16-26 バリス・ドイル
廃材を組み合わせたような古い粗末な屋根のつなぎ目、明り取り窓から斜めに差し込む光が、脚光となって翼を広げた女神像を照らし出すと、かすかに舞う埃が光線をくっきりと際立たせる。
一見すると倉庫の中にも見えよう、しかし祭壇が設けられている。
空気の入れ替えもままならず、カビ臭い空気に満たされてはいるが、ここは教会であり、翼を広げた女神像は神聖典教会が信仰する崇拝の象徴、女神ジュノー。
目を閉じ俯き跪いて、黙々と祈りを捧げる少女がいた。
名をバリス・ドイルという。
バリス・ドイルは朝夕の礼拝、食事の前にも就寝時にも祈りの言葉を欠かさない、敬虔な女神の信徒だった。
最初は光の中で希望を見せてもらったことが発端となった。
バリスの居た孤児院は資金繰りに苦慮していて、子どもたちに与える食事にも事欠くほどだったが、女神の使途、神殿騎士団が神兵を引き連れノーデンリヒトの死神を捕えるため、ボトランジュのセカへと出征した道すがら、バリスが生活する貧しい村に立ち寄ったのだ。
「バリス、いい名だね」
大層立派な身なりの神殿騎士はまだ幼かったバリスの手を取り、優しく微笑んだ。
そして村の貧しい孤児院で子どもたちが飢えていることを知るや、すぐさま大切な食料を分け与えた。
神殿騎士団長、ダリウセス・アウグスティヌス。高貴な出で立ちの優男は、少女の憧れとなった。
しかしこのあと、サルバトーレ会戦にてアリエル・ベルセリウスとの一騎打い敗れたことで命を散らす。
アウグスティヌスの戦死を知ったバリスは悲しみに暮れたが、涙が乾くころには神殿騎士団の世話係を志願し、ガルエイアの神殿騎士団本部で働くこととなったが、親も兄弟も居ない孤児であったこと、加えて妄信的であり狂信者であったため、手駒として都合よく使われることとなった。
バリスは女神ジュノーを貶める異端の者を監視するため、何年にもわたる厳しい訓練課程を卒業し、異端者を告発するための監視者となった。これは前神殿騎士団長ダリウセス・アウグスティヌスを妄信するバリス・ドイルにとって願ってもない仕事だった。女神ジュノーが求める清浄なる世界を実現するための実行役に力を貸すことができるのだ。
神聖典教会は古くから精霊信仰のある異教徒、エルフ族を排斥することに成功した。だがしかし、母なる女神ジュノーの子であるはずの人族の男が、ジュノーを称える教義に異を唱えている。
男の名は、エンドア・ディルという。
アルトロンド評議会議員として当時で7期当選という強固な地盤を持っているガチガチのリベラル派で、教会のやることにも、領主のやることにもいちいち批判を展開する厄介な人物だった。
とにかく、議会で多数を占めている教会派や領主と利権関係にあるガルベス派などは徹底的に敵対し、逆の意見を展開し明確に反対の姿勢を貫くことでアイデンティティを確立しているかのような男だったため、バリスは会ったこともないのにこの男のことがあまり好きではなかった。
エンドア・ディルの存在は、教会にとって周知の事実だった。これまではその声が小さすぎて無視していても構わないレベルだっただけの話だ。
ある日ダリルマンディを襲撃し、ダリル領主を殺害した悪魔のような男が、清浄なるアルトロンドを狙って襲撃してくるという情報を得たアルトロンド評議会は、敬虔な女神ジュノーの使途である教会派の議員が隣国アシュガルド帝国と協力して軍事作戦を展開し、悪魔を迎え撃ってアルトロンド領内で殲滅するという議案を提出した。それに異を唱えたのも、エンドア・ディルだった。
そしてアルトロンドを襲撃してくる悪魔こそ、これまで幾度となく敬虔な女神の使途たちを無残にも殺害してきたアリエル・ベルセリウス。
バリス・ドイルには忘れられない名だった。
最初は王都プロテウスにある神聖典教会の大教会おひざ元で神殿騎士たちとイザコザを起こし数名を殺害した。北の蛮族の侵攻に終止符を打つため出撃した勇者キャリバンの軍とノーデンリヒトで衝突し、これを殺害したし、その後は各地で司祭に大けがをさせたり教会建物を爆破したりという凶行を繰り返した。
ノルドセカで5千、サルバトーレ会戦では死者3万のうち、教会から出した神兵は1万をかぞえた。
