17-30【パシテー】ナルゲンふたたび(1)残された女たちの町
※パシテー編は数話の予定です。
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また半日ほど時間が戻り、ゾフィーが王都プロテウスを襲撃する前の朝。
ここはアルトロンド領、南ガルエイアから更に南へ下ったハイ・アセット山脈のふもと。ここから山脈をぶった切るように続く険しい峠があり、その難所を超えると、南部に広がる一面の大穀倉地帯、アセット高原がある。
エンドア・ディルは南ガルエイアの郊外にある私邸でダイネーゼから手紙を受け取り、32年前に生き別れとなった家族が無事にノーデンリヒトに逃れていると確かめた。その代償というわけではないが、ダイネーゼの頼みを聞き入れ、アルトロンド南部に広がる広大な穀倉地帯に向けて馬車を走らせている。
時刻は夜明け前、東の空が白み始めてきたが、天頂にはまだ星が輝く。
つい昨日まで病に臥せっていたせいで体力もなくなり、馬に乗ることもままならなくなっていたせいで、いまこうやって馬車に揺られているわけだ。荷車を捨てて馬の背に乗ることができれば、およそ2倍近いスピードが出せるし、馬の足も持つ。しかし体力がないせいで馬に乗れないのだから、こうやって荷馬車に揺られてでも行かねばならない。スピードが遅いなら、その分、夜通し走って一分一秒でも早く目的地に着きたい。
なにしろいまダリル領ではノーデンリヒト軍が今日にもダリルマンディを攻めようとしているという。
兵の大半をフェイスロンドに展開していているダリル軍にほぼ勝ち目はないこと、領都ダリルマンディを攻められるとダリル領からアルトロンドに向けて、数十万もの難民が押し寄せてくるという。
難民の規模を考えると、もはや一刻の猶予もない。
例えば外敵がアルトロンドに攻めてきたとする。その場合はアルトロンド領軍が矢面に立って対処し、領民を守るのが義務である。
例えば街で犯罪を犯した者がいるとする、その場合は、警察組織である衛兵隊が容疑者の逮捕から取調べ、仮投獄までを担当し、犯罪者には裁判を受けさせる。衛兵隊は市民を守ることを義務付けられている。
では例えば今回のようにアルトロンド・ダリル領境線のにある、広大な穀倉地帯にダリル難民たちが押し寄せてくるのは明白であった場合、生活用品のほとんどを持たぬまま逃げ出してきた難民たちが困窮し、生きるために略奪を行うことは容易に予見できる。
まだ起きてもいないことではある。だが近い将来必ず起きるであろう悲劇を未然に防ぐのは、政治家の責務だ。軍隊を動かすほうは長男で同じく評議会議員を務めるカストルに任せるとして、エンドアは、準備するのに、より時間のかかる食料、資材の調達に向わなくてはならない。身体が動かないからといって行かなくていい理由にはならないのだから、たとえ這ってでも行くのだ。
ガタガタと荷馬車が揺れる。
二頭立ての大きな荷馬車ではあるが、これはエンドアの自宅にあった買い出し用の馬車だ。そもそもからして悪路の続く街道を移動するのに壊れないよう頑丈なつくりになってはいるが、乗り心地よりも強度と実用性を重視しているため、御者台に伝わる振動と突き上げは、病人のもともと心もとない体力を容赦なく奪ってゆく。
昨日ダイネーゼと会談した時も、ふかふかのソファーにただ座っていることも辛いような、いわば死に瀕したような身体に鞭打って、やっとの思いで御者台から落ちずに、何とか馬を操っているといったほうが、より今の状態を正しく表していると言える。
小走りだった馬のスピードが歩行にまで落ちてきた。
馬の脚を休ませながら走らせてはいるが、空荷とはいえ、さすがに荷車を引いたまま、夜通し移動させるとなると、いかにタフなアルトロンド馬といえど蓄積した疲労は隠しきれない。
エンドア・ディルは、自分の身体の不調だけでなく、馬も不調を訴えていることに「しまった」と舌打ちしたが後の祭りだった。馬の足を気遣いながらここまで来たつもりだったが、どうやら無理をさせたようだ。右を引く馬と左を引く馬の歩調が合わなくなっている。このままでは街道の先にある峠の途中までも行けそうにない。
普段あまり馬に乗らない不慣れな男が、気ばかり急いて遠方へ向かおうとすると必ず起こるトラブルである。これはエンドア・ディルが不覚を取ったことに間違いないが、言うなれば当然の結果だ。急いでいるからこそ、馬の事にまで考えが至らなかった。
馬の足を休ませ、街道の傍らに流れる沢水で喉を潤し、頬が切れるほどの清流で顔を洗い、ほとんど寝てなくて、疲労の蓄積した脳ミソを叩き起こす。
冷たい。突然の冷水を顔に浴びせたことで、脳が驚いて目を覚ました。
