17-65 和平会議(2)突き付けられた現実
「アリエルどの! このファイルについて詳しく説明していただきたい」
「これは審問機関ジュライの報告書をまとめたものだと思う。こっちのページを見てほしいのだけど……」
そういってカストルとエンドアにもよく見えるよう広げて見せた。
エンドア・ディル暗殺に関する記述と途中経過の報告があそこにあったからだ。
報告を読んだ二人は絶句していた。
審問機関ジュライという名を聞くことすら初めてだったようだ。
だけどやはりトラサルディはジュライを知っていた。いや、ダイネーゼとノーマ・ジーンも反応した。
つまりグローリアスは知っていて当然といったところか。
「ジュライ、我々もその存在は知ってました。しかしこれは教義に反する異端者などを探し出して、悪く言えばその、密告するといったことを生業とする審問機関だと認識していたのだが……、これではまるで諜報部か暗殺部隊ではないか」
「そんなイメージだよね。あと、パシテーのお父さんのトコの記述だけど "07投与" って書いてあるでしょ? これって状況的に遅効毒だと思うんだよね。……で、昨日パシテーのお父さんから預かったった薬をちょっと舐めてみたんだ」
「毒物と分かっていながら口に入れたのかね?」
「俺、昔からあらゆる毒を受けてきたからね。まあ、主に暗殺未遂なんだけど。だけどおかげ様で、体質的に毒には強いんだよ……って、みんな引いてる? ここ笑うトコだよ?」
トラサルディもダイネーゼもドン引きだった。
アリエルは仕方なく話を進めることにした。
「苦みの強い薬草が混ぜられてて味では判断できないけど、俺の体に出た異変からジュノーが鑑定してくれた。パシテーのお父さんに処方されてた薬には致死量にはずいぶん足りないけど『砒素』が混入してたんだ。これは自然界には半金属として存在する物質で、日本では殺虫剤とかに使われることが多くて、この世界でも暗殺用の毒物として良く知られてるはずの、ちょっとメジャーな毒物かもしれないんだけど……」
「ロウ毒のことかね? 確かにロウ毒は暗殺に用いられたという歴史はあるが、そもそもごく少量では人を死に至らしめることはできないし、致死濃度であれば銀の食器に反応するからな。我々のような商人でも食事をするときは銀の食器を使うじゃないか。銀はロウ毒に反応して黒く染まるから、食べ物に混ぜられると口に入れる前に気が付くようになっているし、もし万が一、口にしてしまったとしても、治癒魔法をかけ続けることで一命をとりとめたという報告もある。それに今さらロウ毒なんて暗殺に使おうものなら、逆に仕掛けたほうがバレて逆襲されるのがオチだよ」
「こっちじゃロウ毒って言うんだね。これ銀に反応するのは、精製時に硫黄が除去しきれてないからなんだよね。硫黄分が銀と反応して真っ黒な硫化銀になるわけで、それしっかり精製すれば硫黄を含まないから銀食器なんて何の役にも立たないよ? それに商人なんだから銀食器に使われる銀の純度の足りないものがあるということも知ってるでしょうに」
「「「「「「 えっ? 」」」」」」
声をあげた者は銀食器を使って食事をしていたのだろう、それが役に立たないなんて聞かされちゃ驚くしかない。ベルセリウス家の食卓も、上等な店の食器も銀を使うのが、さも当たり前なのだから。
「って何? 知らなかったの? 父さんも一応は国家元首なんだからさ、銀食器なんかアテにしてたら死ぬよ? すでに暗殺にも使われてるみたいだし」
「マジかアリエル! 銀食器が輝いていたら何も疑わずに食うのは常識だぞ、お前が小さな頃も銀の食器が黒く変色してたら口を付けるなって教えただろ?」
「急性中毒になるとすぐに倒れるから直前に何喰ったのかとか調べられて暗殺する側がバレるじゃん。だからごく少量ずつ食べ物に混ぜたり、薬に混ぜて処方されたり、または吸引すると単純に体調悪化だけじゃなく、肺がんや肝臓がんを発症する危険性が高くなるんだってさ。これジュノーの知識ね。そういえばこの世界で『癌』は『岩』といわれていて、治癒魔法をかけてもまるっきり効果がなく、むしろ逆に病状が悪化する厄介な病気なんだけど」
この世界で、子どもが罹患する小児がんは『悪霊憑き』と呼ばれることもある。成人がかかる治癒魔法を逆効果にする体調不良と原因不明の痛み、体内に出来る堅いしこりを『岩』という。どちらも一度発症してしまうと治癒魔法が逆効果になり、回復させれば回復させるほど身体は衰弱するので、治癒師のできることは鎮痛のみで、『岩』となった患者は静かに死を待つのみだという。
