番外編 家族 (前編)
01-01 プロローグ 前編 深月と美月
01-02 プロローグ ナトリウムライトの下で の続き。
時系列では、嵯峨野深月がアリエル・ベルセリウスとして生まれたことで、嵯峨野深月が生まれなかった世界を描いています。主な登場人物は、柊芹香、嵯峨野真沙希。
修正アモスデウス→アスモデウス
遠い、はるかな昔、神話に語られる物語。
ニライカナイ、アルカディア、スヴェアベルム、そしてザナドゥという四つの世界があった。
この四つの世界が物理的に隔絶しているのか、それとも光年の距離を隔ててそこにあるのかは分からない。民族も文明レベルも違うこの四つの世界に共通していることは、力を持つ神々が、力を持たぬ人々を力によって支配するという支配構造だった。
力を持たぬ人々の暮らしは貧しくはあったが、多くの支配者階級が善意をもって民衆を導いていたため、全ての世界に暮らす人々はおおむね平和と繁栄を享受していた。
しかし、四つの世界の中でも最も文明の遅れていた世界で、小さな紛争が巻き起こったのを皮切りに、世界を支配していた十二柱の神々を巻き込んで戦火は瞬く間に拡大してゆき、第四の世界、ザナドゥは灰に沈み、滅んでしまった。
この世界の起こりから記載されている歴史書である「四世界神話」で最も多く発行され、読まれているのが、後の世に言う、神話戦争の最終章、『破壊神アシュタロスの災厄』である。
一つの世界を構成する惑星という単位が丸ごと滅亡してしまうという悲劇を引き起こしておいてなお、破壊神アシュタロスとその僕は戦場をスヴェアベルムに移して戦禍は止まるところを知らず広がりを見せた。
戦いは激化の一途をたどり、人々の意思も疲弊したころ、スヴェアベルムの七割が灰に埋まり、または海に沈む。
だがしかし、スヴェアベルムの英雄は何度倒されてもそのたびに立ち上がった。
最終決戦はアルゴルの丘陵地帯。そこに英雄クロノスを筆頭とする、アルカディアとスヴェアベルム大連合が集結し、世界の命運をかけて戦った。
何万もの戦士が命を落とした。
だがしかし今回の戦は英雄クロノスの剣が勝った。
何度倒しても復活しては世界を滅ぼそうとする破壊神アシュタロスのしつこさに手を焼いた神々は世界の安定のため、もう二度とアシュタロスのような災厄を生み出すことがないよう、小さく閉じた輪廻の輪を作り、その中にアシュタロスとその眷属であるリリスを封印したのだった。
それから幾星霜、万を超える年月が過ぎ去り、語り継がれる神話がまるでおとぎ話のようになっても、封印された者たちは、用意された、とても快適な住環境に、とくに不満もないまま生活を続けていた。
『小さく閉じた輪廻の輪』とは、一つの生が完結すると、また時間が巻き戻って最初に戻るという仕組みになっていて、この世界を丸ごと破壊し尽したとしても、当該のアシュタロスが死ぬことによってリセットスイッチが押され、何もかも元通りに再生する仕組みになった世界。建て替えた家や、病死してしまった人たちもリセットされて元通りになるという仕組みだ。
アシュタロスがこの世界でまた大破壊を起こし、自然や建造物が消滅してしまったとしても、たとえ生命が失われてしまったとしても、時空間そのものにリセットがかかり、また最初に戻ってしまうということだ。
とは言え、当然この牢獄の世界には敵対する者も居なければ、自由を阻害されることもない。最初から戦う相手が居ないのだから戦いようもない。破壊も殺人も何も起こらない、与えられた平和のなかで、ただ安穏とした暮らしを続けて行けるという、ぬるま湯のような世界に閉じ込めることに成功したのだ。