一時的に覚醒したエンドア・ディルは、携行食の干し肉に塩をかけてエネルギー補給を行いつつ、空がすでに白み切ったのをよいことに御者台の脇に巻いてあった地図を広げた。
現在地からアルトロンド南部の都市、ウォンドルレートへ最短距離で向かうにはハイ・アセット山脈を突っ切るように南下する険しいダブロード峠を越える必要があった。
ダブロード峠は輸送コスト意識の高い商人であっても通行を避ける、険しい山道になっていて、どうせ徒歩でしか行けないのだから、行ける所まで馬車でいって、そこで馬を放棄して乗り捨てる覚悟も当然してきたはずだ。だがしかし、エンドアはただ馬車に揺られて峠の手前に来ただけだというのに、フラフラに披露している。
75歳という年齢のせいでもあるが、ここ数年、病に臥せっていたことで体力の衰えが顕著で、馬車などという、この国では贅沢な乗り物に乗っていても、これほどまでに身体が思い通りにならない。
このまま南下して峠に入っても、自らの足で峠を越えて、ウォンドルレートの街へ無事に到着できるのか、それともここを西側に大きく迂回すると、おおよそ道は整備されていて難所という難所はない。だが恐らくは3、4日ほど余計に時間がかかるだろうが、途中ダリル領との境に位置するナルゲンの町、街道沿いにイーストナルゲンの町を経由しながら移動することができる。
急がなければならないのはやまやまだが、ウォンドルレートまで辿り着けないという最悪の事態だけは避けなければならない。こちらの動きが遅れても、まだ対処のしようはいくらでもある。だしかし、たどり着けなかった場合はもうどうしようもないのだ。
長年アルトロンドの評議会議員を務めた男の決断は早かった。偽りなく現状を把握し、最良の選択肢を選んだ。自分の体力の無さについては不徳の致すところだが、最悪の事態とは、峠越えを強行して遭難し、ウォンドルレートに辿り着けないことだ。そうなると残った選択肢を急いだほうが有意義だ。
エンドア・ディルはハイ・アセット山脈を西側に迂回すると決め、ナルゲンの町へ向かった。
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エンドアがナルゲンについたのは太陽も高く上がり、冬のどこまでも高い空から暖かい日差しが届くようになったお昼前のことだった。
片足を引きずりながらも、文句ひとつ言わず荷馬車を引く馬を哀れんだのか、馬車を降りて手綱を引きつつ、へとへとに疲れた顔で町の入口のすぐ横にある馬留めの柱に手綱を繋ぎ、ガタガタと揺れる小屋の戸をノックすると、中から声がした。
「開いてるよ」
しわがれた女の声だった。エンドア・ディルは建付けの悪い戸を開けるのに何度か失敗しながら足と身体を隙間にこじ入れ、両手で強引に押し開くと、中には白髪で前歯の抜けた老婆が豆を一粒一粒口に運びながらガリガリと行儀の悪い音を立てながら食べていた。どうやら歯は丈夫らしい。
「ちょっといいか? 馬を借りたいのだが」
「ナルゲンじゃ貸し馬はやってないさね、馬車を雇いな。どこまで行くのさ?」
「ウォンドルレート。急ぎだ」
「遠いね、5日といったところか。ここじゃあ話にならないから、町に入って通りをまっすぐ入ってしばらく行くと左側に冒険者ギルドがあるからそこで依頼してみるといい。あー、そうさね、馬はギルドの裏に繋いでおくといい、依頼者なら格安で預かってもらえるからね、ここに繋いでおくなら馬一頭につき1日500ブロンかかる、初等部の算術ができるならあっちの方が得、どうせあんたはうちの客にはならんさ、さあ行った行った」
そういっていかにもやる気のなさそうに話す婆さんの、親切なのかぞんざいなのか分からない勧めどおり、エンドアはせっかくつないだ手綱をほどき、馬を引いてナルゲンの町に入っていった。
ナルゲンの町は、その昔、アリエルとパシテーがカイトス商会を襲撃し、フィービーの行方を追ってダリルマンディに向かったとき立ち寄った小さな町だ。ちなみに、いま真紗希が好んで着けているゾフィーの仮面は、18年前ここでアリエルが買ったものだ。
ナルゲンはアルトロンドの南西の端っこにあるダリル領との境にある町で、ちょっとした宿場町になってはいるが、多くの住民は大穀倉地帯に広がる大規模農場で働くことで生計を立てていた。しかしアルトロンドが奴隷制度を制定したせいで農業という仕事を奴隷たちに奪われてしまった。
仕事にあぶれた男たちはちょうど給金のいい『兵士』という仕事を得たまでは良かったのだが、ボトランジュを攻めるためサルバトーレ会戦に参戦、運の悪いことに相手がアリエルたちだったせいで、ほとんどが戦死し、帰ってくることができなかったという曰くつきの町である。
