16-03 グランネルジュの異変(3)
ローブの女が姿を消した。真沙希と同じ光の権能もちなのか、それとも幻でも見せられていたのか、気配を感じられるだけで特別に目がいいわけじゃないアリエルにはもうあの女の姿を探せない。
アリエルはひとつ失敗してしまったようだ。
ダミアンを尾行してきた二人の尾行者を監視するのに真沙希が建物の中に入ったところでアリエルたちの監視が発覚したことは想定外だった。
鷹の目のように鋭い眼光でアリエルを睨みつけていた男は転移魔法で目の前に音もなく現れたアリエルたちに驚いた素振りも見せない。建物の上に転移したことに気付いたのだから、目の前に現れることも当然だが想定内といったところか。まるで当たり前のような顔をして唇に薄笑みを浮かべている。
眼前で不敵な態度をとる眼力の強い男から目を離さずアリエルは女たちに注意を促した。
「ローブの女が居ない。注意な」
建物の屋上に居た時、アリエルたちの位置を看破した者がいたという、それだけで警戒を強めていたロザリンドは自らのストレージから腰に『北斗』を取り出し、柄に手を掛けないまでも、いつでも居合で抜けるよう構え、パシテーは風にそよぐ髪から少しピンク色の花びらを散らしながら佇んでいる。
西部劇だったなら、回転草が転がる風の中、いま正に真昼の決闘でも行われようとしているような緊張感を含んだ重苦しい空気だ。
転移魔法で空間転移するとすぐさまアンチマジックを展開したゾフィーは、目の前で剣も構えずうすら笑いを浮かべている男をフィールドの範囲内に収めた。フィールドの範囲はゾフィーを中心に15メートル程度。広くすれば効果は下がるし、範囲を狭くすれば目に見えて効果が上がる類の技術だ。
強化も防御も魔法が引っぺがされたことぐらい知っているだろう。だがしかし鋭い眼光の男は何の警戒心も持ってないような無防備さでアリエルに歩み寄り、息の触れ合う距離にまで詰寄った。
身長は約185センチぐらい、神聖典教会の神官服を着た取り巻きの男たちと同じ生地の服を着ているので、きっと教会関係者だ。だが教会関係者の割には、腕が太く胸板も厚い。神殿騎士たち以上に鍛えているように感じる。
この男、どこかで会ったか? アリエルは訝り、眼光鋭い男を睨み返した。
まるでこれから殴り合いを始める前の不良のようだ。
男はアリエルが自分のことを思い出せないでいるのを不満に思ったのか、すこし機嫌を損ねたような苛立ちを見せた。
「ベルフェゴール王よ、覚えてないのですか? 私のことを……」
『アリエル・ベルセリウス』でも、『嵯峨野深月』でもなく『ベルフェゴール』と呼ばれたことにアリエルは少し驚いた。
「へえ、ベルフェゴールと呼ばれていたのはず――っと昔の話でね、あの頃のことは思い出したり思い出せなかったりしてるんだけどさ、ところでどちら様でしたっけ? 神話戦争に出てます? 何巻のどのあたりか教えてもらえれば後で読み返しとくけど?」
アリエルの軽口に眉一つ動かさず男は胸に手をやって、深々とお辞儀をし、そのままの姿勢で応えた。
「ガイアー・アスモデウス14世。ザナドゥで最も美しいと謳われたバストゥールの国王だったと言えば思い出してもらえますかな? あなたとは何度かお会いしてますよ英雄王」
男はアスモデウスと名乗った。アリエルは深く息を吐き出しながら男の顔をまじまじと見はじめた。アスモデウスといえば知っている男だ。
「アスモデウス王?? 本物ですか? これはこれはご無沙汰しています。でもひとつ間違いを指摘させていただきたい。ザナドゥで最も美しかったのは『バストゥール』ではなく『アマルテア』ですからお間違えの無きよう。それともうひとつ、確かにこの手で殺したはずなのにどうやって生き返ったのですか? ……なーんて聞くのは野暮ってものですかね?」
ガイア―・アスモデウス14世。
アリエルの前身ベルフェゴールとは因縁浅からぬ繋がりがある。遥か太古の時代、まだザナドゥという世界が生命に満ち溢れていた頃のことだ。
そのころはまだベルフェゴールはザナドゥの小国アマルテアの国王だった。
アスモデウス王のバストゥール王国が国賓として招いていた四世界でも最高レベルのVIP、十二柱の神々の中でも第二位の男『ユピテル』を襲撃され、事もあろうに自国の王宮内で殺されてしまった。
神殺しを行った襲撃者はバストゥールとは比較にならないほど小さな最貧国、アマルテア国王ベルフェゴールとその妻たちだった。
ザナドゥ最大の軍事大国だったバストゥールは怒れるベルフェゴールの襲撃からVIPを守ることができなかったのだ。
その後アスモデウスは最高神ヘリオスにより叱責され、ザナドゥすべての国々は神殺しの大罪を犯したベルフェゴールの討伐を命じられた。これこそ後に神話戦争として歴史に語られる最初の戦いだった。もっともベルフェゴールという名はとっくに忘れ去られて現代には伝わらず物語の便宜上、悪役は最初から最後までアシュタロスと言う名で統一されているのだが……。
