02-11 孤独は癒される
20180729 修正
20210730 手直し
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アリエル編入の日は慌ただしくも平和に過ぎていった。
帰宅後は精神的にちょっと疲れたせいか、シャワーを浴びて食事をするとベッドに突っ伏して、そのまま目を閉じると、気が付けば朝だったという……。
とはいえ、アリエルの朝は早い。
フッ、フッ、フッ。
剣が空気を斬り裂く音がして、少し汗ばむ。昨日の学校では休み時間のたびに他のクラスの女子生徒たちに囲まれて、ちょっとだけモテモテの気分を味わうことができた。貴族の息子って言うのはそれだけでモテるということがちょっとだけ分かった気がする。
もしかして女の子にちょっかい出し放題なんじゃないかと、これまであんまりモテたことのない男が勘違いして有頂天になってしまうぐらいには良い思いをしたということだろう。
いや、煩悩と雑念にまみれて剣を振っていて、今日はせっかく朝早く目が覚めたのに、鍛錬にすこしも身が入らない。朝早く起きたら、早く起きた分、剣を長く振ることができると考えて、あさっぱらから木剣を握り、汗ばむぐらいまで振って振って、いつにも増して今日はなんだか気力が充実していたので、気合を入れて剣の鍛錬をしていた。
やってるうちにアリエルの心音がルンルン鳴ってて、スキップで駆けだしてしまいそうなほどに、なんだかワクワクしていることに気が付いてしまった。
そう、今日は午前中からパシテーを迎えに行く約束なんだ。
アリエルはパシテーを預けると言われて本当に困ったと思ったし、ビアンカやポーシャにどう言って説明すればいいか分からず、頭を悩ませていたのだけど、それがアッサリ受け入れられたことで心の重荷を下ろすことができ、それだけでなく、いまこんなにもワクワクしている。
どうやら自分自身のことをよくわかっていなかったようだ。
ひとりでも旅をする気だったし、ぼっち上等! 友達なんかイラネと強がってはいたものの、その実、友達になってくれるような人がノーデンリヒトには一人もいなかっただけの話で、パシテーという輩と一緒に暮らして、今後ずっと魔導を探求することができると考えたら、こんなにもワクワクしている。なんと現金な男なのだろうと思う。
女の子とデートするとか、告白前夜の緊張したドキドキとは違う。どちらかというと生まれて初めて自転車に乗ってテント泊ツーリングに出た時のような、まだ見ぬ世界に期待するワクワクに近い。
ひととおり剣を振って、流した汗は冷水で絞った手ぬぐいを使い、ビアンカと二人っきりの朝食をいただいたとき、クレシダにはちゃんと昼前には戻るからと言い含め、昼食は一人分多く作っといてもらえるよう付け加えておいた。
こっちは準備オッケーだ。ビアンカの準備は? どうせ準備できてないところにパシテーを連れて行ったらきっとスネるんだから、先に準備完了してもらわないと面倒だ。
「母さん、ちゃんと準備しといてね。俺ちょっとパシテー迎えに行ってくる」
「アリエルちょっと待って、母さんの髪型とか変じゃない? おばさんぽく見えない? ああどうしましょ、緊張してる……」
「母さん、嫁をもらう訳じゃないよ? 入り弟子だよ? 妹弟子だよ?」
「分かってるわよ、分かってるけど、なんだか緊張しちゃって、いびられたりしたらどうしよう」
ダメだ、緊張のせいかビアンカがダメ母さんモードに落ち込んでる。もしかして嫁をもらうとなったら倒れてしまわないか? 心配になってきた。まあ、日本に帰ることが先なんだけど。
「母さん、お昼前には連れてくるからさ、それまでに自分を取り戻しといてね。んじゃ時間に間に合わないから行ってくるよ」
玄関を飛び出して段差でジャンプ。そのまま『スケイト』を起動し、通りを滑って移動する。
中等部から中央の大通りを挟んで反対側にある初等部の、更に隣の立派な建物が魔導学院で、その敷地の外れが学院寮。中等部からの進学率はそんなに高い訳じゃないけど、学生数はそこそこ多い。学生の大半は学院寮で生活しているということは、どこかよその街や村から広く生徒が集まってきてるってことだ。