そこで戦死した勇者たちの中に幼いバリスの手を取り、寝床とスープを提供してくれた当時の神殿騎士団長だったアウグスティヌスが居た。バリスは自らの憧れを殺したアリエル・ベルセリウスという名を心に刻んだ。
バリスが敬愛するアウグスティヌスを殺害し、聖人として祀られるはずの亡骸は事もあろうに焼き捨てられ今もサルバトーレの地中深くに眠っているという。アウグスティヌスを心から敬愛していたバリスにとってベルセリウスは倒すべき女神の敵となった。
バリスの初任務は、大悪魔ベルセリウスがバラライカで消息を絶ってから6年後。
女神ジュノーを称える教義に異を唱える者を監視せよというものだった。
女神の敵ベルセリウスと戦おうともせず、総力戦で迎え撃つことに対し、強固に反対したという、あのエンドア・ディルを監視するという任務だった。バリスにとっては願ったり叶ったりであった。
メイドとして働いたことはなかったが家事一般を任されるということで、孤児院の暮らしと大差ないものだったし、不慣れなことは先輩シスターのミルファストや、執事に扮して先に潜入していたトーマス司祭が丁寧に指導してくれたので何ら不安なく任務に就くことができた。
それからは気が遠くなるほど地道な情報収集作業が続くスパイ活動がメインだった。
教会派の攻勢でエンドア・ディルも一時は落選寸前まで追い詰められたが、ここ8年ほどは選挙のたびに魔族排斥に反対する議員を応援し、相当数を当選させることに成功している。バリスはディル家に入り込んでいたため一部始終を見ていた。エンドア・ディルはエルフ奴隷と性交渉を行い、卑劣にも子どもをもうけた性的倒錯者の心の隙間にうまく入り込んだのだ。
特にバラライカから最も遠く、対角線上に位置するアルトロンド南西部ではエンドア・ディルが提唱する融和政策を推す声が高いという事も報告した。
まだ魔族融和を解く議員たちは未だ10人に満たないが、前回の選挙で神聖典教会が一大キャンペーンを計画したにも関わらず、神聖典教会が擁立した生粋の魔族排斥論者を破って当選させたと言う事実が教会に危機感を与えた。
つまり誰にでもわかる方法でエンドア・ディルを殺したのでは、他のディル派議員たちが力を合わせ、また次の選挙では大躍進を遂げるかもしれない。
だがしかし教会は常に正しくあらねばならない。
だからこそ、教会側の望みとしては、エンドア・ディルにはゆっくりと病死してもらい、魔族融和を叫ぶような議員たちは自然消滅するよう落選してもらうか、権力を持たないよう極少数派で居続けてもらわなければならないのだ。
エンドア・ディルは、何か月も病床に臥せっていることを領民みなに知らしめた上で病死するという、とても回りくどく面倒で時間のかかる方法で暗殺せよとの指令がおりてきた。
これはバリス・ドイルにとって初の暗殺任務だった。
最初は少し多めに毒を飲ませた。
ディル議員も最初は大きく体調を崩し床に倒れたが致死量に達していない。
ベッドで目を覚ました時には医者がおり、その医者は内臓に炎症が起きていると診断し、薬の処方と、治癒師を紹介した。もちろんそのどちらもバリスと同じく、教会側の意図で行動する工作員だった。
遅効性の毒を飲ませ続けてもうすぐ10か月になる。
ディル議員は議会が開催されても病気を理由に休むようになった。ガルエイア市民の心配する声が聞こえてくる。屋敷に新鮮な野菜を持ってきてくれる支持者もいる。エンドア・ディルが病に倒れたことはすでに周知の事実、そろそろ死んでもらっても構わない。
ディル家には3人の工作員が潜入しているが、作戦の指揮を執っているのは執事職のトーマスだ。
先週来た連絡員のカリハラに殺害許可の申請を出した。明日の定期連絡で殺害命令が下りるだろう。
そんな折だ、突然アポなしでディル家の屋敷を訪ねてきた男が居た。
ヴィルヘルム・ダイネーゼという男で、奴隷商人としてアルトロンドでも1,2を争う豪商だ。
奴隷制度にも反対しているディル議員のもとを訪ねてくる人物として最もふさわしくない男だった。
すぐさま執事職のトーマスから指示が出た。ミルファストも臨戦態勢に入った。
