十章サイドストーリー 初恋(3)
また長くなっちゃいました。週一投稿なのでご容赦ください。
次話はまた来週、月、火、水のいずれかに、セイクリッドのその後を予定しています。
エマの部屋に戻ってから出てきた朝ごはんは焼きたての白パンとベーコンエッグだった。自炊してるって聞いたから、白ご飯が出るんじゃないかと少し期待したのだけれど、さすがにそんなうまい話はなかったが、エマの白パンは帝国で食べたどんな白パンよりも柔らかくて、口どけがよく噛んでいるとすぐに甘くなってくる絶品パンだった。
めったにお目にかかれない絶品パンを焼くエルフの母性に包まれながらも、どこか上の空になってるアーヴァインを見透かすように、だけど少しだけ意地悪そうな目をしながら、どこか自慢げな口調で言った。
「カンナ可愛いでしょう? だって私に似てるもの」
「ああ、そうだった。初めてエマさんを見たとき俺、似てると思ったんだ」
「私を呼ぶのはエマでいいですよ、私だってあーさんって呼んでるし」
「俺さ……、こんなとこまで来てからこんなこと言うの恐縮してしまうんだけどさ、エマ……は、俺が16年前ここで死んだアーヴァインだって、本当にそう思ってるのか?」
「あーさんはどう思ってますか?」
「身体はたぶん同じなんだろうと思う。それこそガキの頃からあの、深月、いや、アリエルな。あいつらによく言われたよ。俺には異世界に家族がいるんだって。だけど、記憶がないんだ。覚えてないわけじゃなくて、俺はきっとここで生きたこともないんだと思う」
「うーん、そうね。神話で語られる四つの世界って知ってる?」
「聞いたことはあるけど、内容はよくしらないんだ」
良く知らないのならばと、エマはまるで子供に絵本でも読んで聞かせるかのように、まだ難しい言葉が理解できないアーヴァインにも分かりやすいよう、言葉を選んで神話に記されるこの四世界の成り立ちから丁寧に説明した。
太古に神々が戦争を起こして、ザナドゥという世界がひとつまるごと滅んでしまったこと、このスヴェアベルムという世界も半分以上が滅んでしまって、大半は人が住めない地になっていること。そして、神々に戦いを挑んで、世界の大半を滅ぼした張本人が、アシュタロスという名の破壊神であり、それが今のアリエル。つまり、アーヴァインの幼稚園時代からの幼馴染で親友だった嵯峨野深月なのだと。
破壊神アシュタロスは、倒しても倒しても、殺しても殺しても、何度でも生まれ変わっては神々に戦いを挑み、そして大破壊をもたらしたのだと。恐らくは、神子と呼ばれる生まれ変わりの事例は、アシュタロスたちに何か関係があるんじゃなかと考えられているということも。
だけどくれぐれも『こちらの世界での神話なんですけどね』と、少し遠慮がちに前置きをしてくれたので、初めてこの世界の神話を聞かされた割にはショックを受けずに済んだようだ。
「アシュタロスという名は聞いたことがある。だけど俺にはそう簡単には信じられないな。ここに一緒に来たアリエルは子どもの頃から確かに強かったけれど、好戦的かと言われると真逆の印象しかなかった。小さな頃から身体が弱くて、フラフラしながらも、身体の大きな年上のガキ大将をコテンパンにのしたのを見たことがあるけど、あれも完全に向こうから仕掛けられてのことだった。俺が保証するよ。アリエルの性格は温厚で、争い事は極力避ける傾向にあった。それに話を聞いていると、破壊神なんて言うなら、アリエルよりもどっちかというとロザリンドを指したほうがしっくりくる。ロザリンドを悪魔だなんて言ったら、言われた悪魔の方が気の毒に思えるほどだ」
「ロザリンド! ……やっぱりあの女にひどい目に遭わされているのね。私たちが初めてマローニに来た時も、あーさん、ひどく殴られて……私たちはドラゴンをけしかけられて、どうしても動けなくて……」
「マジで? 前世の俺もロザリンドに殴られてたの? なんか今初めて俺、前世アーヴァインに親近感覚えたわ! なんだか間違いなく俺のような気がしてきた」
エマによるとアリエルの事なんかよりもロザリンドの事がもうとんでもないほど恐怖だったそうで、今でもまだ夢に魘されることがあるらしい。ドラゴンよりも恐ろしいなんて、どんだけ恐ろしいんだ。
ロザリンドの恐ろしさを語らせるとアーヴァインの右に出る者はいないだろうってぐらい、ロザリンド凶悪伝説のネタには事欠かない。