アリエルが説明を始めるとパシテーの父、エンドアが急に不安になったのだろう、苦しい胸の内を吐露した。『岩』というと不治の病なのだから。
「わ……わたしに岩ができたのかね?」
まあ、そのまんま治癒魔法をかけてもガン細胞を喜ばせるだけだから、ロザリンドにスパッとやってもらってからジュノーの治癒魔法で再生させるとか、ゾフィーに内蔵だけピンポイントで引き抜いてもらって、その後ジュノーの治癒魔法を使ってもいいし、いろいろとやりようが残ってる。
「いいえ、まだ分かりません。でも、長期間にわたって慢性的にロウ毒を投与されていたのだとしたら、しばらくした後で発症するケースもあります。まあ、もしそうでも治す方法はあるので、心配しないで療養してください」
そういってアリエルはビルギットの傍らに移動する。
「ビリーのお兄さんたち2人は、若くして『岩』の病で亡くなったと聞いたよ……」
ビルギットには上に二人の王子が居た。
長兄は8年前、ビルギットがまだ幼5歳と幼かった頃、15歳で元服した年に『岩』を発症すると、瞬く間に痩せ細ってゆき、亡くなってしまった。
しかし王国の悲劇は終わらない。
いまより5年前、ビルギットが8歳になったばかりの夏、次兄も『岩』を発症し、14歳で亡くなった。
王子が亡くなった瞬間、まだ8歳だったビルギットは王位継承権第一位となったが、それと引き換えに女王アンジェリカは塞ぎ込み、公の場に姿を見せなくなったという。
ビルギットの頭の中ではいろんなことが渦を巻いて、混乱の極致にあった。
それでも気丈に振る舞う。
「はい。ですが今ここで鬼籍に入った兄たちのことを論ずるつもりはありません。アリエルさんは暗殺されたと言いたいのでしょうけれど、いまとなっては証拠がありませんから」
「分かった。話したくないなら話さなくていい。でも勝手に調べることは許してくれ。ビリーが言うように俺は2人の王子は暗殺されたと思ってる。実はまだ裏とってない、状況証拠だけ。今話してることは、議題とは横道に逸れたように感じるかもしれないし、遠回りしてるかもしれないけど、実はずっとひとつ同じ話をしてるんだ」
「長くなっても構わんよ、私はアリエルの話にのめり込んでいる、トーマス・トリスタン議員、王子2人の暗殺疑惑、そして銀食器に反応しないロウ毒と、それらの中心にある審問機関ジュライ……。ジュライとはいったい何なのだろうね?」
アリエルはまた別の、今度は薄いファイルをストレージから取り出して頭上に掲げ、それをひとまずトラサルディに渡すとき、ついでにプロテウス議会で今朝あったばかりの議事録も合わせて手渡した。
トラサルディはチラッと見ただけで理解し、それをトリトン、シャルナクへと回したのだが、一か所だけ眉を吊り上げて書類に穴をあけるんじゃないかと凝視する場面があった。
書類は金貨1万枚規模の金銭の受領書が数枚、そこで07(ゼロセブン)を発注した年にプロテウス魔導学院から届いた仕様書と納品書、そしてトーマス・トリスタンのサインがしてある受領書であった。
「トラサルディ叔父さん、どうかしたの? 何か?」
「いや、ちょっと知った名前を見たんだよ。それだけさ」
トラサルディの視線の先を読んで、リンダ―と書かれたサインを見たところで、アリエルにはまるで顔色が変わったように見えた。
それにダリル軍がフェイスロンドと戦争してた頃、教会が毒矢の使用を許可してるから、実際矢尻に塗ってた植物毒のほうもプロテウス魔導学院が作ったのだろうという推測を裏付ける書類がでてきた。
で。注目の07(ゼロセブン)の仕様書だ。これにも魔導学院のハンコが押されていた。書かれている内容は専門用語が多すぎて分からないのだが、これを分かりやすく解読するのは魔導学院に依頼することになるから、トリトンに丸投げしておいて構わないだろう。しかし納品書に書かれてある製作者のサインには、ものすごく読みづらい筆記体で『リンダー』とだけ書かれてある。
さっきトラサルディに見せて反応したのがこの『リンダ―』だった。
「トラサルディ叔父さん、リンダ―に心当たりある?」
「ん? まあ、そうだな、知ってるか知らないかと問われたら、知らないという訳でもない……という程度には知っている人さ」