農業の仕事はエルフの奴隷に奪われ、頼みの綱の男たちは戦場に出たきり、もう帰ってくることはない。
アルトロンドが資金豊富であるならば遺族年金も支払われるが、正規兵ではない臨時雇いの義勇兵という身分であったため、夫が戦死した妻に支払われたのは紙切れ一枚の死亡通知と、わずかばかりの見舞金だった。夫を、息子を失った女たちのうち、少なくない者たちがナルゲンを去った。だがしかし、行く当てのない者たちはここで生活していかなければならないかった。
アリエルたちが日本にいてスヴェアベルムに戻る方法を模索している間、ここナルゲンは未亡人たちの暮らす町として有名になり観光業で盛り返そうと頑張ったが、いつの間にか娼館が建ち並ぶ色町となってしまった。
ナルゲンの女たちが娼婦に身をやつしたのは、逞しく生きようともがいた結果だ。
そんな町に身なりの良い男が一人でご到着なのだ、それが真昼間であっても目ざとい客引きたちが声をかけてくる。
「あらイイ男じゃないのさ、宿をお探し? それともお酒?」
「いやすまぬ、今日はちょっと野暮用があってな、冒険者ギルドに……」
エンドアは袖に絡みついてくる客引きを振りほどこうとするが、それぐらいで引き下がっていたのでは客引きなんぞという商売は成り立たない。当然、しつこく食い下がる。
「つれないこと言わないでおくれよ、冒険者ギルドなんて色気のないとこは後にして、ちょっと私と遊んでいかない? いい夢がみられるわよ?」
ひとりの客引きを断ったと知り、次の客引きがそそくさと寄ってきた。
そっちの店よりもこっちのほうが若い女がいて、サービスもいいと売り込み始めた。
「いや、本当にすまん、今日は忙しくてな、遊んでる時間などないのだ……」
エンドアが全力のお断りモードで娼館の誘いをお断りしているとき、通りの向こうから行列をなして町の出口に向かおうとする者たちがいた。
騎士服を着た者が多く、帯剣している。水色の騎士服は神聖典教会の神殿騎士だ。
神殿騎士がこんな色町に何の用があるのか、奴らは仮にも聖職者であるから、戒律で娼婦を買ったりなどということをしてはならないことになっているはずだ。
そんな教会関係者がナルゲンの町を訪れるだなんて、それも団体でだ。
不審に思ったエンドアが先頭から最後尾までざっと数えてみると、その数およそ80前後。
けっこうな数である。
何故このような娼館しかないような町に、ゾロゾロと団体で教会関係者がいるのか。
買春ツアーなど教会トップが知ったら大事になる。図らずも政敵である神殿騎士たちだ、こんなところで何をしているのかと問い詰めてやりたいところだが、しかしエンドアのほうも神殿騎士とはまみえたくない。
エンドアは俯いて神殿騎士たちの行列とすれ違うときも顔を合わせず、目を背けながらやり過ごそうとしたのだが……。
列の中ほどを歩いていた騎士服の男がエンドアの引く馬と、その馬が引く荷馬車を見て足を止めた。
「男! ちょっとまて!」
エンドアは聞こえないふりをしてやり過ごそうとしたが、騎士服の男が大声を張り上げた。
「待てと言っている!」
その声を聞いて、神殿騎士はじめ教会関係者たち80人、全員が足を止めて一斉にエンドアのほうを見た。
エンドアとしてはつまらないいざこざを起こして神殿騎士たちと揉めるつもりはなかったのだが……。
「む? もしかしてわたしの事ですかな?」
エンドアがしれっと答えると、騎士服の男は「そうだ」と頷き、続けて、
「所属と名を名乗れ」と問うた。
騎士服を着た他の男たちもこの男が何を言ってるのか分かったらしく、剣の柄に手をかけて、それとなくエンドアを遠巻きに囲むように隊形をとり始めた。もちろんエンドアには何を言われてるのか心当たりがない。
答えに窮し、歯噛みしながら睨みつけるようにしていると、騎士服の男が、まるで犯人を見つけた名探偵がトリックを暴くかのような口ぶりで饒舌にのたまう。
「その荷馬車の前についてる刻印なんだが、それな、教会の暗号刻印なんだよ。つまりその荷馬車を引いているということは教会関係者であるということなのだろうな。だがその刻印の荷馬車がナルゲンなどという町にあるのはおかしい。もしこんな辺境をウロついているのだとしたら馬泥棒を疑ったほうがいい。だから問うたのだ、所属と名を名乗れと」
言われて初めて気が付いた。なんだかよく分からないマークが刻印された小さな金属プレートが打ち付けられている。これは使用人たちが南ガルエイアに買い物に行くのに使っていた荷馬車なのだが、どうやら買い物に行くと称して教会にも顔を出していたようだ。
そこまで堂々と教会に出入りするような者たちを使用人として雇っていて、疑うこともなかったなんて、本当にいつ殺されていても不思議ではなかったということだ。