やっとエマと共通の話題を見つけたことが嬉しかったのだろう、なんだか二人の間にあった壁が取り払われたかのような、そんな錯覚をしてしまうぐらい、一気に距離が縮まったような気がした。
だけど、フェアルの村であった戦闘の話になったとき、そうロザリンドが問答無用で敵兵の首を落としたときの話に差し掛かったとき、エマはひとつ大きく頷き、饒舌になって話を進めようとするアーヴァインを嗜めるように、まるで責めているかのような目をしながら言った。
「昨夜私はドロシーが死んだと聞きました。フェアルの村はドロシーが家族と一緒に暮らしていた村なのですよ? なぜ先頭に立って剣を抜かないのですか? あなたはドロシーを愛したことも覚えていないのですか?」
「ああ、ドロシーのことはもちろんアリエルから聞いてた。半信半疑だったけどね、改めてエマにそう言われると、剣を抜く前に相手が全滅してたとしか言いようがないよ。だけどアリエルのバカ者は、予告も何もなく、イヴたちを連れたままエルフ狩りの最前線に攻め込むんだぜ? 俺は『まさかこのアホども、なんてことしやがんだ』と思って、怯えるイヴたちを庇える位置に立って、ただ見ていただけさ」
フェアルの村を奇襲したとき、アーヴァインは抜刀することすらできなかった。ダリル兵なんて見たのは初めてだったし、まだこの世界の政治や情勢なんてよくわかってないし、土地勘もまるでないアーヴァインにとっては『ダリルって何だよ、知らねえよ。それって美味しいの?』的な感想しかない。
平和脳の日本人としては『抜かずに女たちを守る』ことが至極当然の対応だったのだろう。だけど今考えると自分のバカさ加減に震えがくる。相手に構えさせることもさせずに、問答無用で真剣を振るったロザリンドに驚いて、少し卑怯だと思ったことも確かだし、先制攻撃の不意打ちを仕掛けて、何も殺さなくていいんじゃないかと思ったことも確かだ。しかし呼子がけたたましく吹き鳴らされると、すぐさま敵兵がワラワラと現れて取り囲まれてしまった。取り囲まれるまで、自分たちが圧倒的不利な状況に追い込まれるまで、相手の命を気遣っていたなんて、ホント、自分のバカさ加減に嫌気がさしたものだ。アーヴァインはこの時初めて、ここは日本の常識なんかまるで通用しない異世界だってことに気が付かされたのだ。
「剣を抜くこともなく、ですか?」
ドロシーたちの家族を殺して、若い女たちだけを攫って行くという非道な行いをしたダリル兵にすら剣を抜くことが出来なかったアーヴァインを、エマは呆れたような顔で問い詰めた。
エマは相手を殺さなかったことを責めてるのではなく、戦わなかったことを咎めている訳でもない。ただ、一時でも家族として一緒に暮らしたドロシーが愛する者も、大切にしていた気持ちも、何もかもが踏みにじられ、奪われてしまった。挙句、無残にも殺されてしまったというのに、その事実を突きつけられてなお、怒りすら感じなかったことは責められて当然のことだ。
アーヴァインは食べかけの白パンを皿の上に戻し、少し畏まったような顔でエマに向き合って、心中を告白する。
「ああ、そうだよ。昨夜、同僚の勇者センパイにいきなり斬り掛かってこられて、仕方なく防御するために抜いたのが初めてだ。情けない話さ、俺は女たちの後ろで、剣も抜かずに、ただ立ってただけ。剣を抜くのが怖い訳じゃない、ただ、人を殺してしまうことが怖いんだ。エマはこんな俺を軽蔑するかい?」
アーヴァインの心中を察したエマは、小走りでダイニングテーブルを回り込み、そしてアーヴァインがさっき着替えたばかりのシャツをギュッと掴んで、肩に顔をうずめた。
「軽蔑なんてするものですか。私たちが出会ったころ、異世界からこちらに渡ってこられたばかりのあーさんは、模擬戦では負けたことがないのに実戦になるとからっきしダメだと馬鹿にされていました。私の愛した人は、人に向けて、なかなか剣を抜くことができない人でした。……ねえ私、どうしたらいいですか? あなたを、私の愛した人だと思い始めています。間違いないと思い始めています。でもあなたの心にはもう、私は居ません。ねえ、私はどうすればいいですか」
肩に感じるのは薄手のシャツにしみこんで、熱い涙のとめどなくこぼれてくる感触。
堅物と言われるエマの心が、グラグラと揺れるたびにこぼれては、その熱い涙が肩を濡らす。アーヴァインはこれほどまでに可愛い女が自分の肩に縋って泣いているのに、向き合って抱きしめてやることもできなかった。肩じゃなくて、胸を貸してやるという、気の利いたこともできやしなかった。優しい言葉ひとつかけてやることも、できなかった。
