17-60 ヘミングウェイが見た女神(2)原罪
ヘミングウェイは混乱の極致にあった。
部下にどう命じればいいのか分からない。手を伸ばせば届きそうなほど近くにいる、声をかければ必ずや振り向いてもらえるんじゃないかというほど近い距離にいた。あの赤髪の少女を敵として、部下に殺せと命令できるのか? できるわけがない。なぜならすでに信頼できる部下からの報告で、女神が降臨されたことを知っていたからだ。
包囲命令を無視して跪く部下たちを叱責することも出来ない。ヘミングウェイ本人も神殿騎士団副団長とはいえ根っこは敬虔な女神信者であるし、女神降臨の預言が実現するのを待ちわびていたのだ。
混乱して指示を仰ぐ者もいた。自分がどうすればいいか分からず、他の団員がどう対応しているのかをしきりに気にしだす者もいた。
そんな部下にどんな言葉を掛けてやればいいのか分からず、ただ立ち尽くして鮮やかな赤い髪に目を奪われていると、その少女がクルっと回れ右をしてこちらを向いた。
そこから先はもう、夢を見ているのか、幻覚を見ているのか、それとも自分の見たかった願望を見ているのか分からなかった。
ただ言えるのは、奇跡を目撃したということだ。
少女は全身から薄いオレンジ色の光を放ちはじめると身体を空中へ向かって投げ出すように浮かび上がった。みな無言でその姿を目で追った。
するとどうだ、頭上に光輪が発現し、ぶわっと空気を切り裂いて広がった。
光の輪は驚愕するヘミングウェイの頭上を通過したところで霧散し、キラキラと粉のように風に流れる光が、ゆっくりと降ってきた。
痛んでいた脇腹が温かく感んじて、すうっと痛みが引いた。
反射的に手で押さえてみた。
失ったはずの腕が再生していた。
高位の治癒魔法のように見えたが、周囲に寝かされていた自軍、領軍の負傷者まとめて、見渡す限りの全員が驚嘆の声を上げている。
治癒魔法などという生ぬるいものではないことが窺えた。
自分たちは温かな光に包まれていたのだ。
先ほどまで感じていた行き場のない不安感が払拭され、いまは安らぎに満ちていた。
はじまりの祖であり、女神ジュノー最初の使徒でもあるマザー・アリアは経典の最初にこう記した。
女神ジュノーの権能は心と体と、そして魂までも救ってくれる救済なのだと。
女神ジュノーこそが暗黒の時代に道を示す確かな光なのだと。
薄オレンジ色の光を放つ赤髪の少女が地上に降り立った。
赤い髪の少女が踏んだ石畳から何かの植物が芽吹き始めた。
ケガ人が大勢いて修羅場になっていた弓兵の持ち場でも自分の身に起きたことと同じ奇跡が起きていた。
ヘミングウェイは徐々に近づいてくる赤髪の少女の光が眩しく感じられる距離になると、もう涙がこぼれてしまって、ずっと見ていたいはずの赤髪の少女の御姿がにじんで見えなくなった。
たまらず自らも跪いた。
それでも止めどなく涙が流れた。この涙をどう形容すればいいのか分からない。悲しいわけではない、嬉しいわけでもない。ではなぜこれまで経験したこともないほど熱いものがこみあげてきたのだろうか。
ヘミングウェイには胸をいためて込み上げてくる熱い涙の理由が何なのか、理解できなかった。
赤髪の少女のあとについて、何人かの男と、何人かの女が続いたが、もうそんなことはどうでもよかった。
男が何人なのか、合わせて何人いたのか、エンドア・ディルの関係者だとか、自分の仕事を忘れてしまうぐらいには、どうでもよくなったのだろうか。ただただ呆然と赤い髪の少女を眺めていた。
近くに来ると迫力は増した。
少女に見えた女性は170センチほどもあり、いささか少女と呼ぶには憚られるほど、誇らしげに完成された美しさを自ら放つ光の粒に彩らせていた。
そして少しだけ上気した唇に、かすかな微笑を浮かべていたが、近付くにつれ彼女の放つ光の圧力を感じるようになり、石畳の隙間から芽吹いた植物たちが急生長を始めた。
アルトロンドではどこでも見られる背の低い雑草だが、春から夏にかけて小さな可愛らしい花を咲かせる名もなき草花だった。それがみるみるうちに生長し、葉を増やし、蕾を持ち上げて花を咲かせてゆくのだった。