キャンバスを[スケイト]で滑行して横切ったせいか、学生たちの視線を集めながら学院寮の前に到着すると、建物の外にグレアノット師匠が出ていて、アリエルを迎えた。
いや、弟子を出迎えるためにわざわざ建物から出てきてくれるような師匠じゃないことは知ってる。きっとパシテーの退寮に関する手続きにでも来ているのだろう。
「師匠! おはようございます」
「おお、アリエル早かったの。パシテーはすぐ出てくるでの。もうちょっと……ん? ……ほう、アリエルお主もええ顔になったの。パシテーが微笑むところなんか想像も出来んかったのじゃが、昨日からどうも機嫌がええようじゃ。のう、聞いてええかの? この短い間、お主らに何があったのじゃ?」
「昨日の朝、学校に行く前、こっそり魔法の鍛錬をしようと街の外に出たら、バッタリ出会いまして。パシテーもこっそり鍛錬してたんですが。それでね、ちょっと話したんです。たぶん、お互いが孤独だったということなんじゃないですか? 本当にそれだけですよ。師匠の言った通りですよ。確かに俺にとってもパシテーは救いになるのかもしれませんね」
「あ、兄さま。おはよう」
学院寮のエントランスからパシテーが顔を出した。学校で着ているいつもの黒いローブ姿なんだけど、そのローブがちょっと真新しく、着崩れてもいない。どうやらおろしたてのおニューのローブのようだ。パシテーも魔導師なりに身なりに気を使っている。
パシテーの荷物は纏めてあるそうだが結構量があるらしい。まあアリエルのストレージ魔法があればトラック何台分でも引き受けられるから荷物の運搬に関しては少しも心配していない。
アリエルはパシテーに先導されて、学院寮に足を踏み入れた。
そして分厚い木製のドアを閉じるとき、気圧でドアが閉まりづらいのを感じた。隙間のないキッチリと高精度で加工されている証だし、これは最新の魔導建築の賜物だ、たぶんベルセリウス家の別邸と比べてもこっちのほうがしっかり建てられている。
なるほど、魔導学院は魔法の腕前を磨くのにここまでの職人技を覚えるのか。
学生の暮らす寮なんて汚くて廊下に洗濯物が乱雑に干されているという昭和のイメージしかアリエルにはなかったが、魔法で掃除しているのだろう、埃ひとつないとはこのことだ。
むしろ生活感を感じないほどキレイに維持されている。
階段を上り、二階の部屋に入ると奇麗に荷造りが終わっていて、取り出しやすいように積み上げて置いてある。段ボールのないこの世界で引っ越しなんてどうするんだ? と思ってたんだけど、布袋に荷物を詰めて、それを紐で縛って纏めている。これも納得だった。
重いものは書物だろう。大きな衣装ケースがいくつか積み上がっている。さすが年頃の女の子、衣服が中心で、あと雑貨が少し。
「んじゃ全部もっていくね。いいかな?」
そういうと、パシテーは待ってましたとばかりにアリエルの手元を見据え「ん、いいの」と合図を出した。『ストレージ』を見て盗む準備ができたという意味だ。
アリエルは荷物を一つずつ『カプセル』に入れて『ストレージ』に仕舞ってゆく。
仕舞うというより、空間転移させている。パシテーにしてみると昨夜から苦労して荷造りした自分の引っ越し荷物がパッパと音もなく、この世界から消失しているのだ。
ゆっくり、パシテーに見えやすいように、1『カプセル』を展開し、2空間転移 という順番を明確に、分かりやすく作業を見せながらだったけど、大小合わせて25個の荷物はあっという間に『ストレージ』に納まった。
瞬きひとつせず、その大きな目を爛々と輝かせながら、アリエルの一挙手一投足を見て、それを25回も実演してもらったにもかかわらず、パシテーは何一つ収穫を得られなかった。
「え――っ、ぜんぜん分からないの……」
パシテーは目の前で兄弟子の『ストレージ』を盗む気でマナの流れまで観察し、見学していたけれど、まるで分からないといった。
そんなのは当たり前だ。『ストレージ』の仕組みなんて使い手であるアリエルですらサッパリわからないのだから。
アリエルはパシテーの一部屋分の荷物をぜんぶ『ストレージ』に引き受け、二人はこのまま手ぶらで学院寮を後にする。
弟子たちが出てくるのを待たずして、もう研究室に戻ろうとする師匠をつかまえて、重ね重ねのお礼を言って、パシテーは魔導学院を出た。