自由を奪い、苦しみを与え続けることによって反骨の精神を育てさせるよりも、何不自由のない生活を永遠に続けさせることにより、戦うことの意味すら忘れさせようとする。これこそが『小さく閉じた輪廻の輪』であり、安寧の牢獄の正体だった。その思惑はおよそ果たされていると見てよいのだろう、この世界に封じられてから万年を過ぎても、アシュタロスたちがスヴェアベルムに復活するようなこともなく、この安寧の牢獄にあるちっぽけな島国、日本で街ひとつ滅ぶなどといった事件もないのだから。
ここは日本の関西と呼ばれる地方の郊外にあるH市、とある自治体経営の鉄筋コンクリート五階建て集合住宅、いわゆる団地の一室。
テレビもなく、ゲーム機もなく、本棚にあるのは少しの小説と、小学生の頃に母が買ってきて読ませた夏休みの課題図書。ピンクやオレンジ色にキラキラと光る貝殻をビンにたくさん詰めて本棚に立てている。これは装飾目的というわけではなくただ無造作に置いてあるだけだ。和室には普通クローゼットなんてものはないので、服をかけるのは、ツリー状のハンガーポール。着替えなどは押入れ箪笥に仕舞われているので、部屋にある家具は、あと、勉強机を兼ねた座卓と、なぜか畳の上に設置されたローベッドのみというシンプルな部屋に居住するのは、四世界を揺るがし神話戦争を戦った戦争犯罪人、リリスと呼ばれた女、いまは柊芹香を名乗る17歳。近くの公立校に通う高校三年生だ。
壁にアイドルのポスターを貼っているでもなければ、音楽を聴くような機材もない。およそ娯楽というものを意図的にすべて排除した、まるで独房のような、退屈しのぎにも事欠くような、こんな冷たい部屋だけが芹香に許された自由な空間だった。
芹香はローベッドをベンチのように腰かけて、壁にもたれるでもなく、背筋をピンと伸ばし、くっと顎を引いて呼吸音すら意図して押し殺していた。
起きているでもなく、寝ているでもない。ただ黙々と瞑想にふけるその姿は、とても女子高生とは思えないほど自然で、まるで森の中に佇む妖精を思わせる。
愛する人の腕の中で眠ることが出来ない間は、かつて幸せだった前世の記憶やそれ以前の思い出、愛してやまない娘の姿を忘れないよう脳内に思い出を映像として再生することが寝る前の日課だった。
―― テュルルルルルル!
突然、静寂は破られ携帯電話の耳に突き刺さるような呼び出し音が鳴り響いた。
せっかくいいところまで記憶の探訪が進み、娘を抱いて豊穣の祭りを楽しんでいたところでいきなり現実に引き戻されたのだから、多少の不快感を顔に出してもいいのだろう。露骨に不愉快そうな表情で、二つ折りのガラケーを開いてみると、登録されていない番号からの着信だった。
しかしその番号には覚えがある、およそ今から7~8年後には義理の妹になる、嵯峨野真沙希が子どもの頃に使っていた家族契約の携帯番号に間違いない。
今生ではまだ付き合っても居ない、未来の夫の実の妹から突然のコールがかかって来たのだから驚いたというよりも不信感のほうが大きく感じた。
芹香は数秒のあいだ小首をかしげながら、出るべきか出ざるべきか、手の中でけたたましく鳴り続ける携帯電話を前にして思案していた。しかしこういうものは出なければ何も始まらないというのが世の常だ。
鬼が出るか蛇が出るか、意を決し、芹香は無言のまま通話ボタン押して携帯電話を耳につけた。
「お義姉さ……、柊さんでしょ? 私、嵯峨野です、嵯峨野深月の妹の真沙希です。お兄ちゃんが大変なの、早く来て! お願いだから助けて……助けて、お願いだから」
ああ、今回のループは深月が事故に遭って入院するループなのだと直感的に思った。
深月が事故に遭うなんて確率にしても5%ぐらい。この人生を100回繰り返したとして、事故に遭うのは5回ぐらいというレアパターン。何度も経験しているのだからいい加減慣れそうなものだけれど、愛する人が事故に遭うなんてフラグ、ないほうがいいに決まってる。
「今どこの病院? 総合医療センターなの?」