どうすればいいですかなんて言われても、アーヴァインに答えられる訳がなかった。
アーヴァインですら自分がどうすればいいのかなんて、まるで分らないのだから。
ただ沈黙が続く室内、隣の部屋からはイヴの気持ちよさそうな寝息が聞こえてくるぐらい、音のない空間が、二人の心を容赦なく締め付ける。心臓をぎゅっと握り潰されそうなほど胸が痛いことですら、どうすればその痛みが和らぐのか分からない。まったく、どうすればいいのか分からないこと尽くしだ。
「俺たちはゼロから始めればいいんじゃないのか? エマ、お前が言ったんだ」
「言いましたよ。言ってしまいましたよ」
エマはなんだか残念そうな表情を浮かべながらアーヴァインの目をじっと見ていた。
「また同じ顔で私の前に現れるだなんて、酷い人……」
もともと、初めて会った時からアーヴァインの顔を見て惹かれたのだから、今のアーヴァインと一つ屋根の下、一緒に暮らすのだとしたら、ゼロからだろうが100からだろうが、きっとまた恋心を抱いてしまうに決まってる。
エマは、この少年を見ると、つい無意識に夫アーヴァインとの共通点を探してしまうことに気が付いた。
いや、逆なのかもしれない。夫アーヴァインを見る目でこの少年を見ていて、違和感がないかを確かめるように値踏みしていることに気付いたというほうが、より今のエマを正しく表している。
だからわざと意地悪なことを言って、夫アーヴァインとは違うという事を見定めていたに過ぎないのだ。だけどエマが試すようなことをするたびに、この人はエマの愛したアーヴァインであるという事を再確認するだけの結果に終わってしまった。まだ会って6時間ぐらいしか経ってないというのに、さっきまで同じ部屋で仮眠をとっていたときも、狸寝入りはしていたけれど、実は一睡もしていなかった。『私のお布団に入ってきてもいいから』なんて、冗談でも言ってしまった手前、本当に入ってきたらどうしようとか、意識してしまって眠るどころじゃなかったのだ。
愛する人を病で亡くしてしまってから16年、カンナを育てるのに一生懸命であまり他のことにまで気が回らなかったとはいえ、胸にぽっかりと空いてしまった穴を埋める手段なんて、こんなド田舎の要塞暮らしで、そう簡単に見つかるわけがなかった。まさか残りの人生200年も300年もの長きにわたって、思い出を糧に独り身で生きていけるほど、エマは強くない。カンナやバーバラとは離れて暮らしていて、こんなにも『がらん』として音のしない部屋で、一人の食事をこれまでずっと続けてきたんだ。一人は寂しい、一人は辛い、一人は嫌だと、心が悲鳴を上げていたところに、アーヴァインの生まれ変わりが、アリエルさんたちと一緒に、この世界に戻っただなんて、空から降って湧いたような、自分に都合のいい嘘を頭の中で具現化したような、まるで夢を見ているかのような朗報だった。
こんな都合のいい話があるわけがない。この世界はもっともっと残酷だったはずだ。きっと、何年か後には自分はまた帝国に連れていかれて、半ば本気で奴隷市場で売られてしまうのではないかと、悲観的になりかけていたところだった。また愛する人と共に歩む道があるなんて考えてもみなかった。もしこれが夢だったとしても、この夢からは覚めたくないと願った。強く。
昨夜、難民申請の列にいきなり割り込んできた黒髪の少年と出会ったことにより『相当な堅物』とまで揶揄されていたエマが、まだ出会ってたった6時間しか経っていないというのに、もう抵抗できなくなってしまった。何もこの少年が何かしたわけでもなく、ただ同じ部屋に居て、明かりを落とした部屋で、眠れない夜をもたらしただけだった。ただそれだけでも、心にぽっかり空いた大きな穴にピタリと填るこの少年を、そう認識してしまったのだ。
エマは今、重大な決断を迫られている。いや、自分自からが決断を迫っているに過ぎないのだけれど……。
「ごめんなさい。酷いことを言ってしまいました。どうかわたしを嫌いにならないで。あなたと共に生きて行きたいです」
アーヴァインはエマに向き直り、まだ疵一つない手で肩を抱き寄せた。触れたその手が暖かかった。抱き寄せる力が優しかった。そのまま息がかかりそうな距離に……、その魅惑的な双眸が……。
