15-13 ある男の記憶
ゴトゴト……。
ガタン! ゴトゴトゴトッ……。
ノーマ・ジーンは目隠しをされた状態で目を覚ました。辺りは伺い知れないが、どうやら馬車に揺られているらしい、ゴトゴトと不規則な車輪の振動に突きあげられている。石畳のようにリズムよく子気味のいいものではなく、次の突き上げが予想できない、とても不快な揺れを感じていた。不整地を行く馬車に乗せられていることが分かった。
それもこれも、アリエル・ベルセリウスを怒らせたことが原因なのだろう、恐らくこの馬車は牢馬車で、そして行き先はノーデンリヒトだ。ノーマ・ジーンは囚われ、人身売買のかどで裁かれる。その悲劇の大きさから、ノーデンリヒトに逃れた民衆はノーマ・ジーンの公開処刑を望むかもしれない。ただ、願わくば、自分に死刑を言い渡すのは、権力をもったエルフであってほしいと、覚悟のまま、そう願っていた。
冷たい木の感触があった。荷馬車か牢馬車なのだろう、無造作に転がされているノーマ・ジーンは、後ろ手に手枷をハメられていることに気が付いた。口にもなにか木でできた猿ぐつわをされていて、足も自由にはならない。恐らく歩けないよう足かせをされているようだ。
ノーマ・ジーンは普通の一般人と大差ない能力しか持ち合わせていない。戦う力などない、どこにでもいる、その辺の女と同じなのだ。ここまで厳重に動きを封じなくとも、逃れることも出来なければ抗う術も力も持ち合わせてはいないのに。ご苦労なことだと、そう思った。
自由にできない体を引きずり、何とか座るよう姿勢を変えてみようと試みたが、もう少しのところで馬車が大きく揺れたせいで、荷台に打ち付けられてしまった。もう無駄に抗う事をやめようと思うのに十分だった。
しばらくすると路面が整地されたエリアに入ったことが分かった。ぐるりと右に直角に折れて行ったのも分かった。そして、馬車が止まり、牢のカギが開けられる音も、分かった。
ノーマ・ジーンの細い腕を掴んだのは、冷たい、金属の手だった。
つまり、武装した兵士のガントレットなのだろう。手のひらにまで金属を使っていると言う事は相当な武具だと思った。
両脇を抱えられる形で無理やり引っ立てられたノーマジーンは、しばらく引きずられたあと、厳重に巻かれていた目隠しを外された。
眩しい光が目に差し込んだが、空と空気の冷たさからするといまは夕刻だった。
徐々に目が慣れてきた。
男たちが6、7、8? おかしい。全員がフル装備の……騎士団? ノーデンリヒトの?
いや違う!
ノーマ・ジーンは自らを取り囲む重装騎士たちの腕に純白のチーフが巻かれているのに気が付いた。
あれはヒト族至上主義者たちが身に着ける純血の証だ。
「もがっ、もがああああぁぁぁぁぁっ!」
猿ぐつわをされていながら何かを叫ぼうとしたが、その声はかき消された。
後ろ手に手枷をされ、まったく身動きの取れない状態で、ノーマ・ジーンは宿敵である神殿騎士たちに囲まれていたのだ。しかも純白のチーフを巻いている。初めて見たが、見間違えることはない。
男たちの中に、同じくピカピカの鎧に身を包んだ初老の男が居て、ノーマ・ジーンを舐めるように、イヤらしい目で見ている。他の男たちが誰なのかは知らないが、この男の顔だけは知っている。
ホムステッド・カリウル・ゲラー司祭枢機卿その人だった。
だだっ広い、ここは室内の闘技場のような場所で、真ん中に一本、太い柱があって、ずいぶんと削られている、年季の入ったものだなと思ったのだが、その柱の使い道はほどなくして判明する。
ノーマ・ジーンは重い鎖を掛けられ、手枷と足枷を柱につなぎ留められてしまった。
とても低く重厚な音が、ガチャっと響いた。その音を聞いただけでも、その鎖の重さを伺い知れる。
ホムステッド・カリウル・ゲラーはノーマ・ジーンを無視して、右手の人だかりのある方へと向かった。
人だかりが引くと、そこにいたのは……。トラサルディ・センジュだった。
手枷や猿ぐつわまではされていなかったが、ロープで縛られている。
ゲラーは汚いものを見るような目で、トラサルディを一瞥すると、吐き捨てるように言い放った。
「汚らわしいな、センジュ会長どの。まさかあなたが亜人などと毎晩楽しんでいたとは……なあセンジュ会長どの、あれは犬と同じだぞ?」
「おのれゲラー! ノーマを侮辱するな! ノーマは犬などでは断じてない!」