ここいらで死ぬか生きるかの大事故が起こると、救急救命設備の整った総合医療センターに運ばれるのが常だし、過去に何度か経験した事故ループでもその全てが総合医療センターに搬送されていた。
芹香はパジャマのまま上にジャージを羽織って、電話を切るとすぐに家を飛び出した。
総合医療センターは臨海道路を走って2つ隣の市にある。距離にして10キロ弱、タクシーを呼んでいたらどんなに早くとも25分はかかるから、走ったほうが早い。
芹香は光の真祖とは言え、光の速さで移動できるなんてことはない。早く移動しようとするならば、強化魔法をかけて走るだけ。
芹香は家を飛び出すと、臨海道路を、大型トラック、乗用車、オートバイを置き去りにして走った。人目を気にしないわけではない。パジャマを着ていたら都市伝説になってしまうかもしれないので、なるべく光を反射させないよう、パジャマとジャージの色を黒っぽく変化させておくのも忘れなかった。
長ったらしい右折矢印信号の付いた赤信号はジャンプで交差点ごと飛び越え、大型トレーラーのコンテナの上を飛び渡り、歩道橋の上に着地して、総合医療センターの夜の出入り口、夜間搬入口の扉を乱暴に開けて入った。
制止する警備員を引きずって処置室へと向かおうとしているところ、廊下のベンチで、瞳に涙を一杯になるまで浮かべた嵯峨野真沙希が座っていて、芹香が来たことを確認すると、右手をスッと差し出し、処置室へ入るよう促した。
ベッドに寝かされた深月はすでに事切れていて、生命の息吹を感じなかった。精一杯の治癒魔法を、芹香の持てる力を総動員しても、愛する人はもう二度と、息をすることも、目を開けることもなかった。
「遅いよジュノー。なんでもっと早く来てくれなかったの! なんで! お兄ちゃんを治してよ、早くしないと冷たくなってきたよ、早く……」
これまで何十回と同じ時を過ごしてきた芹香にとって、深月が事故死するパターンはなかった。
どうせすぐにまた芹香の命も失われ、時間が巻き戻り、また新しい人生が始まるのだと分かっていても、何度経験しても、こればっかりは、愛する人に先立たれる悲しみだけは、慣れることはなかった。
とめどなく熱いものが込み上げてくるのを感じると、呼吸も変調をきたし嗚咽が漏れる。どれだけ悲しんでも、どれだけ泣いても、深月はもう、目を覚ますことはなかった。
カーテン1枚隔てた隣からも、狼狽する男性の声と、泣きじゃくる女性の声が聞こえてくる。ここは死の香りしかしない……。
深月の両親が呼んだのだろう、葬儀屋が遺体を引き取りに来ても、芹香は深月の傍を離れようとはしなかった。遺体が嵯峨野の家に戻っても、近くの住民センターで同じ多重事故に巻き込まれた常盤美月の家と合同葬をすることになっても、芹香は深月の亡骸の側から離れることはなく、眠ることもなかった。
葬儀の最中は、小さく肩を丸め、まるで別人のように見えたと、芹香を知るクラスメイトは語る。
また葬儀の終わり際、火葬場の煙突からうっすらと煙るのをただ眺めているのが、やけに印象的だったと証言する者も居た。その担任の教師も、クラスメイトも芹香の憔悴ぶりをみて心配していたが、同級生たち含めた学校関係者は、その日を最後に、柊芹香の姿を見たものは居なかった。
嵯峨野深月の葬儀が終わってから10日後、芹香が昼になっても起きてこないことを心配した母親が部屋に起こしに行ってみると、眠ったままの状態で亡くなっていたという。芹香の死に不審な点はなかったことから、友人の死にショックを受けて以来、食事もとらず10日も引きこもっていたこともあって、検死を担当した医師は衰弱死との診断を下した。
