16-20 エンドア・ディル(4)迂闊
一瞬、唖然として言葉を失ったディル家の二人だったが、パシテーの件について少しでも情報を持っていたおかげか、いち早く状況を把握したのはイングリッドだった。エンドア・ディルは多少世間知らずであるきらいがあったせいか未だ状況が飲み込めずにいた。
「つまり私たちも、望むと望まざると強制的にあなたと同じ船に乗せられてしまったと、そいういうことですね? なるほど、納得できませんが理解しました。ところでつかぬことをお聞きしますが、ダイネーゼさん、あなたはアリエル・ベルセリウスをどう見ましたか? アリエル・ベルセリウスのことは私も個人的に興味があって調べていました。実際にアリエル・ベルセリウスと会って話をしたと言うあなたの心象をお聞かせください」
「イングリッド! おまえは……」
「いいえお父さま、私も18、もう大人です。いつまでも子ども扱いはやめてください。それにこの話を聞いてしまった以上は巻き込まれたも同然です。私だけ何も聞かなかったことにはならないのでしょう? ねえ、ダイネーゼさん」
「おおっと、父親よりも肝が据わってらっしゃるとみました。正しく挨拶すべきですね、私ダイネーゼがあなたをグローリアスに勧誘しましょう。質問はアリエル・ベルセリウスの心象ですか?」
「はい、そうです。あなたの心象をお聞かせください」
「わかりました……そうですね、転生したと聞いたのですが、やはりずいぶん若く見えました。だけど神話に出てくるアシュタロスと頭の中でどんなに比較しても同一人物だとは思えません。見た目はまだ14~5歳で元服したての少年と言ったところです。いいえ、まだあどけなさすら残していましたね。心象ですか、うーん、たとえば神話戦争に限らず、物語に出てくるような『力を持つ者』は使命感に突き動かされて正義を行います。それが英雄になる者のセオリーです。ですがアリエル・ベルセリウスは、これほどまでに間違った世界を変えるために力を振るおうとしない。これまで起きた大規模な戦闘の経緯を聞いても、だいたいが行き当たりばったり。目の前に泣いてる女の子が居たとか、あっちがいきなり全力で絡んできたとか、たったその程度のことで大勢の命が奪われるような惨事になっている」
「つまりアリエル・ベルセリウスには正義感が欠如していると?」
「いや、私に言わせれば正義なんてものがあるからこの世界は争いが絶えないのです。正義というものはある意味、自分と考え方の違うものを排除する不寛容さの現れですからね。私は捕らえられた身で、命乞いをしながらもアリエル・ベルセリウスという人物に魅力を感じました。あの人は悪を断罪しながらも正義を語らなかった。私が行ってきた奴隷商という悪行に対して許せないと糾弾しながら、それでも寛容だった。まるで悪は滅ぶことを知っていながら、やがてくる滅びの美学を語れるような、そんな男でした」
少し表情を綻ばせてアリエル・ベルセリウスを語るダイネーゼを見て、エンドア・ディルも興味を持たざるを得なかった。
「ほう……、ダイネーゼどの。あなたはの評価は思いのほか高いようだ」
「私は悪人ですからね。それでも己の中で、他人の価値観とはかけ離れてはいるけれど正義を行っているという自負はありました。それが今の世の中では悪と言われてもです。同じ悪人であるシンパシーがそう思わせたのかもしれませんね。たとえばノーデンリヒトやボトランジュの兵士たちの中には、アリエル・ベルセリウスを英雄だという者も少なくありません。我々アルトロンド人が大悪魔と呼ぶのとは真逆の評価ですが、これは仕方がないことですよね。アルトロンド人からみるとベルセリウスの名は悪夢だし、ボトランジュ人にしてみれば救世主だ。これはアリエル・ベルセリウスがヒトである証なのでしょうね、同じヒトとして、同じ家族を愛する男として、魅了されずにいられない。私も実際に会ってみて、アリエル・ベルセリウスは英雄なんかじゃないことが分かりました。彼は世界を滅ぼす力を持っているだけの、何の変哲もない、ただの男です。自分の愛する者たちを守りたいと、それだけを願って戦っているのですよ、きっと。私の正義とあなたの正義、真逆でありながら目指すところは同じなのと同様に、アリエル・ベルセリウスも愛する者を守りたい、ただの男なのです」
エンドア・ディルは大悪魔と呼ばれた男のことを、これまでイメージすることができなかった。
聞こえてくる噂は大災害としか思えないし、そんな男が果たして実在しているのかすら分からない。だが16年前の晩秋、領都エールドレイクで緊急の議会が招集された。ダリルマンディを襲撃したベルセリウスが、こんどはエールドレイクを襲撃するという確かな情報があったからだ。
領主ガルディア・ガルベスはアシュガルド帝国軍と協力し、ベルセリウスを討つため予備役を含めたアルトロンド領軍に神聖典教会より神兵を加え14万の総力戦で迎撃に当たるということだった。エンドア・ディルは各都市の守りが手薄になっても14万の兵を決戦配置することに反対し議論を戦わせたことから議会が紛糾した日のことはよく覚えている。しかし議会は多数決で採決され少数派の意見は排除された。
そして戦闘はアシュガルド帝国軍の指揮下で始まり、結果、ベルセリウスたちを倒しはしたがアルトロンド軍は多大なる犠牲を被った。14万のうち死者、行方不明者合わせて12万というから全滅と言うべきだろう。まさか自分の娘を殺すための軍隊を組織していたなどと考えたくはなかったが、これについては力不足を呪うばかりだ。
敵だったはずのアリエル・ベルセリウスこそが娘の味方をしてくれていたと、そういうことだ。
