16-25 エンドア・ディル(9)敵対する覚悟
長かったエンドア・ディル編、終わりました。
次話、ようやくダリル滅亡編に突入します。
イングリッドたちは3人雁首揃えてベルセリウス派魔導師の2人が消えるのを見ていた。
いや違う、ソファーに寝かされていた使用人のバリスも同時に消えている。だが部屋の隅に積み上げられていたトーマスたちの死体はそのまま手付かずで残されている。これはいま体験した出来事が夢や幻ではなかったとという事実を示している。
ベルセリウス派の魔導師に命を救われたという事実はもう覆らないだろうが、エンドアはどっと疲れたようにがっくりと肩を落とし、ダイネーゼは胸に拳を当てて唇を真一文字に結んで何か決意じみた表情を見せた。
「っと……、部屋を出ても大丈夫なのかな? 馬車で待たせているブレナンが心配だ」
「待たれよダイネーゼどの。3人揃って出ていくのが安全じゃあないか?、私は未だ背筋が凍り付いている……、イングリッドや、手を貸してくれ……」
二人の言葉を聞いていないのか、イングリッドは辺りを注意深く探っていた。まずは逸る心を鎮め、落ち着きを取り戻すように一度深く深呼吸をしたのち、今起きたことへの検分を始めた。しかしその表情からは微笑みがこぼれる。たったいま自分がこれほど間近で見せてもらった古代のロストマギカについて、興奮冷めやらぬ様子だ。
イングリッドは魔導学院でも研究熱心な学生だ、理解の及ばぬ魔法を目の当りにしたら普通なら飛び上がって喜び、研究論文にでもするのだが、腹違いの姉パシティアがらみのことであるから公にすることはできない。
現状を検分してみるのは完全に自己の探究心を満足させるためだ。そしてそれは優秀な魔導師ならば皆持って生まれた資質でもある。
イングリッドはまずドアの前に立った。
バリスが寝かされた姿で現れたソファーまでの距離を確認してみた。そしてさっきまで死体が積みあがっていた応接室の隅っこまでもほぼ同じ距離だ。
さっき真沙希を名乗る少女が現れたときはドアの開閉があった。3人分の視線に気づかれることなくドアから入ってきたのだとしても、そこはベルセリウス魔導派閥の事だ。自分の姿を消す魔法を開発していてもおかしくない。
だがゾフィーを名乗る女性が現れたときも、そして消えたときもドアの開閉はなく、うまく説明できないが部屋の空気が振動したように感じた。同じように何の前触れもなくパッと現れただけという状況から鑑みてもマサキのそれとはずいぶん違った印象を受けた。
ゾフィーも最初から応接間に居て、ただ姿を消していた?
いや、そうだとするとイングリッドたちを見て驚いた説明がつかない。まさかベルセリウス派の魔導師がそんな小芝居を打つとも考えにくい。
あの時、この部屋は完全に密室の状態だったのだ。
これについては魔法だったとしてもおいそれと説明がつかない。
マサキがいきなり何の前触れもなく現れた事と、ゾフィーがパッと目の前に現れたという二つの現象は全く違った、別の魔導技術によるものだ。
イングリッドはすぐさまマナの残滓を可視化する解析魔法を唱えたが、その結果は芳しいものではかった。
魔法の痕跡が消えるまでに分析魔法を唱えるのが間に合わなかったのか、それとも最初から学生の使う分析魔法ぐらいで解析できるほど簡単な技術ではなかったのかもしれない。イングリッドは無意識のうちに小さなため息をついた。
「ダイネーゼどの、手伝ってくれんか? この二人の死体をどこかに片付けたい」
「いいえ、ゾフィーさんに言われた通り、これはここに捨て置いて、一刻も早くここを離れる方がいいと思います」
「待ってくれ、もしここに衛兵が来たら私がやったと思われてしまうではないか。最悪の場合、指名手配される。そうなると面倒だ、身動きが取れなくなってしまっては……」
「明日の朝ここに訪ねてくるであろうスパイの連絡員は衛兵に連絡なんてしませんよ。ディル議員、あなたを暗殺しようとしていた奴らも衛兵には知られたくないのです。だから遅効毒なんか使って病死を装う必要があったんですよ。私たちはこのままこの場を離れればいいのです。死体の片付けは教会の暗部がやってくれるでしょうし、それに死体がひとつ足りませんからね。当然、教会と敵対し、あなたの側についたものが捕えて連れ去ったと考えるはずです」
「片づけるより、この場に放置して行った方がいいと? まさか、本気なのか」