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前世、柊芹香は思いがけない事だったとはいえ、運命の人、嵯峨野深月と結ばれることなく、17年の短い命を全うし、時間も人生も巻き戻った。小さく閉じた輪廻の輪と呼ばれる永遠の牢獄の中で、何度でも何度でも、またゼロに戻してしまう悪質な呪いが発現した。芹香の生きた人生が幸福の内に幕を下ろしても、目を背けてしまうような悪夢であっても、人生そのものが無価値であったかのように、生きてきた時間も、愛情も、憎しみも、喜びも、悲しみも、何もかもを否定するかのように、まるでお構いなしに、生まれた瞬間まで引き戻す。そう、今回も。
もう何度この時点に戻ってきただろうか、赤子の身体でありながら目を閉じると、事故でボロボロになって死んでしまった深月の顔が鮮明に浮かぶ。
もう二度とこんな悲しい運命なんて受け入れない。もう二度とあの人を事故なんかで失わない。新たな決意を胸に、芹香は後悔と自責の念を抱いて、新しい人生をスタートさせた。
柊芹香の父は起業家であり、やり手の経営者だった。自宅駐車場にはドイツ製高級外車が停まっていて、マリーナに行けば便宜上会社名義にしてはいるが実質的にクルーザーを所有するという、よく言えば典型的な成功者。悪く言えば、成功した自分を称賛してほしくて派手な成金趣味を見せつけたい、器の小さな男だった。
普通に暮らしてゆくのにも、人生きて行くのには何ら不自由さを感じない、恵まれた環境だったが、愛娘の芹香が成長するにつれ、誰にも似ていないことを気にするようになった。愛娘の芹香が美しいと周りの注目を集めるようになると同時に、父には似ても似つかないと噂されるようになり、それを男として恥であると考えたことから夫婦仲は徐々に冷えていくこととなった。
芹香の両親が離婚し裕福な家を出て、母娘2人が嵯峨野深月たちの住む町の団地に引っ越してくるのはまだちょっと先の話。
芹香はだいたいこの時期、この季節、春の終わりの梅雨に突入する少し前、小学6年の春から夏にかけて、自転車で海岸線を走って、嵯峨野深月に会いに行ってたのだが、今生ではもうすぐ夏になろうというのにまだ深月に会うことすらできていない。
前世で起こった嵯峨野深月が事故死するというハプニングをそのまま今回も引き継いでいるのか、こんな大きなイレギュラーが発生するとなると、芹香の方も黙って見過ごすわけにはいかなくなった。
これまで何十回とこのイベントは通過していたというのに、今回に限ってはイベントすら発生しないなんて、どう考えてもおかしい。何も知らず、何もわかっていなければ、途方に暮れてしまうところだったが、ひとつ手がかりを掴んでいる。
前世で電話をかけてきた嵯峨野真沙希が、まだ深月と付き合ってもいないのに『お義姉さん』と呼ぼうとしたこと、深月を亡くしてしまって、涙を流しながら、たぶん真沙希のほうは気が付いていなかっただろうけれど、芹香のことを『ジュノー』と呼んだこと、たったそれだけの事だが、心当たりのある芹香にとっては十分すぎる確証だった。嵯峨野真沙希がどのような役割で深月の妹としてへばりついているのかは知れないが、ヘリオスの手の者である可能性が極めて高い。
今日も深月と会えなかった柊芹香、いつもは家に向かって海岸線を帰ろうとするところ、今日は一本、心に鉄の意志を仕込んできた。夕焼け空を背に、海浜公園を通り抜け、工事中のバイパス道路を渡り、少し古い街並みの住宅街だ。クリーニング店、パン屋、そして潰れてしまってシャッターの下りたままの食堂の前を通り過ぎ、左手に見える2階建ての、少しモダンな感じの白い壁の家が目的地。
嵯峨野の家だ。
玄関前に立つと何だか分からないけど強烈な違和感を感じ、その後、例えようのない不安感に襲われた。何か変だ。
まず真っ先に気付いたのは、小学生の頃から自転車マニアだった深月の自転車が置かれていない。どこかに出かけている風じゃなく、いつも自転車置き場だった玄関左側の隙間に、今は真新しい物置が設置されているのだ。そして物置の扉を塞ぐ格好で可愛らしい赤い自転車が停められていて、泥除けに『さがのまさき』の名前が書かれている。嵯峨野家であることは間違いないのだろう。しかしこの強烈な違和感は……。
