシャアッ……!
砂のように重い手応えが手刀を伝わった。しかしエリノメが貫いたのは塩人形の左肩だった。
とっさに避けたのだ。死体にも反射神経というものがあるのかどうかはわからないが、確かにいま回避行動をとり、狙いを避けた。さすがに避けきれなかったようだが。
しかしもたもたしては居られない。飛び散った塩の粒がすぐさま肩に戻る。
突きだした手刀を引いたそのとき、エリノメの背後から首と脇を何者かに捕まれた。
片方は首を絞め、もう片方の腕を脇に入れて締める、変則的な羽交い絞めだった。
(えっ?)
エリノメを背後から羽交い絞めにしたのは、衛兵の男。
最初からここにいて、警備の問題で転移魔法陣は使えないと言った衛兵だった。
男は石像のように無表情のままエリノメを背後から捕えた。
エリノメは手刀を出した右手を塩に取り込まれていて背後の男に抗うこと叶わず、短剣を持った手でなんとか肘を出したが……その時はもう強化魔法も、防御魔法も失われていて、首を絞める腕がメキメキと喉にめり込んでくるのを感じていた。
「ほうら、甘く見てるから負けた」
逢坂は勝ち誇ったようにエリノメの負けを宣言した。
エリノメはゾフィーのように生身の戦闘力は高くない。あくまでも魔法を幾重にも重ねがけすることで強化が成り立っている。強化魔法と防御魔法がなければ、身長150センチに満たない、少女と同等の筋力しかないのだからアンチマジック相手には分が悪いとしか言いようがなかった。
それでもシャルナクを狙われては戦わざるを得なかったのだが……。
やはり奇跡は起きなかった。せめてシャルナクにだけは逃げてほしいと願い、振り絞るように叫んだ声も、首を絞められ、かすれてしまう……。
「シャルナ……にげ……」
声は届いた。エリノメが何を言わんとしているのかも理解した。
しかしシャルナクは逃げなかった。
最初から逃げるなんて選択肢はない。
「まいった! 降参する。お願いだ、妻を離してほしい。要求はすべて飲む!」
逃げずに塩人形の腕を握り、非力な腕力にものをいわせてしゃくり上げたりしながら、首の締まるのを緩めてエリノメを助けようとするシャルナク。
塩人形の力が強く、シャルナクの力ではびくともしなかった。
「ああ、大丈夫大丈夫。絞め殺したりしないので。でもその女、暴れたら面倒くさそうだから、もうちょっと捕まえておきたいだけなんですよね」
「あ、あの、エリノメ……苦しくないか?」
エリノメはここ数年で一番不機嫌そうな顔をしてシャルナクを睨みつけた。
逃げろと言ったのに逃げなかったからだ。