吐息が荒くなったのを感じる、心臓が口から出そうなほど暴れている。少しずつ、少しずつ、震える唇が近付いてくる。
「で、私が寝てる間に何をしてらっしゃるんですか?」
ベッドのほうから聞こえてきたのはイヴの声だった。アーヴァインがこれまで見たことないほど不機嫌そうなオーラを吐き出しながら、まるで仇と対峙するような険しい表情でエマを問い質す言葉には、敵意がこもっているようにすら感じる。
「あーさんを奪ったりしないって言ったのに」
慌てて何もなかったような振りをしても後の祭り。エマは両手でアーヴァインを突き飛ばして取り繕おうとするけれど、一部始終を見られていたのだとしたら言い訳をしたところで何の意味もなさないのに。
「あ、イヴちゃん。あーさんの目にゴミが入ったから、ちょっと見てただけなのよ?」
「どうかわたしを嫌いにならないでって言ってた」
「言ってないです。寝ぼけてたのね? はやく起きていらっしゃい。井戸は外ですから、顔を洗って……」
「さっき泣いてたじゃん」
「私の目にゴミが入ったのよ、それをあーさんに」
「あーさんの目にゴミが入ったって言った!」
「はい、イヴの勝ちだよ。もうエマを困らせるな」
「あーさん、私イヤ。自由なんか欲しくない。あーさんの物のほうがいいよ。ねえ、私こんなとこイヤだ、アシュガルドに帰りましょう、お願いですから」
「ああ、イヴにはちゃんと話してなかった。ちょっと長くなるから、エマの焼いたパンを食べながら話を聞いてくれ」
アーヴァインはこの世界に来た理由を、この世界に来たかった理由をイヴに説明して聞かせた。
エマはアーヴァインを知っていて、最初から心が惹かれていた訳を、さっきの言い訳じゃないけど、それでもイヴに話さなければいけない理由があった。同じ境遇であったこと、アーヴァインがどんな思いで、ここノーデンリヒトを目指したのかを。
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ノックの音がしたので、もしやカンナかバーバラかと思い、緊張して背筋がピンと伸びたところ、乱暴にドアを開けて入ってきたのはロザリンドの姉、べリンダだった。
「休みのところワリィ、エマ今日はちょっと救護室に居てくんないかな? なんか戦闘じゃ足手まといにしかならないってのに、シャルナクやコーディリアまでが出るって言って聞かなくてさ、治癒魔法使いが足りなくなったらヤバい。せっかくアリエルたちの戦闘を間近で見られるかもしれないってのに、コーディリアのお守りなんてやらされたくないよな」
「誰だそれ」
アーヴァインはノーデンリヒト軍の上から下までまったく知らなかった。帝国に居た時、ざっと流すように教わった中に、敵勢力の名前として何人か聞いていたけれど、アリエルとロザリンドの息子が次期魔王って言われてるのを聞いてひっくり返ったぐらいだ。顔を見たのもそのロザリンドの息子と、その嫁さんの小さなエルフ女性、あとでっかい熊と狼の獣人、そして弟子だという可愛い子ぐらいだ。
「えっと、シャルナクさんはボトランジュの次期領主さまで、アリエルさんの叔父で、コーディリアはシャルナクさんの妹だから、アリエルの叔母さんにあたるかな。ただしコーディリアには間違ってもオバサンさんだなんて言わないこと。あーさんもエルフ女性の恐ろしさを知ることになるから」
「……ってか、アリエルってそんな偉い人の血筋なのか?」
驚くアーヴァインにべリンダが人差し指を立てて答えた。
「アリエルはノーデンリヒト元首、トリトン・ベルセリウスの長男よ。帝国では教わらなかった?」
「いや、ノーデンリヒトは王国領だけど、いまは魔族に支配されてるとしか教わってない……けどなんだ? ってことはアリエルって、王子様なのか?」
「そうなるね」
「くははははは、似合わねえ! この話だけで10年は笑えるぜ……」
なんて笑ってる場合じゃない。話を聞いた限りじゃその二人は一般人だ。だったらアリエルが戦闘するのに、近くになんか居ちゃいけない。必ず被害を受けるし、それにアリエルの方もやりづらいだろう。
いや、あいつのことだから手加減……しないかもしれない。
「エマ、アリエルは帝国でも同級生とケンカになっただけで建物ごとフッ飛ばすようなアホだ。役に立てるかどうかわからないけど俺も行くよ」
「分かりました。すぐに向かいます。あーさんはべリンダと先に出てください」