「暗器を装備した暗殺者が一方的に倒されているのですよ? しかも外傷がない。死因も分からない。いずれここに来る連絡員が私でもこれは警戒度マックスに値します。なんでしたらほら、検分してみればいいと思いますよ」
ダイネーゼは倒れた執事、トーマスの上着のボタンを外し、内ポケットを探ろうとしたところ、脇の目立たないところに革ベルトが装備されていて、そこには大量の針と思しき短い刃物が装備されていた。
間違いない、これは手のひらに隠していた指輪仕様の暗器とセットで使う遠隔攻撃用のものだ。
革のシースから引き抜いて針の先を見ると紫色に変色していて、これは白いシャツで拭くと色がシャツに移った。どうやら毒が塗られているようだ。
肩越しに覗き込んだイングリッドが息を飲み、驚きの声を上げた。信じられないのだ。
「ダイネーゼさん、それ毒ですか?」
「分からない。だけどこんなに小さな針のような刃物だ。一撃で人を殺傷するためには毒を塗る必要があるな……だが刃物に毒を塗布して人に向ける事自体がこの国では重罪だ。いくら何でもこれを狩猟用とは言わんだろうが……、ところでこの男、本当に何年もディル家に仕えていたのかい?」
イングリッドに問うたダイネーゼの傍ら、その問いにはエンドアが答えた。
「トーマスはかれこれ……16年目だ。私にはその男が本物のトーマスなのかどうか、そちらの方が気になるのだが、耳たぶのしわまで似せるような変装をする必要があるのか? 教会が私を殺したいのは理解できる。なにしろ敵視政策していた私が派閥を持つようになったからな。だが病死に見せかけてまで殺す価値があるのか? 疑問であるな……、この男は本人で間違いないだろう。ミルファのほうは見るに耐えん……」
目を背けたエンドアの傍ら、ダイネーゼは冷たくなったメイド、ミルファの手を開くとトーマスと同じ暗器が握られていた。隠し方が見事で、手のひらをグイっとひねって開かないと装備していることすら分からないという厄介な代物だった。
「あっ……」
ダイネーゼは思わず声を上げた。
髪を結ってカチューシャで留めたうなじの露出部分にわずかな出血を発見したのだ。
幅3センチほどの刺し傷だ。深さまでは分からないが後頭部の下、首の骨の隙間を狙って正確に穿たれていた。極めて見つけづらい傷だ。果たしてこんなものが致命傷になるのかすら分からない。
ダイネーゼは念のため、無造作に打ち捨てられたトーマスの白髪交じりの髪をたくしあげた。首の後ろを確認すると、まったく同じ場所に同じ傷が残されていた。
この小さな傷が致命傷になったと考えるべきだ。となると頸椎、首の骨の隙間を狙って刃物を差し込み、体中に張り巡らされた神経を切断するといったピンポイント攻撃に他ならない。
これは驚くべきことだ。
トーマスに至っては両手に暗器を装備している。つまり侵入してきた少女と対峙して武器を手のひらに隠し戦闘態勢に構えたが、そのうえで背後から正確に頸椎の隙間を狙われ、いとも容易く、たった一撃で葬られたということだ。
「恐ろしい……。まったく、どっちが暗殺者かわからんな……」
「ベルセリウス派とは恐ろしいな。マサキなどという名は聞いたこともない。まだ中等部ぐらいの年端もゆかぬ少女だったではないか。あのような無名の少女であってもこれほどの戦闘力を保持しているのか……。王都が面と向かって敵対しない理由が分かった、ベルセリウス派の戦闘力は計り知れん」
「そうです、私たちのような素人でもそう見えるのです。この死体はこの場に残しておくべきですディル議員。この場で何かがあって戦闘になり、圧倒的な力で簡単に倒されてしまった。この死体を残しておくことで強烈なメッセージにもなるでしょう。教会の暗部もそう簡単に手出しできないであろう戦闘力で倒されているのですからね」
「そ……、そうだな。分かった」
エンドア・ディルは記憶の糸を辿って、部屋の片隅に折り重なるように積み上げられた亡骸を見ながら、執事トーマスがディル家にやってきたときのことを思い出していた。トーマスは以前の執事が急病にかかってしまい仕事できなくなったときに入れ替わりで入ってきた男だ。
時勢的にはベルセリウスの侵攻があるということで総力戦を戦うのに14万もの兵士を出すのに猛反対していた時期だ。今考えるとその件でマークされたのかもしれない。
エンドアは膝を打った。
考えていても仕方がない。確かに一刻も早くこの場を離れた方がよさそうだ。
3人はすぐさまこの屋敷を出る準備をすることとなった。