アマルテアを倒すための戦禍は瞬く間に拡大しアスモデウスの王国バストゥールどころか、ザナドゥという世界全てを巻き込んだ大戦になるまでそう時間はかからなかったが、その結果ベルフェゴールは世界を相手に戦い、そして勝利することとなり、強力な爆破魔法と国家を揺るがすレベルで水魔法を操るベルフェゴールは勝利に熱狂するアマルテア国民から英雄王と呼ばれた。
しかし神々はベルフェゴール討伐を果たすため、なりふり構わぬ暴挙に出た。広範囲かつ大量破壊を得意とする十二柱の神々序列第四位『テルス』を招聘したのだ。
世界樹のたもとアマルテアは異世界アルカディアとスヴェアベルムから大挙して押し寄せる500万もの大軍に蹂躙された。強力な破壊魔法を使うテルスとベルフェゴールたちの戦いは世界を滅亡させるレベルでの無差別攻撃に発展し、熾烈な魔法戦はかつて大国として栄えたバストゥールの国土をも蹂躙した。
アスモデウスを支えた忠誠心厚い国民もみんな死んでしまった。美しい山河に彩られた風光明媚な国土も、風に揺れる黄金の麦の穂も、すべて焼かれた挙句、一部は灰に埋もれ、大部分は海に沈んだ。
ベルフェゴールが家族を殺され、国を滅ぼされた憎しみで戦い続けているというなら、当然アスモデウスのほうも全てを奪われた恨みがある。
アスモデウスはお辞儀をしたまま少し顔を上げ、持ち前の鋭い視線をアリエルに向けた。
「ええ、あなたとの戦に敗れ、愛する家族も国民も、美しい国土もなにもかもを失った私が転生して万年の未来に生きている。あなたの死体を吊し上げ、死んでしまった妻と子と、国民たちの弔いをするために私は今を生きている。アンチマジックは対策済みですから無駄なことはさらない方がいいとだけ、ご忠告しておきます」
アスモデウスはアンチマジックフィールドを展開するゾフィーをチラッとだけ見、お辞儀を解くと拳を握り締め、顎をくいっと持ち上げて『自分の方が上だ』とでも言いたげに胸を張った。
その目は『やっと会えたなこの野郎!』とでも言いながら狂喜しているようだった。手を伸ばせば届く、すぐ目の前に家族を殺し国を滅ぼした仇敵の首があるのだ。短剣なら頸動脈を狙い、素手でも絞め殺してやりたいと考えるのが自然なのに、アスモデウスはそうしようとしなかった。
「英雄王ベルフェゴール、私とあなたはもはや他人ではない。同じ紐で繋がれた運命共同体なのだ。もはや別の道を行くことができなくなってしまった」
「イヤだよ、運命と寝所を共にするのは妻たちだけと決めてるんだ。だけどすっかり忘れてたよアスモデウス王、俺はアンタを倒したことで英雄王と呼ばれるようになったんだったっけか。転生おめでとう言うべきかな? ところでその新しい生命、新しい身体、新しい身分は誰から貰ったんだ?」
「あなたの想像通りですよ英雄王。この四世界で死人を蘇らせることができるような存在など、そうおりますまい」
死者を蘇らせる、アリエルの知る限りそんなことをできるようなものは、十二柱の神々のなかでも最上位に座するヘリオスしかいない。
そしてヘリオス自身も不死となって四世界のどこかに今も君臨し続けていることは分かっている。
アスモデウスの転生体がどこで生まれたかは知らないが、ヘリオスに命を紡いでもらっていまアリエルの目の前に立っている。過去の因縁を引きずったまま、いや、因縁あるがゆえに転生してきた。
アリエルにはそれだけでアスモデウスを殺す理由があるし、逆もまた然り、アスモデウスにも、アリエルを殺すだけの動機がある。
アスモデウスはまだ表情に幼さの残る少年から異様なオーラのようなものが立ち昇るのを感じた。たとえて言うなら負のオーラとでも言うべき禍々しいものだった。まったくもって少年が発していいようなものではなく、アスモデウスは怖気立った。どちらかというと悪魔や死神と対峙しているかのような錯覚を起こす。
「ここで始められるおつもりですか? フェイドオール・フェイスロンダ―ル卿が巻き込まれてしまいまずが、それでも構わないとおっしゃるならどうぞ。私としても望むところです」
アリエルはそう言って自信たっぷりに胸を張るアスモデウスを斜に見ながら、強化魔法が起動していないことを訝った。いまアスモデウスは確かにアンチマジックは対策済みと言った。それなのに強化魔法を展開していないのは不自然だし、アリエルを眼前に捉えたアスモデウスは歯噛みする音が聞こえるんじゃないかというほど頭に血を登らせてるような表情で居ながら、その身体から発散する気配は実に落ち着いている。
傍らで肩を落とし『早く帰ろうよ』とでも言わんばかりに疲れた表情の女にしてもそうだ。さっきから気配が一定で一切の抑揚がない。