「俺が大怪我したらマジで助けてね、女も知らないまま死にたくないから」
「ほう、アーヴァイン、キミは童貞か!」
「ちっ、違うって。記憶がないだけで、子どもも居るし!」
「ああもう分かったから急ぐぞ、チェリーヴァイン」
「くっそ……」
押っ取り刀で駆け付けるとはよく言ったもので、自分の刀を腰に差す時間すら惜しんで、手に握ったまま要塞まで走ってきたところだ。
「なんだ、キミも無詠唱で強化魔法を使うんだな。はあ、まさか私が置いて行かれるとは思わなかった」
「俺が使える魔法なんて強化と防御だけだよ。焚火に火をつけることも出来ないんだ」
なんて謙遜したようなセリフを吐くアーヴァインだったが、さすがにべリンダの目を誤魔化し切れるものじゃあなかった。その強化魔法のノリと、防御魔法の頑強さは、べリンダの力を持ってしても、一対一では到底かなわないという、あの帝国軍の誇る勇者の力を遙かに超越したレベルで安定していたのだ。
「ロザリィを師のようなものと言ったその実力を見せてほしいものだ。キミも相当、底が知れないね」
「実力なんてないですよ。チャンバラごっこがちょっと強かっただけさ、ってもう門あいてんじゃん、ゾロゾロ出て行ってんじゃん」
「やばっ、ほらキミも並べ! もっと前に。間に合ってよかったよまったく……」
それからアーヴァインたちが見物していた戦闘については、わざわざ語るべくもなく、パシテーが騎士勇者のうち2人を倒してしまったこと、相変わらず容赦のないロザリンドの太刀筋も確かに見物だった。だけどなんだあのゾフィーって。強いってことだけは聞いていたけど、デタラメだった。
ゾフィーに興味津々だったべリンダも瞬きを忘れて開いた口がふさがらず、せっかくの美人を台無しにしてしまったけれど、俺もどんな顔をしていたかというと自信がない。その時の顔をスマホで撮影していたら、きっと一生ものの笑い話になったんじゃないかってほど魂の抜けた顔をしていただろう。
流石にアリエルたちが、この世界の半分以上を滅ぼしたと聞いて『それはないだろ』と月並みな感想を抱いたけれど、ゾフィーって女、とってもゆるーい空気を出してるから、てっきり『癒し系』だと思ってたら『いや死刑』だったという、まさかのダジャレ的な落ちがあった。ビビった。マジでビビった。
ジュノーより強い女も、ロザリンドより怖い女も見たことがなかったのに、ゾフィーって女はその両者の上を行ってた。アリエルに加えて、ゾフィーとジュノーが居れば世界なんて簡単に滅ぼせるってことがよくわかった。王子様なんて似合わないと思ってたら、本気で破壊神の方が似合ってんじゃないか? って思うほどの戦闘力を垣間見せてもらった。
アリエルの刀『黄昏』が光を放ち始めた時も、べリンダに「やばいよ、逃げたほうがいいよ絶対」って言ったのに、忠告したのに、それを聞いたべリンダも「キミがヤバいっていうならますます見て見たくなった」なんて言い出す始末で、ほんと、絶対フッ飛ばされるって分かっていながら、思った通り見事なまでにフッ飛ばされてしまった。反省のしようもないのだけど、ジュノーのおかげでちょっと耳鳴りが残った程度という完璧な治癒魔法を見せてもらった。どうせなら救護室に運んでもらって、エマの治療を受けたかったのだけど。
その後は、見た目に反して実は、とても大人しくて可愛い『はずだった』ハイペリオンを怒らせた帝国軍の元同僚たちが消し炭にされてしまったであろう要塞の門外から、門の内側にテレポートしてきたところだ。
テレポートだと。まったく、あいつらときたらデタラメすぎる。
「なあべリンダ、ロザリンドがこっち見てるぞ? 行ってやらなくていいのか?」
「キミは記憶がないだけで、姿形は以前のままなのだろう? 良かったな。きっとバーバラも受け入れてくれるさ。だけど妹は人族になって帰ってきたんだ。私はどんな顔をして妹に会えばいいか分からない。……ロザリィは魔人族を憎んでいたからね」
「べリンダの目にはあの常盤がロザリンドに見えるんだろ? だったらいいんじゃないかな。あいつはべリンダのことも、サナトスのことも覚えてるよ。子どもの頃の思い出も何もかも。ここで生きた証があるんだ。べリンダにも同じ時を共有した思い出があるんだろ? なら外見が変わったことなんか、本当に些細なことだと思うよ。俺は」
