17-18【ゾフィー】鬼神ヤクシニー
ホイッスルがけたたましく鳴り響く。
ゾフィーは思わず眉をひそめ、耳を覆った。もともとヒト族よりも聴力に優れるエルフ族なのだから、不快な音を吹き鳴らされるのは好きではない。
カンカンカンカンと絶え間ないリズムを刻む半鐘が打ち鳴らされている。
いま市街地を探索しているすべての衛兵たちに容疑者ゾフィー・カサブランカの位置が知れた。
しかし包囲の輪が広がったことで、甘食屋の屋台が戦闘の巻き添えになって壊される危険性が著しく低くなった。しかし撒き餌に群がる数えきれない小魚のように続々と集まってくる衛兵たちを軽く一瞥しながら、ゾフィーは注文した甘食の焼けるのを待った。
甘食屋台の店主は、捕り物をしていることも知っていたし、目の前で乱闘騒ぎになっていることも知っていたが、ずっと手元を見ていたためか、たった今衛兵隊の小隊長ロメルが致命傷を負わされたことにまで気が付いていない。
それほどゾフィーの動きに無駄がなく、最小限の動作で衛兵を殴り飛ばしたぐらいにしか見えなかったのだが、さすがに剣を構えてどんどん集まってくる衛兵たちのプレッシャーと緊張感を前に、平常心では居られなくなってきた。
「あ、あの……、お姉ちゃん、さすがにこいつぁ……ヤバくねえか? うちの屋台壊されるとマジで困るんだが……」
「私がここに立っている以上、あの連中には何もできませんよ。まだ私のサインほしいですか?」
「困ったなあ、衛兵の野郎すげえ顔で睨んでやがる。こりゃあ、サインもらっても飾れねえな。わるいがサービスもなしってことで、すまんな」
「残念です」
慣れた手つきで千枚通しを器用に使い、出来上がったベビーカステラのような甘食をぴんぴんと跳ねさせて袋に詰めてゆく。1袋に10個、ゾフィーは注文していた100袋かっきり受け取ると、この世界からパッと消し去った。ゾフィーの転移魔法、ストレージに収納するのと入れ替わりに金貨を1枚、手のひらに出してみせた。
甘食100袋分の代金は銀貨2枚だったが、金貨を1枚手渡し「おつりは迷惑料としてとっといてください、ありがとうね」と言って、屋台の主がお礼を言うのも聞き流すと、踵を返して周囲をびっしりと囲む衛兵隊に向き直り、つまみ食いしていた甘食をひとつ指でつまんで口に入れた。
まだ中身が残っているであろう紙袋は口を折り畳むとポイッと投げて、こちらも空中で消失する。
ホイッスルが鳴り響く。もう捜索に出た衛兵隊は全員この場に集まっているというのに、まだ鳴りやまず終始けたたましく吹き鳴らされている。
ゾフィーにとって鼓膜に響くホイッスルの音は不快でしかなかった。
「ベルセリウス派の魔導師よ、お前は完全に包囲した。無事に逃げられると思うな、痛い目に遭いたくなければ大人しくお縄につけ」
「逃げるつもりはないですよ、そちら、準備ができましたか?」
一人前に出ている大柄な筋肉質の男、身長もゾフィーと大差ないほどの大男がその問いに返答した。
「何の準備だ?」
「私は国王に謁見を求めました。いまこうしてゆっくり時間をつぶしていたのは、あなた方に準備する時間を与えたにすぎません」
「何を勘違いしている? 国王がお前のような亜人と会うわけがなかろう。お前は牢屋で厳しい取り調べを受けたあと、磔にされて火あぶりになるだろう。公開処刑でな」
ゾフィーはクスッと笑ってみせた。
「ふふふっ、それでいいのです。国王に準備など必要ありませんものね、私は"あなた方"に時間を与えたのですよ。ありったけ集めましたか? それにしては人数が少なすぎる気がしますけれど、まあ、いちいち別々に相手をするのは面倒ですしね……」
口角を上げ、まるで悪魔のように微笑むゾフィーに対する衛兵隊のほうから奥歯を噛み締める音がギリっと聞こえた。
ベルセリウス派の襲撃と聞いて捕えるため集まった衛兵たちを『良いカモだ』とでも言いたげに薄ら笑いを浮かべる、この女の思い通りになってたまるか! という気持ちが透けて見えた。
「開戦だあっ! 殺しても構わん! ベルセリウス派に目にもの見せてやれっ!!」
「「「「「 うおおおおぉぉぉっっ!! 」」」」」