アルトロンドでは悪魔と称されるほど凶悪な男に魅力があるといったダイネーゼのその饒舌さに、自身もアリエル・ベルセリウスに会ってみたいと思った。もちろん娘パシテーのこともあるし、ノーデンリヒトで保護されている妻フィービーのことについても恩義を感じずにはいられない。
「そうか。大悪……いや、アリエル・ベルセリウスとはそんな男だったか。私も一度は実際に会って、話をしてみたいな。妻にも、パシテーとも会いに行かねばならぬし、ノーデンリヒトのトリトン・ベルセリウスにも礼を言わねばなるまい」
「待ってください、お父さまは長旅ができるような身体ではありません。なのでその役目、私に任せてくださいませんか? お父さまはここに残って二人が戻ってこられる環境を一日も早く作ってください」
「……シッ!」
ダイネーゼが言葉を遮り、口元を人差し指で押さえた。『静かに』という子どもでもわかるサインだ。
足音を殺して立ち上がり、応接間の扉をそっと開けて部屋の外を窺った。
音もなく慎重に左右を見たがそこには誰も居なかった。
「いや、失礼。気のせいか……、足音がしたように思ったのだが……」
「ダイネーゼどの、屋敷の使用人は身元を調べているし、最短の者でも10年間ずっと真面目に働いてくれている。そんな神経質にならずともスパイなどおらん」
「は、はい。そうですね……これは失礼……」
そう言って扉を閉め、ダイネーゼがソファーに戻ろうとしたとき、声にならない押し殺したような声がした。
「ひいっ!!」
イングリッドが口に手を当てて後ずさりし、絨毯の短い起毛に靴のかかとを引っかけて転んだのを見て、ダイネーゼは手を差し伸べると同時に無意識にのうちに尻もちをついても目を離せない視線の先を追った。
「……っ!」
女だ。
今の今までダイネーゼが座っていた柔らかいソファーに、いま女性が倒れる格好で寝かされている。
自ら寝ころんだようには見えない。そこにソファーがあったから無造作に置かれたようにも見える。
ダイネーゼがソファーから立ちあがり、ドアに気を取られたのは10秒ほどか。たったそれだけ目を離したスキの出来事だった。外でコトっと足音がしたように思った。耳には自信はないが、確かに違和感を感じたからこそドアの外が気になったのだ。
しかしドアの外には何もなかった。むしろ異変は部屋の中にこそあった。
無造作にソファーに寝かされた女はメイド服を着ていて、髪も上げたものをカチューシャで押さえ、ホワイトブリムの中にまとめられている。どうやら使用人のようだが靴を履いたままだ。使用人ならば靴を履いたままソファーに寝転ぶことはない。状況的にはどう見ても気を失って倒れてるか、それとも死んでいると言った方がしっくりくる。
ダイネーゼはイングリッドを庇うよう位置取りし、手の届くところにあった花瓶を持って身構えた。
「ディル議員、あの女性に見覚えは?!」
エンドア・ディルはソファーに座った後ずさりしようとしたのか、テーブルを蹴ってずらしながら、女性の出で立ち、特徴をみて倒れている女性に見覚えがあることが分かった。
「バリス? もしかしてバリスか? 一体何が起きた! イングリッドは無事か! ダイネーゼどのは?」
倒れている女性はバリス。この屋敷の使用人なのだそう。ダイネーゼはエンドア・ディルが立ち上がり、歩み寄ろうとしたのを制止した。
「議員! 近づかない方がいいです、得体が知れません。イングリッドさん、大丈夫ですか?」
イングリッドは半ばパニックになりながらも尻もちをついた状態から立ち上がり、手足の無事を確認したあと、素早く起動式を入力してみせた。
「身体強化!、耐魔法障壁展開。お父さまも早く強化魔法をかけてソファーから離れて、ダイネーゼさんは花瓶を下ろしてください! それは私のお気に入りです」
暗殺や暴漢なら起動式入力前に襲ってくるのがセオリーだ。だがしかし、起動式を入力したところでこの状況では安全ではない。狭い密室で話をしていて、これほど常軌を逸した、恐ろしい出来事があるだろうか。
状況を整理する必要がある。
ちょっと目を離した隙だった。ほんのちょっと、3人の視線がドアの方に向いた。たったそれだけ、ほんの少し油断しただけなのに、誰も知らない間にソファーに女性が倒れていた。
気を失っているのか、それとも既にこと切れているのか。
そんなことは大した問題ではない。重要なのはこの部屋がすでに安全ではないどころか、ギンギンの危険地帯だということだ。
これまで密談していた3人は極限の重圧に曝されることになる。
イングリッドは状況を確認するため、使用人バリスと思しき女性が寝かされたソファーに、一歩一歩、慎重に近付き、そして分析魔法の起動式を書き始めたとき何もない空間から話しかける声がした。
「あーあー、もうサイアク。ほんと信じられないほど迂闊よね……。ゾフィーが私をよこさなかったら大変なことになってたかも……」
声の主は目の前にパッと現れた。
音もなく、なんの前触れもなく、パッとだ。
日本で言うところのセーラー服を着ていたが、スヴェアベルム人である3人にはそれが女子中学生の制服だとは思わない。上から下まで黒く見たこともない服なので喪服をイメージした。あまり縁起のよさそうなひとでないことは確かだ。腰まである柔らかい黒髪だが、褐色に赤の線が2本ずつはいった、口元を見せるタイプのハーフマスクをしていた。あれはアルトロンド南部の集落など広い範囲で祭に使われるマスクだが、出で立ちと声のトーンから若い女だという事は分かる。
その正体はマスクで顔を隠す必要などないだろうが、アリエル・ベルセリウスのアルカディアでの妹、嵯峨野真沙希、そのひとだった。