「もがっ(やめてっ)、もがああああぁぁっ!(逆らわないで)」
ノーマと目が合うトラサルディ……。
「あああっ、ノーマ! ノーマをどうする気だ、やめてくれ、やめてええええ……」
「私こそは、カーディナル・ビショップ・ホムステッド・カリウル・ゲラーである。貴様のような奴隷商人などに呼び捨てにされるような身分ではない。わきまえろ下郎」
「ぐうっ……」
「謝罪もできんとは、仕方がない。ワトキンス副隊長! いつものように、滞りなくな。もう夕刻である。時間が惜しい、早く終わらせろ」
「はっ。了解しましたっ」
そこから先は筆舌に尽くしがたい拷問だった。
ノーマ・ジーンの目の前で、見せつけるようにトラサルディを痛めつける。身体的なダメージを低く抑え、ただ苦痛のみを与えることに長けた神殿騎士たちの面目躍如といったところだ。
ノーマ・ジーンは、肉体的な痛みなど一つも受けることなく、声も枯れ果て、叫ぶだけ叫んだことと、重い鎖に繋がれながらも、それを引きちぎらんとする勢いでトラサルディに駆け寄ろうとし続けたことにより、もう立ち上がる力もなくなっていた。
そんな折である、正面の扉が開くと、ひとりの少女が引きずられてきた。
ヘスティアだった。
ヘスティアは血を流して倒れている人が父であることを知ると大声で父の名を呼んだ。
目の前の大木に縛り付けられているのが母だと知ると、すぐさま駆け寄ろうとした。
「ガッフウウウ……むごおああああぁぁぁぁ」
ノーマ・ジーンの叫びは、辺りにこだまするヘスティアの悲鳴にかき消された。
しかし男たちは力で幼い少女を蹂躙する。
暴力の限りを尽くし、美しく特徴的な耳も切り落とされた。
筆舌に尽くしがたい、ありとあらゆる残虐なシーンは、ノーマ・ジーンに見せつけるために行われた。
動かなくなったら治癒魔法で回復された。ヘスティアも、トラサルディも、死んで楽になることすら許されないのだ。ただ苦痛を与えるためだけ、なぶっているようにしか見えなかった。
ノーマ・ジーンはこの世の地獄という地獄を見せられた。ただ家族が蹂躙されるのを見せられた。
自分が無力だと言う事は知っていた。だけど頭で考えて、己の無力を知っていただけだ。愛する者たちに声すら届かないという、まったくの無力さがどういったものなのか、知る由もなかった。
そして相手が幼子であっても情け容赦なく暴力を行使する男たちの醜さを見せつけられた。
猿ぐつわを噛んで噛んで、唇から血を流し、後ろ手に縛られたまま倒れても、ヘスティアのもとへ、1ミリでも近付こうと、地面をはいつくばっても、それすら叶わない。
ノーマ・ジーンを縛り付けている柱がなぜ削れているのか、その理由がわかった。鎖に繋がれたまま、地面をはいつくばってでも、その柱に繋がれていようが、愛する者のもとに駆け寄ろうとすることで削られるのだ。
手を伸ばせばヘスティアに届く、そんな目の前で行われた蛮行に、流す涙は一向に涸れず、止め処なく溢れた。
愛する者を救いたい、無力な自分が許せない。
この世界には、こんな非道がまかり通っていいのか。まだ6歳のヘスティアを情け容赦なく痛めつけ、容赦なく暴力をふるい、苦痛に歪む顔を見せつけ、声にもならない悲鳴を聞かせられた……。
ノーマ・ジーンは、こんな惨いことがあっていいのかと、この世界にいるという女神に、何度も何度も訴えかけたが、分かったことは、神など居ないということだけだった。
そんなノーマ・ジーンの傍ら、ただぼさーっと突っ立っている男がいて、この世のものとは思えないような、こんなにも酷いシーンを、目を逸らすことなく、ただ黙って、じっと見ていた。
アリエル・ベルセリウス、その人だった。
ノーマ・ジーンは、涙に滲む視界が赤く染まり始めていて、まさかアリエルがこんなことに加担していたことにまず驚いた。
アリエルはノーマ・ジーンと目が合った。なんという無機質な目で人を見るのかと思った。
刹那、視界は暗転する。地面と空の境界があやふやになり、重力そのものを失ったかのような浮遊感がノーマを襲った。
「なぜあなたはただ見ているだけなの! なぜ助けてくれないの! お願いです、助けて……、助けてください……ヘスティアを……、トラサルディを……」
ノーマ・ジーンの訴えは周囲に木霊した。