アリエルが気配を探知できないフードの女も見失った。これもおかしい。
アスモデウスはアンチマジック対策ができているといった。だが、ゾフィーの強さがアンチマジックによるものではないことをアスモデウスは知っているはず。アンチマジックなしに戦ったとしても、この間合いから戦闘が開始されればアリエル側は負ける要素がないのだ。それなのに目の前の男は余裕綽々の態度を崩さずふんぞり返っている。
アスモデウスは既に戦闘の準備が整っている。
むしろ不意をつかれたのはアリエルの方だ。
「そうだな。アスモデウス王だというあんたの話が本当なら、俺たちの戦いは避けられない。だけど半信半疑なんだ、そもそもあんた本物なのか?」
本物か偽物か、いまさらそんな話をしようとするアリエルにアスモデウスは不満げな表情で返した。
「不愉快ですね。目の前に居る男が仇敵の名を名乗ったのです。私の知るベルフェゴール王ならその場で爆破魔法が飛んでくるはずですが? まさか16000年も囚われていたせいで腑抜けましたか? なるほど、戦う理由も忘れましたか。戦う意思も薄らぎましたか? なるほどなるほど、ヘリオスさまの狙い通り、腑抜けたと見える」
「俺の知るアスモデウスという男はザナドゥ74の国家を統べるに値する、尊敬できる男だった。ヘリオスなんてクソ女の傘下に入ってはいたが、手下に甘んじることもなかった。それがどうした? 今は国も滅ぼされ、あんたを愛した臣下も国民も、家族も! なにもかも失ってしまったのに、なぜまだ殺し合いを続けようとする?」
アスモデウスはまさかそのような問いかけをされるとは思ってなかったのだろう、初めてアリエルを睨んでいた視線を外し、顔を背けるように俯いた。
「私に戦う理由を問うておるのかね? ベルフェゴール王……」
「いーや、やっぱいまのはナシにしてくれ。何も問わないし何も聞きたくないのかもしれない。あんたの戦いは終わったんだアスモデウス王、これ以上は蛇足だし、名を汚すだけだ」
アスモデウスはザナドゥの主神といわれるほど高名な王であり、十二柱の神々という序列では第六位に座すほどの実力者だった。この順位はジュノーが三位、真沙希が五位で、逢坂先生が十位なので、相当な実力者であることを証明している。命を作り出すことができる女性の方が尊いと考えていたヘリオスが自らの子であるユピテルを第二位としていたせいでユピテルの後塵を拝す形となっているが、四世界の『男神』に限定すると、ユピテルの下、つまり2番目に偉い男である。
そしてその実力はユピテルを凌ぐ。
いまはゾフィーの間合いの中に入っているから負ける要素はないと思っているが、間合いの外に逃れられたら手ごわい敵であることには違いない。
「またまた腑抜けたことをおっしゃる。私とは戦う価値もないと? 腹の探り合いはやめましょう、さっきも言った通り、私たちはもう他人ではない。因縁浅からぬ仲だ」
「価値のあるなしじゃないよ。ただ戦う理由はないと思ってるんだけど……」
アリエルが言葉に詰まると、アスモデウスはその続きを促した。
「けど? ……けどなんですか?」
「あんたがヘリオスの思惑に乗って転生してきたのなら殺すだけの理由はある」
―― フッ……。
アリエルが好戦的な本性を少しだけ見せたことで、アスモデウスは思わず失笑を漏らした。
「いいですな、それでこそ生涯の好敵手です。では、今日のところは顔見世のみ。今日の善き日の再会を宣戦布告と捉えていただいても構いません。では! 次にまみえたときこそ、その首、もらい受けますので、ご覚悟のほどを」
丸腰だと思っていたアスモデウスの手にいつの間にか槍が携えられていて、左の手には大型の盾が現れた。手を伸ばせば届くような間合いで、アンチマジックフィールド内であるにも関わらず、一瞬で装備品が現れた。
これまでアンチマジックで楽をしていたアリエルたちも、いつもの戦法が通じないとなれば本来自分たちの得意な戦法を軸に作戦を練り直すだけだ、ゾフィーは幅広の大剣をストレージから出し構え、ロザリンドは柄に手を掛け腰を沈めた。
二人とも戦闘が開始した瞬間、初撃で全てを斬り裂く構えだ。
同時にアスモデウスは身体が黒い霧のように立ち込め、蒸発するかのようでいながら、槍を持ったまま胸に手を当て、踵を鳴らした。これはザナドゥの古い伝統、これから戦う相手への敬意を示す、敬礼だった。
アリエルは敬礼に対し敬礼で返すでもなく、ただ身構えながらアスモデウスが消えてしまうのを見送った。チラッとゾフィーのほうを見たが表情は険しい。アンチマジックが起動しているにも関わらず、アスモデウスはうすら笑いを浮かべながら霧散して消えてしまった。
アスモデウスどころか、疲れた顔をしていてやる気のなかった女も、神官服を着ていた付き人のような男たちも、もう気配すら感じない……。