「なるほど、そこんとこちょっと、あとでいいから聞かせてね。書類を分かりやすく説明すると、王都プロテウスの魔導学院が『リンダ―』に07(ゼロセブン)を発注しているのだけど、別の書類。リンダ―が07(ゼロセブン)を引き渡したときの受領書には、受取人としてトーマス・トリスタンの名があり、また別の金銭受領書、これはいわゆる領収書なのだが、トーマス・トリスタンからホムステッド・カリウル・ゲラーに金貨1万枚規模の大金が渡ってるんだ」
これもまた、受領証としてしっかり書面に残しているということは、表向き不正でも何でもないということなのだろう。
時系列順に番号を振るとこうなる。
1、トーマス・トリスタンがホムステッド・カリウル・ゲラーに07を発注した。
2、しかし07は魔導学院からリンダ―に直接発注されている。07発注の際、取り決められた詳細な仕様書があった。以降、リンダ―はこの仕様書通りの07(ゼロセブン)を納入する。
3、完成した07(ゼロセブン)はリンダ―から一旦魔導学院に納入されたあと、ホムステッド・カリウル・ゲラーの手に渡り、その後、トーマス・トリスタンに渡っている。
4、その際、トーマス・トリスタンからホムステッド・カリウル・ゲラーに大金が支払われる。
トーマス・トリスタンが直接リンダ―に直接発注することはなく、必ず間に、ホムステッド・カリウル・ゲラーと魔導学院が仲介に入っている。
発注の流れは、
トーマス・トリスタン → 神殿騎士団 → 魔導学院 → リンダ―
07の流れは矢印を逆にして、
リンダ― → 魔導学院 → 神殿騎士団 →トーマス・トリスタン
となるが、カネの流れは単純にトーマス・トリスタン → 神殿騎士団 となっている。
まだすべてを精査したわけじゃないが、07受領の日に神殿騎士団名義で魔導学院に謝礼を支払った領収書も出てきたし、同日にリンダ―も金を受け取ったという記録が残されていた。
「カネの流れはちょっと偽装されてるかな、後ろ暗いことがあったんだろうね」
もっともリンダ―にカネを支払ったのは聞いたことのない商会のが記載されていたので、アリエルはその書類をカストルの手元に置いて、何か知らないかと問うた。
記名では "グエイ商会" 、住所はガルエイアの城塞の外にある、青果市場に隣接する倉庫街であり、11番と記されていた。
「11番倉庫。これは昨日わたしの弟が衛兵の職務中、たしか子どもをはねて逃げた馬車を追いかけていきついた倉庫だと聞いています。端的に言うと、審問機関ジュライの拠点で、何も知らずに訪れた弟が襲撃を受けました」
アリエルは返された領収書を受け取ると、またそれをみんなに見える高さにあげた。
「ロウ毒を作ったのはリンダ―。そしてリンダ―にカネを払ったのはジュライだな」
そしてまた最近、トーマス・トリスタンが07を発注している。日付はアリエルたちがセカを解放した頃だ。仲介人のホムステッド・カリウル・ゲラー
07受領書の日付は10年前と9年前、7年前と6年前の計4回にわたっており、最近の発注は先月だった。しかしそれはまだ受領していない。ホムステッド・カリウル・ゲラーが捕えられてしまったせいなのだろうか。
「もう言わなくても分かってるでしょ?」
「なるほど、アリエルはこう言いたい訳か。07とやらを使ってビルギット王女殿下をも亡きものにしてしまおうと思って発注したまでは良かったが、商品を受け取る前にホムステッド・カリウル・ゲラーが捕えられてしまったせいで、受け取れなくなったと、そういうところですかな?」
「俺の言いたい事の半分ぐらい言ってくれたかな。でもさ、トリスタンって議員はホムステッド・カリウル・ゲラーが捕えられ、07がアテにできなくなったところにビリーが人質に取られることになって、これ幸いと大賛成したってことでしょ。こいつ今どき徒歩でノーデンリヒトに派兵しようなんて考えるようなバカだし、実際に話したゾフィーも『あの男、約束通り人質交換してビリーを取り戻す気なんて全然ないわよ?』って言ってたからね。でもそうなるとアルビオレックス爺ちゃんの身の危険を感じるんだよな。当然奴らはこっちがビリーを傷つけるように仕向ける、またはビリーを返せないようにする。そしてビリーがこっちにいる間、あの手この手を使って全力で殺しに来るんだろうな」