猿ぐつわも、手枷も足枷も、重い鎖もいつの間にか外されていて、そこは狭くて薄暗い殺風景な空間だった。牢屋なのだろう、厳重に閉じられた鋼鉄製の檻があってノーマ・ジーンは自分の声が普通に出ていることにすら気づかずアリエルに縋ると、いままでの光景が嘘のように変わって、いまは薄暗く、冷たい牢屋に移動していることに気が付いた。目の前で起こった悲劇が一瞬にして消え去ったことに戸惑うばかり。
冷血……そう思わせるほど冷たい目をしたアリエル・ベルセリウスは、パニック状態で気もそぞろになったノーマ・ジーンを横目で見ながら、ゆっくりと話を始めた。
「あんたがいま見た幻は、ある男の記憶を再生したものだ。グローリアスが神聖典教会に売ったエルフの家族がどうなったのか、その末路を知る男の記憶だ。いま見たのは、この世界に数多ある悲劇のなかの、たった一つだ。売られるって、いったいどんな気分なんだろうな? 俺には分からない。分かりたくもない。なあノーマ・ジーン、あんたの正義は間違った正義だ。それが分かっているから自分のやってることを恥じている。同胞に対して申し訳なさを感じていて、それを深く悔いている。自分たちが間違っていると知っているからこそだ。そんなクソみたいな正義、爆発してしまえばいい」
静かに佇む落ち着いた面持ちのまま、冷たく流し目を送りながら、しかし強い言葉で非難するアリエルの背後、ノーマ・ジーンの目に写ったのは、鉄柵の向こう側、牢の冷たい壁に背中をもたれさせて、座ったままの状態で動かない初老の男だった。その脇には、ひとり、エルフの成人女性が立っていて、泣き崩れるまま力なくうなだれるノーマの姿を見ていた。その目には何の感情も込められていないように見えた。
その女性は妖気を発していて、うっすらと闇の瘴気を出ているようにも見えた。ノーマ・ジーンは生まれて初めてその目で見た闇の精霊よりも、その力で見せられた幻にこそ恐怖した。
幻だと説明を受けた後からでもガクガクと震えが来るほどだ。
アリエルはおもむろに背後を振り返り、動けない男をみた。
「あんたがいま見たのはこの男、ホムステッド・カリウル・ゲラーの記憶だ。俺はこいつがこれまでどんな事をしてきたのかを知りたかった。あんたもそうだったんじゃないか? だからあんたにも見せてやった。もっとも登場人物として出演してもらったのは、てくてくの粋な計らいだ。すまんね、うちのてくてくはあんたに対して怒ってる」
いま目の前で起こった悲劇は、実際に起こったことではなく、精霊の見せた幻だったという。
混乱する頭ではまだ理解が及ばないが、いま目の前の牢には確かにホムステッド・カリウル・ゲラーがいて、ノーマ・ジーンはいまこの男の記憶を追体験したということだ。
幻だったとはいえ、あれは記憶。本当にあった出来事だ。ノーマは愕然とした。何も言葉が出ない、もう涙だけが流れて、悲しいなどという一言では到底表現することができない、複雑な気持ちになった。
えらく冷えた牢屋の中では、ノーマの嗚咽する声だけが響き、吐息は白く煙っている。
パチンという音が聞こえただろうか、聞こえなかったのだろうか。ノーマ・ジーンはそれまでの冷たくひえた岩盤に体温を吸い取られる感覚がなくなり、一転して暖かい空気が肺を満たした。暖炉で薪の爆ぜる音が聞こえる。周りを見渡すと、ここは勝手知ったる自分の家だった。さっきまで家族が団らんで過ごしていた暖炉のある居間だった。もっとも気持ちの安らぐ空間だった。
そこにはトラサルディがいて、ヘスティアが眠い目をこすりながらソファーに戻ってきていた。愛する家族がそこにいた。ノーマ・ジーンはさっきまで見せられていた酷い光景がリアルすぎて、涙を拭くことも忘れて、鼻水も流しっぱなしの酷い顔で戻ってきたのだ。
どちらが幻で、どちらが現実なのか。それともいま見せられているのも幻なのかもしれないと、少し混乱したけれど、ノーマの、その憔悴する姿を見たトラサルディとヘスティアがすぐさま駆け寄り、手を握って、ハグしあったことで、しっかりとぬくもりを確かめた。
ノーマ・ジーンは、そのぬくもりこそが現実だと確信した。
「うわあアアアアァァぁぁああああああぁぁぁぁぁっ」
「ど、どうしたんだノーマ、なにがあった? アリエル! 説明してくれ、ノーマが居なくなっていた30分ぐらいの間に何があったんだ」