普段は無表情のパシテーも、今日は少し微笑んでみせた。生きていくことに楽しみを見出せず、この世界すべてを敵に回しても倒したい敵がいるからこそ、魔導に打ち込むことができた。
どんな過酷な運命が待ち受けていようと、兄弟子が一緒にいてくれると言ってくれた。これがパシテーの心にとても温かな火を灯した。
アリエルは何気なく、まるでくだらない雑談を切り出すように重大な質問をしてしまった。
「パシテーは、世界を滅ぼすって言ってたけどさ、具体的に誰を敵に戦えばいいんだ?、この国ってこと?」
パシテーはすぐに答えることはせず、アリエルの表情を窺った。アリエルに聞く準備ができているかの確認だった。軽く聞き流す雑談のような覚悟なら言うべきじゃない。だけど、この質問がパシテー自身の覚悟を問うようなものならばしっかり答えるべき質問だ。
アリエルの目は真剣だった。道を歩きながら、こんなにも軽く、今日の昼ごはんは何にする?ぐらいのノリで聞かれたと思ったのに、アリエルの目には軽薄さの欠片もなかった。
「本気で聞いているの?」
「ああ、パシテーの敵は俺の敵でもあるしな」
「絶対に驚いて引くの。ドン引きするの」
「俺は驚かないし、引かない」
売り言葉に買い言葉だった。アリエルは意地を張って絶対に驚かないと高を括った。
パシテーは勿体つけることもなく、アリエルがサラッと聞いたのと同じように、サラッと返した。
「女神ジュノー」
……っ!
アリエルは絶句した。いや、この世界に転生してから10年経つが、ジュノーなんて女神がいるなんて聞いたことなかったのだけど、その名前はどこかで聞いて知っているからだ。
アリエルはパシテーと視線を合わせたまま、立ち止まってしまった。
すぐ横を歩いていたパシテーも同じように立ち止まり、アリエルの目をじっと見ている。
「ほら、びっくりしたの?」
アリエルはすぐに言葉が出なかった。だけど、確かにジュノーという名に聞き覚えがある。
なぜだか分からないが、胸をかきむしりたい、狂おしい衝動に駆られる。
ジュノー! 知っているぞジュノー。
「あのさ、ジュノーって俺が知ってる人かな?」
「絶対知ってるの。神聖典教会に行くと女神ジュノーの像があるの」
「いや、違うんだ、そんな架空の神さまじゃなくてさ、実在するジュノーの……」
「女神教徒に娘が生まれたらジュノーと名付ける親が少なくないの、中等部にも4年生と2年生にひとりずついるの」
「そ、そうなのか。確かにびっくりしたよ。たぶんだけど、俺の知ってる人を殺す気かと思ったんだ」
「兄さまの知り合いとは違うの、私は女神を倒すために魔導を学んでいるの。どう? ドン引きした?」
「女神なんて居るか居ないか分からんようなもんを倒したいだなんて、そりゃドン引きするわっ」
「いつか絶対に倒すの」
パシテーは細くて華奢な腕をまくってガッツポーズを見せ、打倒女神ジュノーを掲げた。
アリエルは、具体的に人の名前が出てこなくてホッとしたというのが、正直なところだった。
気を取り直してベルセリウス別邸に向かうふたり、冒険者ギルドの前を通りがかると、そういえばパシテーは冒険者登録してないというので、ギルドの前を通りかかったついでに登録だけでも済ませておくことにした。白地に鷹の旗は今日も誇らしげにはためいていて、冒険者ギルドが絶賛営業中であることが分かる。
ウェスタンドアを押すと……ギィッ と少し油の足りない蝶番のギシギシした音が響いて、二人は冒険者ギルドに立ち寄った。
「おおっ、アリ……と、パシテー先生!!」
ギルド酒場のボックス席からハティが顔を出してパシテーに反応した。
だけどアリはないんじゃないの? アリは。
「わあーい、パシテー先生だー!」
ユミルの網膜にもアリエルが映っているとは認識されていないらしい。さすがだ、前世に引き続いてこの世界でもアサシン並みの影の薄さを発揮している。
「アリエルかわいそう……」
「カーリ、俺を覚えてくれてるのはお前だけだよ。思った通りだ、人気者だった俺はたった1日で忘れられたんだ」
今日のカーリは冒険者モードだ。ギルド受付嬢の仕事は土日限定の看板娘なんだとか。
ってか、自分で看板娘とか言うか?