どうせまた春になったら石畳の隙間から芽を出す雑草を引き抜く作業に追われ、専門の従事者がきて石畳の維持清掃をしなければならないのだが、アルトロンドは冬に入ったばかりだ。
さまざまな種類の草花の成長が加速してゆく。
若い騎士の中から「おおおおっ」と声が上がった。
赤い髪の女性が一歩、また一歩と石畳を踏んで歩を進める度、足跡から花が咲いてゆき、それは波紋が広がるかのように、広がってゆくのだ。
そのさまはまるで花という花が、こぞって女神の帰還を喜んでいるようにも見えた。
後に続く男たちも、小さな雑草の花を踏むことを避け、できるだけ何もない石畳の上を選んで歩こうとしていた。赤い髪の女性に魅せられているのは、こちら側だけではない、ディル家の者たちも同じだった。
この世界に生まれ、この国に生まれて、赤い髪の女神に感謝せず生きていくものなど居ない。
魔法がなければ生きてゆくこともままならない、これほどにも厳しい世界で、女神ジュノーがヒトに魔法を降ろさなければ、人類種として現在の繁栄はなかっただろう。冬に暖かい食事ができるのも、隙間風が入らない家に住めるのも、ヒトがヒトとして生活できるのも、すべては女神ジュノーのおかげなのだ。
美しく赤い髪を翻す若い女性は、跪き涙を流しながら縋りつくような羨望の眼差しを送るヘミングウェイの前で歩みを止めると、僅かだけ表情を曇らせた。
「私は、あなたたちの女神ではありません。……残念ですが」
赤い髪の女性の傍らには10歳ぐらいだろうか、まだ幼げなエルフの少女がいて、その娘は剣を抜いたまま包囲をやめない兵士たちをみて怯えているようだった。赤い髪の女性は、周囲にいる者たちですら和らぐほど優しい表情をみせると、怯えるエルフ少女の手を取った。
「道を開けなさい、この子が怖がっています。怯える少女を大勢で取り囲み、あまつさえ強化魔法を使って年端もいかぬ子どもに剣を向けるなど恥を知りなさい。私は弱いものを泣かせるために起動式を残した訳ではありません。あなたたちは力なき民を守る側ではないのですか。なぜこのような悲劇がまかり通るのですか? これまでのような非道な行いは、このジュノーが許しません」と言った。
その言葉を聞いていた者たち全員が気圧された。
この場にいる者すべての心を揺さぶり、罪を告発する言葉だった。
そのあと後ろを歩いていた青銀の柔らかい髪を風に流すエルフ女性が、間髪入れずに「何人たりとも!」と付け加えたが、これはどう理解すればよいかわからなかった。
そしてその場にいた者は騎士団、領軍の区別なく、言われた通りにし、ざあっと道が開けた。
誰一人として包囲を続けるなど、できるはずがなかった。
それからガルエイアの西門へ向かって歩を進めるたび、人工的な石畳から芽吹いた花が、女神の帰還を祝福していた。
そうだ、女神ジュノーが降臨されたという報告は正しかった。
そして後ろに続く者たちの中に、カストル・ディル議員や、アプロード・ディルも居た。
女神ジュノーがノーデンリヒトに付いたという情報も正しいのだろう。
女神ジュノーはエルフの少女の手を取って、残念ですと仰った。きっと教会や神殿騎士のとった愚かな行ないが、帰ってこられた女神を失望させてしまったのだろう。
女神ジュノーはガルエイアの西門を出ると、霧が空気に溶けるように消えてしまった。
見失ってしまったのかもしれないし、目の前から消えてしまったのかもしれない。
後で分かったことだが、すでに死んでしまった者たちはどうしようもなく生き返るといったことはなかったが、ケガ人については戦闘終了時点でゼロだった。
アルトロンド軍兵士たちも騎士団の側から女神ジュノー降臨の報告を聞き、実際に目にしたことで興奮気味にどんどん声が大きくなっていったが、騎士たちはおおむね言葉を失っていた。
待ちに待った女神の帰還を素直に喜べなかった。
女神を愛し、女神の言葉を信じていた神聖典教会の信者たちは、愛して止まない女神を失ったのだ。
光を失ったのだ。
女神に背いた罪の代償に。
己の欲の深さゆえに。
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