ゾフィーに対する衛兵隊の初撃は号令をかけた男が放った。
片手剣持ちの剣だが、並の男では両手で扱わなければならないほど重い、幅広の剣を抜くと、研ぎ澄ました気合と、強化魔法を乗せた素早い踏み込みで、瞬時に懐へと飛び込んだ。
勢いのまま振りかぶった剣をゾフィーの頭部めがけて振り下ろす。
片手持ちの剣で、初撃の狙いは頭だなんて本当にぬるい。
初撃で決めようとする魂のこもった渾身の一撃、ゾフィーは苦もなく、一歩、たった一歩前に踏み出すと、剣の間合いの更に内側に入った。つまり剣の間合いから外れてより内側の懐に入った。
真っ直ぐに振り下ろされる剣は柄の部分を、まるでトスでも受けるかのように片手で軽ーーく、ポンと受け止めた。何もしなければこの男はゾフィーの防御魔法により切り捨てられていたのだが、ゾフィーはわざわざ手間をかけて懐に入り、その技術で物理的に防御をしてみせた。
魔法力ではなく、単なる力比べでも圧倒していることを見せつけるために。
肘の関節を『デコピン』するように、指ではじくと、肘の関節に男の腕にはビリビリとした激しい電流が走り、剣を手放してしまう。まるでハンマーで殴られ、何かが爆発したような衝撃に、肘の皮膚がめくれ、粉砕された骨が突き出した。
これがアンチマジック。自らの体内から湧き出すマナを使う魔法が使えなくなるという強力なデバフで魔法。今回は剣を振りかざした男の強化魔法と防御魔法の一切を消失させ、防御力ゼロになった肘を指で弾いてみせた。ただそれだけである。
落とした剣が地面に落ちる前にゾフィーは腰を沈め、低くした重心から強力な掌底突きを放つと、男は反時計回りに回転するように吹き飛び、次の瞬間には通りに面する建物に「ぐっしゃあ」とイヤな音を立てて背中から一部めり込むように突き刺さった。その衝撃は石造りの壁にヒビが入るほど……。
背中から壁に激突した男は、革のヘルメットをかぶっていたが、石造りの壁にヒビが入るほどの衝撃から完全に身を守り切るような防具ではない。後頭部をしこたま打った男はこの時もう意識を失っていた。
ずるり……と、力なく身体がずり落ちる前に剣が胸を貫いた。
肘を粉砕された男の手から離れ、落としそうになった剣を空中でキャッチしたゾフィーが、掌底を打ち込んだあと、ただオーバースローで投げただけ。
片手では扱えないほど重い、幅広の剣は吸い込まれるように分厚い胸板を貫き、男を壁に縫い付けてみせた。
ゾフィーは自らを包囲する衛兵たちに問う。
「磔って確かこれでいいのよね?」
誰もその問いに応えることはできなかった。
たったいま壁に串刺しにされている男は、プロテウス衛兵隊では最強の呼び声高い猛者、ハドロック。
衛兵たちの士気の高さも、この男がいてこそだ。
役人の子や、貴族の子弟が多い騎士団とは違い、衛兵隊は軍と横並びの組織であり、平民が主体となって構成されている。つまり、衛兵隊というのは親の七光りが通用しない完全実力主義である。なので、強い者が尊敬を得るのは自然であるし、尊敬される強者と共に戦う戦士は士気が高揚し、普段よりも力を発揮することが多い。
なのにこのエルフの大女は、勇士ハドロックをまるで赤子の手をひねるかのように扱い、あっさりと致命傷を与えた。この場に治癒師はいないことは皆承知している。つまりハドロックはもう助からない。
けたたましくホイッスルを吹き鳴らしていた数人の衛兵たちも、ハドロックが倒されたのを目の当たりにしたことで、空いた口がふさがらなくなり、あれだけひっきりなしに吹き鳴らしていたホイッスルは鳴りを潜めた。
部隊の者は一斉に落ち着きを失い、敵の姿がそこにあっても、顔と顔を見合わせたりして、決して言葉には出さず、不安そうな視線を送ることで上役に撤退命令を乞うている。どうやら命を懸けてプロテウスの治安を守るという覚悟をしていたのは、衛兵ハドロックだけだったようだ。心の支えとなる最強の戦士がこうもあっさりと倒されてしまったのだから、なし崩し的に士気が下がるのも致し方のないことだ。