「私に会いたくなったら土日に来てね♪」
なんて言われたら、土日にギルド行きにくいじゃないか。どうせ『私に会いに来てくれたのね、ありがとう』なんて言ってからかわれるに決まってるし。
パシテーがカウンターに向かって冒険者登録を申請している。
ここでひとつ欲張った疑問が生じた、パシテーも限定解除してもらわないと同じ依頼ができないんじゃないか?と。
カーリもハティもユミルもいるから、今の内に聞いておくべきだろう。
とくにカーリ。
「どうせ俺と組むんだから、限定解除してもらえないかな……」
「大丈夫よ。アリエルがSランク受けて私と組んだら、私もSランクでやれるから。でもSランクなんて依頼、困難すぎて私程度じゃ軽く死ねるから絶対にヤだけどね」
なるほど、そういうシステムになっているのか。
アリエルは限定解除なのでもしここでSランクの依頼が発生したら、Dランクであっても自己責任で受けることができる。その依頼にパシテーも同行できるから、アリエルと行動を共にする以上は、パシテーに限定解除の必要はないという事だ。
納得した。
ならばパシテーが受付カウンターで手続きをしてる間に、ちょっとハティたちと相談があった。
「……さてと、ハティ、ユミル、カーリ、物は相談なんだが……」
「ん?なんだ?」
「キミたち、受付カウンターではたった今、冒険者登録をしているヒヨッコがいる。ミルクイベントの必要性を感じないかね?」
「ふふふふ、そうだなあ、そりゃあ必要だよなあ」
「おお、ハティ先輩、悪そうだあ」
ハティの顔がみるみるうちに悪魔のように変化した。心なしか舌先が二つに分かれているようにすら見える変貌ぶりだ。
「そりゃあ俺だって、ミルクイベントじゃ泣きそうになったもんなあ」
「私は受付やってるからミルクイベントいっぱい見てきたけど、あれはフレッシュでイイのよね」
「よっ先輩方! パシテーの一生の思い出にやっちゃってください!」
「兄さま、もらったの」
「早ッ! まあいいや、じゃあ登録おわったらそこのカウンターでミルクでも飲もうか」
「……ミルク飲めないの、おなかこわすの」
「「「うぉい!」」」 一同総ツッコミである。
そして何のことか全然わかっていないパシテー。
「どうしたの?」
「いや、いま星組のみんなの野望が潰えたんだ。パシテーに一生の思い出を作ってやろうという心意気がね、ほら音を立ててガラガラと」
パシテーは冒険者になったお祝いに何か奢ってもらえるのだと理解した。
「ありがとうなの、うん、ミルク以外なら飲むの」
アリエルは指をパチンと鳴らして、ギルド酒場のマスターに問うた。
「おっちゃん、他なにかある?」
「ココアとかどうだ?」
「ココアすき」
「ココア、あいよっ」
一瞬でココアが出てきた。まるで見透かしていたように。
では、ハティ、ユミル……。
「先輩どうぞっ!」
「わっはっはっ、お嬢ちゃん、ココアだと!」(ハティ渾身のチンピラ演技)
「ガキの来るところじゃねえぞ!」(ユミル一生に一度のゴロツキ風)
「ハティ……、ユミル……不良だったの?」
「いえ、違うんです」
「違います、違うんです! パシテー先生の隣で、肩を震わせてる不良の黒幕がいますよ。悪の黒幕はそいつです」
不良と言われた二人は黒幕としてアリエルを指さした。まさかの裏切りオチである。
「え――っ、みんな弱すぎるよ。こんな簡単に売られるとは思わなかったよ」
「黒幕、かっこいい」
「だろ? そうだろ? パシテーは賢いな」
「だ――っ、これが噂のブラコンってやつか」
「ハティ、シスコンの香りもプンプンするよ」
「ああ、パシテー先生のイメージが……」
「ココアごちそうさま。えっと……」