一歩引いて辺りをもう一度見渡してみることで、ハッと気が付いた。いま気が付いた。
1軒挟んで2軒隣の、あのクソ女の家、常盤美月の家がないのだ。綺麗さっぱり、最初から何もなかったかのように、売れ残った住宅区画が更地のまま放置されていて、雑草まみれになっている。
ふと気が遠くなるのを感じた芹香は、まるで助けを求めるように、嵯峨野の家の呼び鈴を押していた。
何度も何度も、ピンポン、ピンポンと、連続で呼び鈴を押してしまうほどに、心から余裕が失われていたのだと思う。
呼び鈴を連続で押され、急かされるように玄関の扉を開けて応対したのは、嵯峨野深月の実母、嵯峨野佳純その人だった。佳純は初対面のはずの芹香の顔を見て、驚き、そして一歩引いたあと何も言葉が出なかった。
「お母さん、誰よ?」
けたたましく呼び鈴を鳴らされて機嫌を損ねたような声で居間のガラス戸から顔を出したのは、嵯峨野真沙希、まだ幼く小学3年生だというのに、その眼光は鋭く、どこか訳知り顔で、なぜいまここに芹香が来たのかも、全てを知っているかのように、多くを問わず、ただ芹香の次の言葉を待っていた。
「お願い、助けて。深月がいないの」
震えた声で助けを求める芹香の気持ちに応えるように、真沙希は「入って」と言った。
迎え入れられた嵯峨野の家、玄関をざっと見渡してみても、男の子の靴が見当たらない。2階に上がる階段の手前に飾られているはずの釣り大会の写真も飾られていない。この期に及んで、この異常事態の核心に近付いているのに、不安で心が押しつぶされそうになる。
玄関から一歩上がって、靴をそろえて居間に通されると、昔ながらの和室があった。ブラウン管ワイドテレビの上に並べられた小物の中にも、壁の賞状額にも、前世まではあれほどまでに感じた、男の子のいる家庭の雰囲気がまるっきり、これっぽっちも感じられなくなっている。
長方形タイプのこたつから布団を取り払っただけの座卓、芹香は真沙希の対面にちょこんと行儀よく正座した。
それでもまだ、芹香の視線は部屋の中を隅々まで探している。深月の痕跡を探している。
深月は居るのだと確信を得たいた故の行動だった。
真沙希は、落ち着きを失っている芹香を気にかけることなく、まずは真実を告げた。
「お兄ちゃんは、生まれてこなかったのよ」
真沙希の言葉は芹香には残酷だった。はっきりと、誤解しようのないように、そのささやかな願いを、儚く絶望の深い闇へと突き落とすような、酷い言葉だった。
「じゃあいまどこにいるの? あなたは私たちを監視してるんでしょ? ねえ、あの人は、いまどこにいるの?」
「分からないのよ。でもどこかで生まれて、どこかで生きてることは確かね。母さんの胎内に宿る前に、どこかの別な誰かに引っ張られて行ったと考えるほうが妥当。もしかするとヘリオスの権能が弱くなっているのかもしれない。あなたも知ってるとは思うけれど、こんな非常事態は初めて。お兄ちゃんが生まれずに、3年後、予定通り私が生まれてしまったことで、こちらにいる事情を知ってる者たちが総力を挙げて探してるんだけど、今のところ何も手がかりを掴めていない」
「私が記憶を消してさえいなければ……」
「確かに記憶が残っていれば、向こうからひょこっと帰ってくるだろうけどさ、私ら家族は感謝してるんだよ? 記憶を消してくれたことで兄は明るくなったんだから、ねえ母さん」
「ええ、とても明るくなりました」
「何かわかったら教えていただけますか?」
「うん、だけどそっちも何か掴んだら、その情報を必ず共有するという約束でどう? 私ら、敵同士だったけど、どういう星の巡りあわせか、何度も何度も家族になって、私たちはもう他人とは言えなくなってしまった。母さんもきっとそう思ってる」