トラサルディはノーマ・ジーンを強い女だと思っていた。少なくとも自分よりはいくらも芯の強い、何者にも負けない強情なまでの心を持っていると、そう思っていたのに、わずか30分ほどどこかへ連れていかれたと思ったら、完膚なきまでに心を叩き折られている。何があったのかと聞いても、当のノーマはただ涙に暮れて嗚咽が言葉を阻む。落ち着くまでは話などできるような状態ではないことは明らかだ。トラサルディはただ抱き締めてやることしかできなかった。
アリエルは取り付く島もなく、二人に抱きついて泣きじゃくるノーマ・ジーンをみて、そっと語りかけた。
「さっき見たのが幻でよかったって思うよね、現実じゃなくてよかったって、ホッとしたよね? てくてくにしては優しい結末だったと思うけど、アンタが見たのはただの幻じゃない、現実にあった過去の記憶だ」
「アリエル、何があった、ノーマに何をしたんだ」
「いや、別に大したことじゃない。ホムステッド・カリウル・ゲラーという男の真実と、神殿騎士団というものがどんなものなのかを、2人で仲良く見に行ってきただけだよ」
アリエルはホムステッド・ゲラーを捕えておけば何か役に立つと思っていた。具体的には、王都に囚われているボトランジュ領主アルビオレックスと、その妻であり、アリエルには祖母にあたるリシテアを救出するのに人質の交換などで使えるかな? と思っていただけだ。使い道も考えずにVIPを誘拐するなんて褒められた話じゃないが、ホムステッド・カリウル・ゲラーは教会の事実上のナンバー2だ。使い道なんて掃いて捨てるほどある。
「ゲラーの真実? 神殿騎士団を見てきた?」
「そうだよ。奥さんはちょっとショックなことがあって泣いてるだけだから、すぐ落ち着くと思う。じゃあどうすっかな。俺たちはこれから行くとこあるからお暇するけど、叔父さんたち家族3人は明日の午前中に迎えに来るからしばらく帰れないぐらいの準備して待っといて。爺ちゃんと婆ちゃんはまだやること残ってるでしょ?」
「……私たちに逃げるチャンスをくれるのかい?」
「んー、実は少し前、教会のVIPを捕まえたんだ。いまノーデンリヒトの冷たい牢屋で3食昼寝つきのVIP待遇を受けてる。逃げずにちゃんと言われた通り準備をして待っていたらご褒美として、トラサルディ叔父さんはホムステッド・カリウル・ゲラーに会えるし、ノーマ・ジーンは家族としてサナトスと会える。もし逃げたりしたら永遠にナシ。あんたらグローリアスは徹底的に有無を言わせず問答無用でぶっ潰すし、まさか本当に逃げ切れるなんて思ってないでしょ?」
「アリエルの交渉術もなかなかのものだな。そう言われると逃げ出すことが出来なくなってしまったよ」
この場が丸く収まりそうだというのに、どうにもこの展開が気に入らない奴がいたらしい。
サオが異を唱えた。
「し、師匠は甘いですっ! この人たちは奴隷商人ですよ? 死刑です! 死ねばいいですっ。師匠もロザリィもエルフに生まれてみればいいんです。きっとそんな甘い事いってられませんからね」
サオが必死で食い下がろうとするのを見たジュノーが、イヤミな姑みたいな顔になった。これはまた何か意地悪するんだろうなと思ったら……、さっそく嫁イビリを始めた。
「ねえベルぅ、せっかくグローリアスの商人がいるんだからさ、サオを売ろうよ」
「なあああっ、なんてこと言うんですか! ジュノーは女神のくせに人でなしですっ!」
「そりゃあ私は大悪魔とか破壊神とか言われてるひとの妻をなが――く続けてるし、人でなしなんか言われ慣れてるし。今更って感じよね。まあいいわ、じゃあ見積もりだけでも! お金が無くなったときの非常用に」
「ひっ、ひどいですっ、師匠たすけてください! 私ジュノーに売られてしまいますっ」
「売らないし! 見積もりもなし。ジュノーはサオを虐めんなって!」
売られる訳ないのに、涙目で訴えるサオを尻目にペロッと舌を出して悪びれもしないジュノー。
ロザリンドはそんなジュノーとサオのやり取りを見ながら微笑んでいた。ジュノーは昔から意地が悪かった。だけどサオとの掛け合いを過去の自分と重ね合わせてみるとよくわかる。ジュノーはサオのことを気に入ったらしい。嫁イビリするのだから、嫁と認めたようなものだ。
「ロザリィも、なに笑ってるんですか! みんなひどいですっ」