「僕です、ハティの奢りですよ。冒険者としては先輩ですから頼りにしてくださいね」
「妹はやらんから」
「お兄さん!」
「ねえユミル、ハティってこんなキャラだっけ?」
「うーん、確かにノリのいい奴ではあるよな」
パシテーは足をブラブラさせるほど高い椅子に腰かけて、ハティの奢ってくれたココアを飲み終えた。
「ハティ、ごちそうさまなの」
「ココアぐらいならいつでも奢りますよ、また来てくださいね」
「妹はやらんから」
「お兄さん!」
悪ふざけが過ぎるとカーリはそろそろ止めるタイミングだと思った。
「ねえユミル。そろそろ本気で止めないとこれ一生続くよ?」
「お兄さん!」
ダメだ、ユミルも残念な人だった!
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「私はもう先生じゃないから、パシテーでいいの。これからもよろしくなの。みんな」
パシテーはそういって元生徒たちに一礼し、ウェスタンドアを押し開けるでなく暖簾をくぐるかのように下を潜り抜けギルドを出た。これで晴れてパシテーも冒険者だ。
耳を澄ますと鼻歌? が聞こえる。パシテーはなんだか機嫌がいい。ギルド酒場での一件は楽しかった、アリエルもなんだかホカホカしてる。ボッチじゃないのもいいものだ。
さてと、ギルドを出たら中央通りを東側に渡って5分ちょっとで屋敷に着いた。
「パシテー、ここがうち」
「大きい。入るの? 怖い」
なんだかすげえ誤解されそうな単語が……。
「その言葉は母さんが誤解するから絶対にダメだよ」
「………あっ」
パシテーは今自分が言ったセリフが誤解を与えるものだということを突然理解して顔を赤らめた。
「ここはプロスんトコだからさ、うちじゃあないんだけどね、じゃあ、ついてきて」
アリエルが門のチャイムを鳴らすと、しばらくしてクレシダが出てきて、門を開けてくれる。
エントランスから扉をあけて中に入ると、そこで直立不動のポーシャが待ち構えていた。
「アリエルさま、お帰りなさいませ。パシテーさま、よくお越しくださいました。使用人のポーシャと申します。よろしくお願いします」
「使用人のクレシダです。よろしくお願いいたします」
パシテーが完全に固まっている。
瞬きをしてない。息もしてない。心臓が止まってたらどうしよう……。
「パシテー? 大丈夫か?」
「あ、はい。えと、パシテーです。お世話になります」
「さあ、こちらへ。奥様がお待ちです」
ポーシャのあとをついていく。よく見るとパシテーは不安そうな顔で小刻みに震えてるのが見えたので、後ろから両肩をグッと掴んでみると、ガチガチに堅くなっている。
「リラックス。肩の力を抜いて。誰も怖くないからね」
「う……、うん」
奥の部屋に案内されたパシテー。カチコチじゃないか。心なしか顔色も悪くなって青ざめているようにも見える。
「奥様、パシテーさまをお連れしました」
「どうぞ」
ドアをくぐって部屋に入ると、ビアンカはソファに深く腰掛けたまま固まってる。
まるで蝋人形のように無表情で瞬きもしてないし、よく見ると小刻みに手が震えてる。
パシテーは瞬き……どころか息もしてない。
「さっきからずっと息してないのか! ちょっと、二人とも、深呼吸してみようか。はい!」
瞬きもしないと、ドライアイになるし。
「さあ、パシテー」
アリエルに背中を押され、緊張して身体が石のように硬くなっているパシテーが勇気を振り絞り、言葉をひねり出す。
「あのっ、パシテーと言います。16歳になりました。勘当された身なので姓は名乗れません。グレアノット師匠の弟子という縁で、アリエルさんの妹となりました。アリエルさんを兄と呼ぶことをお許しください」