アリエルがそう言い、当のビルギットにそっと視線を送った。
ビルギットは落ち着いて目を伏せている。そんなことは百も承知だと言わんばかりの表情だ。
そんな肝の据わったビルギットから視線を戻し、アリエルは続ける。
「もし、万が一にだよ? 和平を話し合うためノーデンリヒト入りしたビリーが殺されでもしたら大事だよ?奴らの大好きな大義名分を振りかざして、大喜びでノーデンリヒトに侵攻してくるよね。そしてトーマス・トリスタンはビリーの仇とって、自分は次期国王として文句なしの評価を得られる。まあ浅はかだけど」
あまりに酷い話の展開に、トリトンがとても嫌そうな顔をしながらアリエルに問うた。
「その、ビルギット殿下の仇って私のことか……」
「まあ、そうなるよね。でもさ、ホムステッド・カリウル・ゲラーが捕虜になってしまって07が受け取れなくなったトーマス・トリスタンは、玉座の間まで侵攻したゾフィーに対し、交換用の人質として送り出したのだけど、そうなるともうビリーには帰ってきてほしくない。むしろノーデンリヒトで殺されてくれたほうが、よっぽど都合がいいわけだ。そして、トーマス・トリスタンはこのような時、だまって誰かが邪魔者を始末してくれたらいいなーなんて甘い男じゃないよね。というわけで父さん、ビリーの保護よろしく。ガチで殺しに来ると思うんで」
トリトンは真っ白な灰になって燃え尽きてしまったかのように、会議前と比べてハッキリと白髪が増えてしまった。これはアリエルが心配事を増やしたときに起こる特有の症状なのだが。
「いいえ、保護など不要です。生半可な覚悟で人質に志願などできますか!! 私はリシテアと約束したんです。無事に帰すと。戦争なんて終わりにすると。私は和平を土産にプロテウスへ帰らねばならないのです」
ビルギットはリシテアとの約束を口にした。
リシテア・ベルセリウスはトリトンとシャルナクの実母であり、アリエルからすると祖母にあたる。
ビルギットの何気なく発した言葉に少しの共感と、大きな温かみを感じた。この言葉により、二人は何の約束も担保されないであろう、和平の話だけでも聞いてやろうって気になった。
立派な覚悟だった。気高さすら感じた。
しかしアリエルはビルギットを突き放す。
「じゃあそのお花畑の頭ぶん殴ってくれるような現実を見せてやるからそこで話を聞いとけ、な」
アリエルから感じていた緩い空気が、急に冷たくなるのを感じた。
ビルギットは手を膝の上に乗せ、微動だにしない上品な着座姿勢をとって顎を引いて一言。
「私はお花畑などではありません」
フッと鼻を鳴らしアリエルは話を続ける。
「えっと、トリスタン議員のことなんだけどさ、議会の報告書を見ると、アルトロンドの兵士も当然当たり前のようにノーデンリヒトへ向かって連合軍で40万とか言ってんだけどさ……数は正確じゃないにせよ、議事録の発言記録みてると、すでにアルトロンドとは話がついてるみたいな言い方なんだよなあ。ちなみにアルトロンドはトリスタン議員と何か密約あるのかな?」
アリエルがカストルにプロテウス議会の発言記録を見せて確認をとったが、アルトロンド評議会議員としてカストルは否定してみせた。
「いいえ、アルトロンドが20万もノーデンリヒトに派兵などできませんし、評議会でもそんな議題すらあがっておりません。そもそも現状アルトロンド正規軍は4万しかおりません。アルトロンドが神兵に頼ることなく対外的に戦えたのは2年前のマローニ戦までです」と正直に答えた。
ということは……。
「なあビリー、王都はアルトロンドの兵力が4万しかないって知ってたのか?」
「いえ、アルトロンド軍に20万、あと外国人を含む義勇兵、志願兵が7万と報告を受けています。特に外国人義勇兵を領内に入れる際には、事前に元老院議会へ申請し、議決による許可が必要なのですが、そんな報告も受けていません」
元老院議員でもあるビルギットは知らないという。
「いち領主が外国人義勇兵(神兵)を大幅増員するのに王都の許可なく内密に行ったとして、国王はアルトロンド領主でもあり、四大貴族の一角でもあるガルディア・ガルベスに反逆罪を適用できるのか」
「私がここで知らされた事実をプロテウスに持ち帰るとガルベス卿は反逆罪の疑いありとされるでしょう。しかし現在プロテウスにはアルトロンド領主ともあろうものを逮捕し、反逆罪に問うだけの力はありません」