「深月は私の家族です。そして芹香さん、あなたもね」
「ありがとうございます。あの人は必ず戻ってきます。そういう人です。今生で会えなくても、来世には必ず私たち家族を思い出して、帰ってくるはずです」
これ以上話したところで、もう深月が生まれてこなかった理由なんて分からないし、話は終ってしまったので、ついでとばかり、真沙希が、いきなり腹を割った話を要求してきた。
「じゃあ、情報共有の第一歩。話したくなければ話さなくていいけど、私たちもずっと疑問に思っていたことがあるの」
「はい。答えられることなら答えます」
「私たちはもう万年に渡ってあなたたちを見てきた。世界を滅ぼす存在、最高位神ヘリオスに匹敵するほどの生命力を持っていて、絶対に殺せない存在。だけどここで私たちは実際にあなたたち二人と接してみて分からなくなった。私には兄が世界を混沌に陥れた破壊神だとは信じられなかったし、あなたが世界を焼き尽くした、あの灰燼の魔女だなんて思えない。むしろ程遠い存在に見えた。ごく普通の男の子と女の子としか思えなかった。なのに、あなたたちはなぜ戦争を始めたの? そこのところ聞かせてほしいな」
「戦争? 私たちは戦争なんて望まなかった。もしかしてあなたたち、何も聞かされてないの?」
「うーん、私たちが聞かされているのは、あの戦神ゾフィーがあなたの祖国、スヴェアベルムのソスピタを裏切って、王族を暗殺したってことが最初。それでザナドゥの主神アスモデウスが怒って、えっとどこだっけか、ザナドゥの最貧国……」
「アマルテアですね。貧しかったけれど、緑豊かな美しい国で、人々は争い事を好まない、時間がゆっくり流れているような平和な国だったわ」
「そっか。で、私のお兄ちゃんはアシュタロスだってことは知ってるけど、アシュタロスの正体は? いったい誰なの? あれほどの力を持ってたんだから、相当な地位に居たと思うんだけど」
「アスモデウスの怒りを買った貧しい小国の王、名をベルフェゴール。人でもエルフでもない、デナリィ族っていうザナドゥ固有の少数民族の族長でした」
「知らないなあ。母さんしってる?」
「アマルテアの王の名までは知らなかったけど……、ごめんなさい、ちょっと……」
嵯峨野佳純は息を詰まらせ、芹香の顔を直視することができなくなり、視線を落とした。唇を噛みしめて、目には今にもこぼれそうなほど涙が溢れだしている。恐らくはアマルテアに訪れた災厄を知っているのだろう。二人の視線に促され、しばらくすると佳純は自分が知ってることを話し始めた。
「アマルテア。そうね、私は当時そこに居ました。アスモデウスが倒され、当時ザナドゥを治めていた超大国バストゥールが滅ぼされると、その脅威に対抗するため、スヴェアベルムとアルカディアが連合を組んで、あんなに小さな国に宣戦を布告しました。私もその時の動員で、アマルテア殲滅戦に参加していたひとりです」
「殲滅戦!?」
真沙希は、いま母から聞いた言葉が信じられず、耳を疑ったかのような表情で眉根を寄せた。小国とは言え、国に対して殲滅戦を仕掛けるなど聞いたことがない。殲滅戦というのは、そこに住まう人を、女、子ども、老人の区別なく、皆殺しにするという作戦だ。肉親を失った憎しみも、愛する人を奪われた悲しみも、全てを消し去ることを目的とした作戦。人のやる事じゃあない。だけど大義名分がないわけではない。殲滅戦は未来に禍根を残さないので、子や孫の代に憎しみを残さない。平和な世の中を創生するという強者の理論だった。まさか、その話が本当なら、先に国を滅ぼしたのは連合側で、アシュタロスは悪魔でも破壊神でもなく、王の責務を立派に果たそうとしていただけ……という事になる。
改訂作業をしました。
西ドイツ製高級車はないですよね。ドイツですよね。すみません。