「若いくせにいいこと言うじゃないか。そういえばキミは姿形は同じでも記憶がないって言ってたな……。そうか、悪かったよ。キミのおかげで少し前向きに考えることが出来そうだ。また私につらいことがあったら、酒でも付き合ってくれ」
「ああ、そうしよう」
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その後、要塞門の脇から建物に入って、行列ができている部屋に行く。ここがエマの職場で、今日はヘルプの救護室だ。行列の横をすり抜けて部屋に入ると、突然エルフにあるまじき肉感の巨乳お姉さんに抱きつかれた挙句、わんわんと泣かれてしまって、俺は悪いことをした覚えがまるでないってのに、ハイペリオンの炎で火傷したらしい兵士どもの顰蹙を買ってしまった。加えて背後からこの女性と俺を力いっぱい込めて引き離そうとするイヴに挟まれてしまって、まったく、どうしたものかと対応に苦慮していたのだけれど……さすがにいくら察しの悪い俺でもおおよその見当はついてしまった。
この人がバーバラだ。前世アーヴァインの2番目の奥さんだった人。ハーフエルフで、ちょっと小柄だけどムチムチしてて、その胸のボリュームはべリンダ以上。少しタレ目で、唇が厚い……一言で言うと、エロいと表現したくなるような女性だった。まったく俺の趣味の世界は止まるところを知らない。エマと言いバーバラと言い、こんな二人を妻にしてしまったら日本になんか、ひとつも未練はなかったろう。
バーバラは予定では仕事を終えたあとだから、夕方ごろ来るはずだったのだけど、アーヴァインが転生して戻ってきたなんて報告を受けたというのに仕事なんかやってられず、すぐにすっ飛んできたらしい。
「うるさいからあっち行ってて」
なんて邪険にされつつ、俺たち3人は救護室の奥にある、治癒師の仮眠室に押し込められてしまった。
ここでもバーバラは思い出話を仕掛けてくるのだけど、まあ、分からずただ頷いているだけの俺。
10分、15分おきに泣き出して、よかったよ! よかったよ! と、喜びを噛みしめてくれるバーバラと、もう半ば諦めてしまったかのような呆れた表情のイヴに挟まれながら、この賑やかな愛情を一身に受けていた。
アリエルが俺に届けてくれた手紙。それは俺が漉いたという浅黄色の和紙に書かれた手紙。両親宛てだったが、まずは先に俺が読んだ。幸せに暮らしていると書いてあったけれど、本当に幸せに生きて、そして死んでいったのだと理解した。こんないい女たちを残して先に死んでしまうなんて、心残りはあったろう。だけど、俺には分かる。きっと満足して死んでいったはずだ。ほかならぬ俺がそう思うんだから間違いない。
この仮眠室に押し込まれて数時間にもなるか、エマが扉を開けて入ってきた。ようやく行列が捌けてケガ人の治療もひと段落したらしい。
「ねえエマ、あーさんトライトニアに住むの?」
「ちょっと待ちなさいよ、私だけ除け者にする気? ダメです。あーさんは宿舎で暮らします。だってあーさんが正式にノーデンリヒト人になるまで私が身元引受人なんですからね、私がついてなきゃダメなんです」
「身元引受人なんて連名にすればいくらでもなれるじゃーん」
エマはこの治癒師としてこの要塞に詰めているから、峠道の横に建てられた職員宿舎のようなところに住まわせてもらっているのだけど、バーバラはトライトニアってとこに、カンナと二人で暮らしているらしい。ちなみにそっちが家で、こっちの宿舎はあくまでも宿舎なんだそうだ。
で、ここからそのトライトニアの家まで、距離にして実に40~50キロはあるとか。
俺なら普通に強化かけて走れば軽く1時間と言ったところだけど、エマなら1日仕事になりそうだし、イヴの足なら軽く2日はかかるだろう距離だ。
ここで俺がどんな仕事に就くかにもよるけれど、バーバラが数時間で走ってこられるなら、しばらくこっちで世話になったほうがよさそうなんだけど……今は口に出して言わないほうがよさそうだ。
バーバラによると、カンナは実は魔導学院のヘルプを受けてトライトニアから東に50キロほど行ったところにある村で、魔導灯の設置をしているらしい。もしかするとこっちに来られるのは明日になるのかもしれないとのことだった。もちろん魔導学院の足自慢の生徒に速達で伝言を頼んだので、早ければ今夜にでも来られるんじゃないかというのだけれど……。
って、軽く100キロの距離あるし。イヴだと4日の道程だから、こりゃ明日になるだろうなと思ったら少しだけホッとしている自分が居た。実はまだカンナに会う心の準備ができていない。