「……」
こんどはビアンカが石のように固まっている。
ほんとうに世話の焼ける……。
「母さん、息してる?」
「あ、はい、えーっと、どうしよう、ポーシャ、いっぱい練習したのに真っ白になっちゃった……。アリエル、あなたが悪いのよ。妹っていうから、もっとちっこい子を想像してたのに、年上の、こんなにも知的な美人を連れてくるだなんて言ってなかったじゃない。あーん、どうしようエル、母さん失敗しちゃった。もう一度最初からやり直してもらってもいいかな」
「無理だからね母さん、もう取り繕えないよ。とりあえず応えてあげて」
「あ、はい、私がアリエルの母のビアンカです。そう呼んでください。えーっと、いつもはこんなに失敗しないのだけど、ちょっと緊張しちゃって。こんなのは本当に今日だけなんですよ。いつもは大丈夫。パシテーさん、ベルセリウス家はあなたを歓迎します。どうかアリエルをよろしくお願いします」
「はい、ありがとうございます」
「アリエルの隣の客室を自由に使ってくださいね。でもここでは私たちも居候の身なので、与えられた部屋しか使えません。なので、与えられた部屋以外は入らないように注意してくださいね」
「承知しました。ありがとうございます」
パシテーとビアンカの顔見せは息の根が止まるような神経戦になったが、双方とも何とか無事に切り抜けることができた。ホッとしていたのもつかの間、緊張のほぐれたビアンカはパシテーの顔をまじまじと見ている。
「アリエル、ちょっと外しなさい」
「え――? なんでー?」
「女同士の話があります」
「マジで? ま、まあ。それなら俺は部屋にいるからあとでね」
なんなんだ? ビアンカとポーシャとクレシダに囲まれるのってけっこう怖いと思うんだが。
ちょっと心配で後ろ髪を引かれるが……、アリエルはパシテーに「じゃ、あとで」と声をかけて、ビアンカの部屋を出ていった。
ビアンカはアリエルが部屋を出たのを確認すると、パシテーに視線を戻し、艶のあるブルネットの髪や、将来は必ず絶世の美人になるだろう美しい顔を愛おしそうに見つめはじめた。
「パシテーさん、お礼を言わせてください」
「はい? なぜでしょうか」
「アリエルは生れてから今の今までずっと、今のように生き生きとした表情をしたことがありませんでした。親の不徳の致すところなんでしょうね。ノーデンリヒトなんていう開拓地しか知らなかったものですから、同世代の友達もいませんし、たぶん孤独だったんだと思います。それが当たり前になっていたので、私たちは誰もアリエルの孤独に気が付かなかったようです。でも昨日、あなたが妹になると言った時から、アリエルの表情が変わりました。あんないい顔、家族のだれにも見せたことがないんですよ。パシテーさん、あなたのおかげです。本当にありがとう。これからもアリエルといっしょにいてやってくださいね」
「は、はい、こちらこそ。兄には本当に感謝しています。これから、よろしくお願いします」
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ものの数分もするとポーシャが部屋に呼びに来た。
パシテーの部屋に荷物を出して引っ越しを完了しないと。
ビアンカの部屋にいくとパシテーがいて、いつもの無表情なので、アリエルが席を外している間に、いったいどんな話があったのか、窺い知ることはできなかった。
「パシテー、何を言われた?」
「アリエルさま、それは無粋というものです」
ぐっ……ポーシャに釘を刺された。この釘はアリエルの力では抜くことが出来ない……。