ハドロックが相手にすらならなかったことで、もう勝負はついたも同然なのに、それでもこの場に集まった士官クラスの衛兵は、部下の命を守るという最低限の仕事すらせず、衛兵のプライドを優先させた。
衛兵にはプロテウスの街を守る義務がある。
ここで諦めて逃げたのでは、衛兵隊の沽券に関わる。市民たちもバカにして、もう衛兵が何を言っても、市民を捨てて逃げたと言われれば、それまでだ。
明らかな実力差があった。マローニから引き揚げてきた王国軍を退役した者が、酒場で酔っぱらって寝ぼけたような与太話を言ってたのを聞いたこともあるし、セカで帝国軍と港を一発で消し飛ばした大量破壊魔法も、まるで神話戦争のおとぎ話のようにしか思えなかった。いかにもウソや出まかせといった、バカバカしい内容のうわさ話も、いま目の前で起こっている現実と、それほどかけ離れたものではなかった。
一人が職務を放棄して逃げ出せば、蜘蛛の子を散らしたようにバラバラに逃げ出したのかもしれない。そんな浮足立った空気が流れはじめた。
しかしそんな空気を読むことなく、次の瞬間にはゾフィーの手のひらにファイアボールが出来上がっていて、それは高温に練り上げられ、白っぽい光を放っているように見えた。
ゾフィーは躊躇なく"それ"を、たった今壁に磔にした男に投げつけると、ファイアボールどころではない、激しい炎が巻き起こり、7階建てのビルよりもはるか高くにまで火柱をあげて燃焼した。
包囲している者たちに容赦ない熱波が襲い掛かる。
近くにいた者は髪を焼き、皮膚はケロイドに、不運にも不用意に息を吸い込んだ者は肺を焼かれた。
ゾフィーの使った炎の魔法は、炎魔法を得意とする魔導学院生であれば、さして難しくもないファイアピラーの魔法である。ただ、魔法の出来は使う術者の魔導に対する理解度と熟練度、そしてマナの濃さなどにより威力は大幅に違ってくる。
ゾフィー・カサブランカは神話戦争以前のスヴェアベルムでは時間と空間を操る最強の戦神と呼ばれ、戦士であるならその名を知らぬ者はいないとまで言われた実力者であったが、時空魔法以外に、炎風土水という一般四属性魔法もそれなりの修練を積んでいて、人並み以上に使えることを知るものは多くない。
もちろん実戦で同格の者を相手にする場合にはヘボ過ぎて使い物になるレベルではないが、格下を蹴散らしたり、目くらましに使うぐらいであれば、この程度の魔法、専門外のゾフィーでも威力について申し分ないレベルで使えるのだ。
超高温の炎が遥か上空まで立ち上ると、小規模なキノコ雲が巻き起こり、同時に一迅の風がゾフィーのウェーブのかかった黒髪をなびかせる。
爆炎に立つシルエット、妖しく光る紅色の眼光は、いくら力量差があるとしても相手は女一人、包囲戦術によりまだ優位に戦えると思っていた衛兵たちを恐怖のドン底に陥れた。
急激な高温により上昇気流ができ、一時的な低気圧状態になると強風が吹きこむ火災旋風という現象が起きることがある。今まさに火災旋風がプロテウス市街地に巻き起こった。
遠い間合いで弓を構えていた遠隔射撃のプロフェッショナル、弓兵たちは火災旋風などという現象を知らなかったので、この一迅の旋風を風の魔法だと思った。
衛兵たちは風の魔法を使って弓の攻撃を受けづらくしたのだと、そう考えた。
「奴は弓を嫌った! 一斉射撃っ! 構えろ!」
弓兵たちはしゃがみ込み、風の影響を受けにくい、地面すれすれを這わせるよう矢を放つ。どさくさ紛れで同時に飛び込む衛兵たち。相手はベルセリウス派の魔導師だ、最初から一筋縄でいくような相手じゃないことは予想されていた。だがしかし、その戦闘力はプロテウス市街から出て戦争を経験したことのない、衛兵たちの予想の遥か上をいっていた。力量の差が読めない、みんなでかかればなんとかなるだろう、そんな甘い考えの悉くを、いともたやすく打ち破ってしまう。
ゾフィーの紅い眼が妖しくぼんやりと光っているように見えた。
それは航跡を引き、紅い線となって目に焼き付く。
絶望の魔女、鬼神ヤクシニーとは四つの世界を支配する十二柱の神々がつけた悪名だった。
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