イングリッドは自分の分と父の分、革製のトランクにみっちりと着替えなどを詰め込んで旅装に着替えた。もうこの屋敷に戻ってこられないと、心のどこかで悟っていたからだ。
エンドアは杖をつきながらダイネーゼと共に玄関を出て、エントランスから厩に向かった。
ダイネーゼはエンドアと別れ、小走りで馬車を停めてあるエントランスに出ると、自分の乗ってきた馬車が見えた。まるで何もなかったかのように、その静かな佇まいの中、馬の鼻息がかすかに聞こえてくる。いつもの風景だ、なんらおかしいことはない。
確かにおかしいことなど何もない。
馬車を任せていたブレナンが見当たらないことを除けば。
だいたいいつもなら玄関ドアが開いた音に反応するなどして、馬車の扉をあけて出迎えることになっているのに、あの几帳面なブレナンが、この非常時にだけサボっているなどとは考えられない。むしろ非常時に姿を見せないからこそ何かあったのではと心配しているのだ。
「ブレナン! どこだ? どこにいる?」
発せられた声は小さく、吐き出す息の方が大きく聞こえるほど抑えられた、声にならない声だった。
いや、本当は声を出そうかと思った。しかしエントランスに出て馬車に近づいたところでゾクッと背筋に冷たいものを感じた。
空気感が変わった。
足を止めて身構える。
血なまぐさい……。
血だ、血の匂いが鼻をかすめた。
ダイネーゼは半歩後ずさりして間合いをとり、馬車の下側を覗いてみたが、誰か倒れているようには見えない。御者台を覗き込んで見てもブレナンの姿はなかった。
……っ!
御者台に血だ。
大量の血液がべったりとこぼれていて、それを見たダイネーゼは悲鳴を上げてしまいそうになり、間一髪で口を押さえ、ゴクリと飲み込んだ。
ブレナンは襲撃されたのだ。
しかし馬は暴れるでもなく、大人しく繋がれている。
意味が分からない。
襲撃されたのなら真っ先に馬が不安になり、落ち着かなくなるはずなのに。
ダイネーゼは落ち着いて息を殺し、何が飛び出してきても左右に飛んで避けられるぐらいの気構えで警戒心を露わにした。この馬車は四頭立ての屋根付き、扉付きの長距離馬車だが、御者台は客室に繋がっていて、客室から気軽に声を掛けられる仕組みになっている。
ダイネーゼは慎重に観音開きになっている馬車のドアノブを両手で掴むと、一転して『バン!』とけたたましく音が響くほど乱暴に扉を叩きつけた。
客室の中は一部が血溜まりになっていて、その血液はまだ新しく、固まっていない。
腰を抜かすような格好でブレナンが座っていて、いきなりドアが開かれたことに驚き、怯えた表情を見せた。ドアから遠ざかろうと足で後ろに下がろうとするが、背中は反対側の壁があり、蹴る足は血溜まりを滑るばかりだった。
「ひいいいっ……」
「ブレナン! 生きているか? 無事なのか?」
「ああっ、ああ……ああああっ、社長! しゃちょお……」
「落ち着け、まずは息をしろ。深く、ゆっくり、吸って、吐いて、吸って、吐いて、ほら、やってみろ」
ダイネーゼは半ばパニックに陥ったケント・ブレナンに深呼吸させ、落ち着け、落ち着けと宥め透かし、イングリッドが玄関から出てきたころ、ブレナンはやっと話ができるぐらいにまで回復をみせた。
「ブレナン、ゆっくり聞いてやる時間がない。すまんが何があったか教えてくれ。この血は誰のものだ?」
「あわわわ、馬車を汚してしまいました。すみませんすみません、これは私の血です。いきなり後ろから喉を切られてしまって……」
ダイネーゼはブレナンの首に注目した。
目立つ場所に大きな傷が遺されている。襟首に刃を添わせて背後から一気に引いたような痕だ。
だがしかしその傷はまるで古傷のように塞がっている。応急的な処置であり傷跡を消すところまでは施されていなかったが、その傷跡と流出した血液から察するに、教会の治癒術師がこの傷を見て、すぐさま治癒魔法を使うため起動式を書いていたのでは到底間に合わないほどの傷であることは見て取れた。
「大丈夫だ、パニックになるんじゃない。お前は生きている。死ぬことはない。喉を切られたようだが、その傷はすでに治癒されている。お前は命に別条がない、すでに救われているぞ。だから落ち着け、落ち着いて思い出してくれ、誰に襲われたのかを」
「分かりません。私は御者台に座っていたんです。それだけです」
ブレナンの話は的を射なかった。何しろいきなり首を何かで引っかかれたような感触があり、熱いものを感じたから手で押さえてみると喉を切られていて、まるで噴水のように血が流れ出すのを見たのだと言う。