自分の娘だと知らなければ、きっと100キロの距離を今すぐにでも駆けて会いに行きたいと思うほど、焦がれていたはずだ。会いたくないなんて気持ちはこれっぽっちもない。会いたい、会って、いろんな話をしたい。そう思ってこんな世界の端っこまで来たんだ。
こんな気持ちがモヤモヤしてるときは、剣を振るに限る。風切り音で心の澱みをぜんぶ吹き飛ばしてこよう。明日、カンナと会うとき、こんな沈んだ顔なんて見せられないから。
「エマ、この木剣ちょっと使わせてもらっていい?」
「はい。熱心ですね、夕方も剣を振るのですか?」
「いつもは朝だけなんだけどね、身体を動かしたくなった。どこか景色のいいところで、人気のないところある?」
エマに聞いてきたのは要塞の防護壁のてっぺん。弓兵たちの配置されるところ。
外階段を折り返して登ってゆき、弓櫓に出ると、西の空は少し雲が多くて、太陽の沈むところは見られなさそうだ。
「うおっ、砂浜があったら最高なんだけどな、森に向かって剣を振るのもたまにはいいか」
なんて言いながら、横から見ると台形になった要塞防護壁の上を西の端っこまで行って、少し階段を下りた所に踊り場があったので、そこに陣取って木剣を振るアーヴァイン。
フッ! フッ! と素振りにも熱を帯びてきても、いろんな雑念は頭に残ったままだ。
エマやバーバラと会えた幸せ。それでもやっぱり記憶が戻らなかったという無念。アリエルたちのデタラメな戦闘力と、ハイペリオンの蹂躙。おそらくここで袂は分かたれた親友。ここに居さえすればまたそのうち会えるだろうなんて考えまでも頭に浮かんでは消えてゆく。
こんな自分でも愛してくれるイヴという存在と、そして、恋い焦がれて、こんなところまで会いに来たというのに、心を奪ったのは、前世アーヴァインの娘、カンナだったということ。何かの間違いであってほしいとは思った。だけどあのコの深緑色の瞳は、エマのそれと酷似していた。DNAの存在を否定しないのであれば、何かの間違いであってほしいなんて、儚い希望は抱かないほうがいい。
俺はカンナと会って、何を言えばいいんだろう。何を話すか、今から用意していても、きっと思ったように話せなくて、どうせ頭の中が真っ白になってしまうだろうけど。
さっきまで低い雲がべたーっと広がっていた西の空が急激に赤く染まってゆき、低空を抜けてくる赤い光線が直射日光としてアーヴァインの眼球に届いた。
夕焼け空だ。
故郷で見た、視界の全てが真っ赤というスケールの大きなものじゃないけれど、森に沈む太陽でありながら、ここまで真っ赤に世界を染め上げるなんて、やはり太陽の存在は、日本でもスヴェアベルムでも等しく偉大なんだ。
テンション上がってきた。モヤモヤしててハッキリしない俺の心に、夕陽が気合を入れてくれたように感じた。そんなもん悩んでても仕方ない。俺が何か違った行動をしていたら、カンナが俺の娘じゃなくなるわけもないのだから。
やっぱり剣を振っていると、考えがまとまる。どうしようもなかった事を吹っ切ることができる。
「へえ、あんなにヘタだったのに、上手になったわね」
突然、背後から声をかけられて、時間でも止まってしまったかのようにビタッと静止してしまったアーヴァイン。聞き覚えのない声だった。だけど、想像していたあの人の声は、たぶんこんな澄んだ、心に響く声だろうと思っていた、そのまんまの声に鼓膜を震わせる。
アーヴァインが恐る恐る振り返ると、あの日、あの時と同じ、夕焼けの赤い光に照らされて髪の色が分からない、青銀か緑銀かの髪が風に揺れていた。
あの日と寸分たがわぬ姿で、その少女は、あの日と同じ、階段に腰かけて、すこし退屈したような表情で素振りしているのを見ていた。
「母さんが泣いてしまって言葉にならなくてさ、何か大変な事があったんだろうなと思ったら、なるほど、こういうことね」
そういって腰を下ろしていた階段から立ち上がり、スカートについた砂埃をはたいているカンナに、そっと歩み寄り、急接近するアーヴァイン。
息と息が触れ合うような距離、胸と胸がくっついてしまうほど。
カンナは異性にそこまでの接近を許したことはこれまでなかった。剣を持っては懐に入られるなんてことも、本格的に鍛錬を始めてからは一度もなかった。