「それではもうすぐ昼食の準備が出来上がりますので、お部屋を確かめられたら会食場においでください」
パシテーの部屋はアリエルの部屋と壁一枚を隔てた隣の部屋なので、部屋のつくりも広さも窓の大きさも、最初から備え付けられてある家具もほとんど同じで、替わり映えしない部屋なんだけど、ここにパシテーが居るとなるものすごくワクワクドキドキする。
パシテーは16歳で教員をやめたが、魔導を追究する魔導師ということで、部屋には机と書棚が用意されている。ベッドもアリエルと同じ装飾がなされたシンプルなものだが、寝心地は柔らかく、包み込まれるように体圧分散のできたベッドだ。シーツに至ってはしわひとつない完璧なベッドメイク。これはポーシャの仕事だ。間違いない。
カーテンが真新しい。まさか2日で仕立てたのか? また特急仕上げを頼んだのかな。
アリエルは、ラグを敷いていないフローリング部分にさっき預かった荷物を次々と並べてゆく。
パシテーは瞬きする時間も惜しいようにまじまじと凝視しているが、パッと現れて積み上げられてゆく自分の引っ越し荷物がいったいどこに収納されていてどこから現れるのかさっぱり理解できないようだ。
「重さも感じないの? この重さはどこに消えるの? ダメなのー、まったく分からないの」
『ストレージ』の魔法は、たぶん、異次元とか、並行世界とか、そういう知識が少し必要かもしれないので、これを理解するまではちょっと苦労するかもしれない。
「ストレージは難しいな。使ってる俺ですら理解してないから、どう教えたらいいか分からないんだ」
「うん、まずは土の魔法で地面を滑る魔法からなの」
「あれは『スケイト』って名前を付けたんだけどね、今日この後からやろう。でもその前に昼食にしようか、会食場へいこう。会食場は一階だからね」
会食場では、ビアンカが先にスタンバイしていた。
パシテーの席はアリエルの隣に固定。本物の妹がいたとしても席順はここなんだそうだ。
昼食は柔らかめの白パンと、スープの中に入ったミートボールだった。
このスープの中に入ったミートボールというのがすっごくおいしい、もちろん、ミートボールから出汁の染み出たスープは絶品だ。これはクレシダの得意料理で、アリエルがもっとも楽しみにしている料理でもある。
旅先で野宿するとき、星空の下で食べられたらうれしいので、レシピを教えてもらおう。
クレシダのミートボールスープをスプーン一杯、口に入れたパシテーはその味の素晴らしさに驚いて、涙ぐんだ視線をアリエルに向けた。いいや違う、それはクレシダに向けるべきだ。
さてと、パシテーには最初からきっつい課題に挑戦してもらおう。
「母さん、ちょっとさ、父さんに挨拶するために、パシテーといっしょにノーデンリヒトの関所行ってくるよ」
「母さんは心配です。エルは絶対パシテーさんに無理させるに決まってるのですから」
「ちょっとは無理しないと鍛錬にならないよ」
「じゃあ条件があります。パシテーさんを毎日お風呂に入れてあげること、けっして覗かないこと。ケガをさせないこと。危ない目に遭わせないこと。いいですね」
「俺信用ないなー。分かってるって。……えっと、パシテー、着替えだけ持って。関所までは片道で徒歩18日。往復だと軽く一ヵ月以上かかる距離だけど、俺は学校があるから日曜の午後には戻ってないといけないからね。四泊五日で帰ってくるのが絶対条件ね」
「うー、兄さま単純な足し算と引き算で無理だということが分かる問題なの……」
「さて、ごちそうさまでした。いこうか」
「ごちそうさまでした。美味しかったです」
ポーシャがどういたしましてのポーズで応えた。
「アリエルさま、パシテーさま、お気をつけて行ってらっしゃいませ」