声も出せず、息も出来ず、目の前が真っ白になってそのまま後ろに倒れる形で御者台から馬車の中に転げ落ちたが、誰に襲われたのかも分からないし、このまま自分は死ぬものだと思って、馬車の中でガクガクブルブル震えていたと、そう証言した。
つまり、暗殺者の腕が見事過ぎたのだ。ブレナンは誰に殺されたのかも気付かないまま死んでしまうところだった。そして、その暗殺者を声もなく倒し、ブレナンに高位の治癒魔法を施したあと音もなく連れ去ったマサキという少女もまた凄腕だった。
ブレナンを責めることなどできはしない。
商人など所詮はこの程度のものだ。自分を殺した者の姿を見てやろうだなんて考えず、愛する妻と娘に看取られることなく、こんなところで孤独に死に往く不幸に涙するぐらいが関の山なのだ。
しかもマサキという少女の証言と食い違うところもない。
ブレナンは16年前からこの屋敷に潜入していた執事に襲われ、致命傷を受けたところでマサキに治癒魔法を施してもらい、助けられた。そのうえで仇まで討ってもらったのだ。
「そうか、運が良かったなブレナン。お前は治癒魔法をかけてもらったんだ。命の恩人に報いなければならんな。とりあえず、血を掃除しなくては座れんではないか。服も着替えなくては……。ああ、ちょっとまて。血の付いた靴でエントランスに降りてはいけない。分かりやすい手がかりを残してはいけないからな、着替えはディル議員の服を貸してもらおう、まずは血を掃除しなくては」
「は、はい……私は、死なない? 死なないのですか?」
「ああそうだ。お前はベルセリウス派の魔導師、マサキによって命を助けられたんだ」
「あああっ、その名を魂に刻みます……」
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「あの……ダイネーゼさん? もしかしてそこに乗れと?」
着替えのいっぱい詰まったトランクを抱えたイングリッドがそこに立っていた。
血溜まりになった馬車を見てドン引きである。
「仕方なかろう? 血は拭き取るし、この血を流したブレナンはこの通り、ピンピンしている。べつに気持ち悪がらなくてもいいぞ?」
「いえあの、普通に気持ち悪いです……」
ダイネーゼたちは馬車を綺麗に拭き掃除し、血液の付着した布類は全て荷台に丸めて積載したのち、この屋敷で何があってもぬけの殻になったのかをなるべく悟らせないよう出立し、いったんガルエイアに戻ってから商会に立ち寄り、エールドレイクへ向かう定期便の隊商に便乗することとなった。
そっちの方が目立たずエールドレイク入りできるだろう。
一方、エンドア・ディルはイングリッドたちとここで分かれ、屋敷で使っていた買い出し用の荷馬車に乗り込み、単身でガルエイアよりさらに南部の穀倉地帯にあるウォンドルレートの町へ向かうことにした。
しかしウォンドルレートまでの道程は一筋縄ではいかない。
ガルエイアからウォンドルレートまで、険しい峠を越える直行ルートでは険しい峠を越えなければいけないので、運がよくても24時間前後かかるという距離である。急な坂があるので途中で荷車を捨てる必要があるかもしれない上に、毒を飲まされ続けて死の淵に立っていたような男が、ヨボヨボになり座って話をするだけでも息を切らすような体力で越えられるような峠ではない。
だが単独行動しなければいけなかった。
なぜならエンドアは己の政治信条を誇示することで強大な敵を作ったからだ。
ダイネーゼとは口論になってしまったが、確かにダイネーゼの言うとおりだった。
妻と娘をプロテウスに避難させたうえで、自分は評議会議員として政治を動かし、アルトロンドを変えるつもりだった。エンドアはそれで戦えると思った。奴隷制度の撤廃と魔族の人権復活はエンドアが人生をかけて取り組む政策だった。
まだ頑張っている。支援者も増えている。
だがしかし、あれからもう32年もたってしまった。
これでは敗北したも同然だ。妻フィービーに何と言えばいいのか。頑張っているとでも言えば「あなたはよくやった」とでも言ってらえるのだろうか。パシティアに何と言って詫びればいいのか……。
エンドア・ディルがアルトロンド評議会議員としてこれまで行ってきた活動は、何ら結果を出していない。現時点では敗北していることは明らかだ。
エンドアはもう、家族を巻き込みたくなかったのだ。