バリスは風の魔法を展開し、空気を伝わってくる音に指向性を持たせた。これはバリスのオリジナル魔法で、メガフォンを耳にあてて聞くような収音効果がある。半面、聴力に指向性を持たせたが故に、魔法の効果範囲外からの音についてはほとんど聞こえなくなるというデメリットもある。だがしかし、こういう尖った性能の魔法こそ役に立つ。
バリスは聞き耳の魔法を展開したままドアの前に立った。
応接室から聞こえてくる会話は、驚くべき内容だった。
32年前、行方不明になった娘、パシティア・ディルこそがブルネットの魔女だという。バリスはすぐさまトーマスに詳細を報告した。同席したミルファストも驚きを隠せなかったが、何度も『間違いなはいのか』と念を押されそのたびに『確かに間違いない』と答えた。
トーマス司祭はプランの変更を指示した。
監視対象だったエンドア・ディルだけでなく、その娘イングリッド、そして奴隷商人ダイネーゼの3人を拉致し、神聖典教会総本山へ連行することになった。
馬車で待っている御者はトーマスが片づけるという。ミルファストはバリスについてドアの前に立った。
そしてバリスの視界は暗転し、真っ暗闇の中に落ち込んでしまうこととなった。
……光が。
……見えた。
真っ暗闇で蹲るバリスを優しく包む、温かい光だった。
バリス・ドイルは小さな丘にある古びた倉庫のような教会で、顔のない女神像に向かって祈りを捧げているところだった。
木彫りの女神像には顔がなかった。
優しく微笑んでくださっているのか、それとも慈悲の涙を流してらっしゃるのか……。
顔がない? 否、バリスは女神ジュノーの顔を思い出せずにいただけだった。
跪き、祈りを捧げていたバリスは、突然なにか背後に怖気を感じると、瞬時に前方へ飛んでローリング、間合いをとったのと同時に暗器を構えた。
背後に来たのはただ暗いとしか言いようのない何かで、まるで黒煙がつむじ風のように渦を巻き、その周囲に花弁が激しく散って舞う。
この狭い倉庫のような古びた教会であるにも関わらず、何かよくないものが来たのだと、バリスはそう思った。暗器を巧妙に手のひらに隠し、臨戦態勢に入っている。
だがしかし、風に舞う花弁に目を奪われた。
刹那、耳元で囁く甘い声。
「なぜ殺すの?」
声の方向は右耳のすぐそば、生暖かい吐息を感じる。
バリスは間合いに入られていることに焦りを隠せず、暗器を振り回した。
「なにをこの!」
しかし次は逆側の耳に囁く声が聞こえた。
「エンドア・ディルは、剣ではなく言葉で、力ではなく心でこの世界を変えようとしていたの。流れることをやめた水が澱み、腐り果てたようなこの世界を、あの人は『ひとの愛』を信じることで変えようとしていたの。あなたたちはそんな人を殺そうとしていた……。もう一度問うの、なぜあなたは人を殺すの?」
「黙れっ! 異端者は殺す! それが正しいことだからだ!」
耳元で囁く優しい声を振り払うかのように吐き捨てられた激しい言葉は、奇しくも正義を語る。
優しい声は繰り返す。
「それを聞いて安心したの。同感なの、教会なんて滅んでしまえばいいの」
バリスの眼前には顔のない女神像が、カビ臭くて埃っぽい空気のなか翼を広げ、明り取りの窓から差し込む脚光を浴びていた。
胸を貫いた激しい痛み。粗末な白いローブは深紅に染まりはじめる。
心臓の鼓動と同期し、熱い血潮にまみれた。
バリスは跪き、女神像を見上げて祈りを捧げた。
しかし、女神像の顔は見えない。
女神はバリス最期の祈りにさえ、微笑んではくださらなかった。
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バリス・ドイルは女神の傍から遠く離れたダリルマンディ郊外の赤土の荒野が広がる、何もない乾いた土地で息絶えた。女神の使途を名乗り己の復讐に身を投じた哀れな女は、人知れず土に還る。
「ごめんねパシテー、迷惑かけるとは思ったけど、私が行ったときにはもう戦闘が始まっててさ」
「ううん、お父さまを助けてくれてありがとうなの。真沙希ちゃんが居なかったら大変なことになってたの」
「で、どうだったの?」
「明日の朝くる青物屋さんも医者もみんなグルだったの」
「やっぱりそうかあ……、じゃあ私、明日は朝早く出て青物屋ぶっ殺すわ。パシテーも来る?」
「うん。行くの!」