「はい、お花畑その1がそこな。アルトロンドは王都プロテウスとアシュガルド帝国とが軍事衝突しないため、地政学上、非常に有効な緩衝地域として機能している。だがしかし、すでに反逆は成っており、緩衝地帯などない。現状、プロテウスの喉元には30万の帝国軍が突き付けられている。しかも、プロテウスを守る王国軍も、国王を守る王国騎士団もフェイスロンドとダリルを電撃的に奪ったノーデンリヒト・ドーラ連合軍のほうに気を取られて見当違いの方面を守ってるという体たらくだ。このままだとプロテウスは背中側、つまりアルトロンド側から刺されるぞ?」
「ノーデンリヒト、ボトランジュと和平の足掛かりができればフェイスロンド、ダリルを事実上支配している魔王軍と話し合いもできるでしょう。そうなれば西と南に展開している兵士を東側に再配置できます」
「はいはい、お花畑その2がこれだ。ノーデンリヒト陣営と和睦を結ぶには奴隷制の廃止と魔族の人権を保障する必要があるって言ってるだろ? そもそも元老院議会では68対40の差でビリーの意見なんて採用されなかったことも調査済みだ。トリスタンが王子暗殺を企てたというのも今のところ仮説にすぎないんだからな。たとえそれが事実だとしてもだ、立証するのに時間がかかる。モタモタやってていいのか? 帝国は待ってくれないぞ。奴隷にされてしまったエルフに手を差し伸べてやるだけの度量もない、人としての尊厳を取り戻すなどと言っても力が足りなさ過ぎて、夢物語に過ぎないんじゃないか? そんなビリーがいくら美辞麗句を並べ立てても誰の心にも響かない。もっと実現可能な和平案を示すべきだろ?」
ビルギットはぐっと眉間に力を込めて目を閉じた。
瞼に押し出されるように涙が2粒ぽろぽろとこぼれ、握り締めた手の甲へ落ちた。
しかし再び瞼をひらいたとき、その目には光が戻っていた。
現実を知らされ、折れそうな心を持ち直した。いや、開き直ったと言うべきか。
ビルギットは微動だにせず、ただただ解決策を模索する。
「法案を纏め上げるのに時間が必要です、なんとか時間をいただけませんか」
「プロテウスに残された時間か20日前後といったところだよ? ビリーに出来ることはもう何もないんだ、トリトンは必ず約束を果たすよ、ビリーに暗殺者の魔の手が届くことはないからおとなしく守られておけばいい」
「そんな……時間がまるで足りません! そこまで差し迫った状況なのに、私がここでおとなしく身を潜めていて王都はどうなりますか!!」
「王都がどうなるかって? そんなもん帝国軍の侵攻が始まったら半日ともたないぞ。これも実際に王国騎士団と戦ったゾフィーの見立てだから間違いないと思う」
「アリエル・ベルセリウス! あなたには帝国軍からプロテウスを守る力をもっています! その力を貸してください。お願いしますから……」
「それはプロテウス市民を助けるため、帝国軍とアルトロンド軍を皆殺しにしてもいいという意味か? 現状、もう帝国軍がアルトロンドに駐在している以上、戦場はアルトロンド領内になるが一般市民も当然巻き込まれる事になるってことも承知の上なんだよな? それを国王の信任を得た外交官の立場で、王女ビルギット・レミアルドが俺に頼んでいいのか?」
ビルギットの口元がゆがみ、先ほどからなんとか持ちこたえていた涙が堰をきられたように、目を潤ませる。
アリエルはさらに続ける。
「なあ、そんなんじゃあダメだろ! それをやってしまうとプロテウスの人の『自分たちだけ守られればいい』などとという性根が見透かされる。被害を受けたアルトロンド民の記憶に刻まれた不信感は一生かけても消えることはない。こんなんじゃ和平には向かわないぞビリー! 八方塞がりで打つ手がないのは理解するが、お前は重大な間違いを犯そうとしている。こんな北の果てまで何をしに来たのか思い出せないのなら黙っていろ」
……うううっっ……ぐっ……。
「それでも……、それでも……」
涙を飲み込み、懸命に嗚咽を押し殺そうとするビルギットの姿をみて、この場に集まった者はみな言葉を失ってしまった。アシュガルド帝国の侵攻はすでに始まっていて、それに気が付いたときにはもう手遅れといった状況を知らされ、議会で窮状を訴えても賛同を得られない。もはや手詰まり、あとはプロテウスが帝国に蹂躙されるのを黙って見ていることしかできないのだ。
無力であるがゆえに。