アーヴァインが巧みだったわけでもなく、カンナの隙をうまく突いたわけでもない。理由は簡単だった。カンナがあの時と同じように、アーヴァインの眼に惹き込まれて、一歩も動けないどころか、指一本動かせなかっただけ。
カンナはまるで魅了の魔法にでも掛かってしまったかのように、ただ棒立ちで、体温すら感じられるほどの近距離に入ってくることを許してしまったのだ。自分でも信じられないような大失態だった。
生かすも殺すも、キスをすることも、抱き締めることも、何をするのも次の一手はアーヴァインのものだった。しかしアーヴァインはこの期に及んで、こんな近い距離で、瞳の中の虹彩がくっきり見えるほどの距離にまでいとも容易く侵入しておきながら、
「やった。身長、抜いたよ」
なんてことを言っただけだった。
その言葉を聞いて我に返ったカンナのほうが後ずさりしてしまったほど。
「ななななな……開口一番ソレ?」
慌てふためくカンナ。あの時の少年アーヴァインは子どもの声だったのに、いまのアーヴァインは地の底から湧き出してくるような、低くて渋めの、大人の声だった。
「アーヴァインだ」
「普通、身長自慢よりそっちが先よね? 私はカンナです」
「カンナ。まるで俺がつけたみたいにいい名前だ。母さんの名だけどな」
「あら、私は気に入ってるわよ……。ねえ、あの時さ、あれはニホンゴよね? 私に何って言ったの?」
「ああ、あの時か。あの時はドラゴンは飛んでるわ、薄っすら向こう側が透けて見えるエルフの美少女が座ってるわで、大変だったんだけど……言わなきゃダメ?」
「うん。今までずっと気になってたの」
「きれいだ」
「え?」
「きれいだって言ったんだ」
「ちょ、何を言ってるの? 私は……」
「あの時、俺は君に見とれてしまって、たぶん無意識だったんだと思う。きれいだって言ったんだ」
「……そ、そうなの? ごめんなさい、ちょっと勘違いしちゃった。じゃあ走っていくときは? 立ち止まって振り返って、私に一言なにか」
「そこで待ってて。だったかな、でも何秒か目を離したらもうキミはもう居なくなってたんだ」
「そ、そうだったの」
その後、夕焼け空の下真っ赤に燃え上がるノーデンリヒト要塞の防護壁の上で、しばらく息も出来ないほどの緊張感に包まれた沈黙が辺りを包み込む。
そんな中、アーヴァインは言うべきか言わざるべきかと思っていたセリフをやっとの思いで紡ぎ出した。
「なあカンナ、キミにとって俺は?」
「何? 父さんだとでも言いたいの? 私は認めないから」
「絶対にか?」
「絶対に認めない!」
強く睨みつけるような目で絶対に認めないと言い放ったカンナと、その言葉を聞きたかったとばかりに、上機嫌な笑みを浮かべるアーヴァイン。
「望むところだ」
「はあ? 何? 本当に言葉が不自由なのね? えっと、なんて言えばいいんだろ」
「俺がキミの父さんだったら、この出会いは感動的なものだったろう。だけどカンナは認めないと言ってくれた。それはカンナ自身がそう望まないってことなんだろ? 俺だってそうだ。ならば俺たちの未来はまた少し違ったものになるんじゃないかなと思う」
「あのさ……母さんたちどうするの? イヴって子も。私、ほんっと頭痛がしてきた」
「俺は楽天的だけどね。俺たちが会えた、こんな奇跡が本当に起こるんだから、きっと大丈夫。みんな幸せになれる道が必ずあるはずだから、俺は人生をかけてその道を探すよ」
「なんだか要約すると、全員俺の嫁なれって言われたような気がしたんだけど」
「ええっ、マジで? ちょ、俺そんな大胆なこと言ったっけ?」
「言った」
「心を読む魔法とか、使ってない?……よね?」
「ほらやっぱりスケベだ! 人族なんてこれだから信用できない」
急に機嫌を損ねてしまったカンナが早足で帰ろうとするのを、慌てて追いかけるアーヴァインの姿。
日が沈んで東の空から星が上がってくるのと同時に、地面に向かって駆け下りてくる暗闇に紛れてカンナの口元は、すこし微笑んでいた。
「ねえ、精霊さまにするおまじないって知ってる?」
「知らないけど……」
「アルタラ・スランディ・エンディゴ・ウルテ。……精霊さまが私の願いを叶えてくださいました。って言っても、精霊の実物を知ってる身としてはご利益うすいわね。だって てくてくだし」
「神様なんて大体そんなもんじゃないの? 女神ジュノーも実物はただひたすらに性格の悪い姑みたいな女だし、破壊神アシュタロスなんて正体はアホなんだぜ?」
「うふふ、そうね、でも今回だけは、てくてくに感謝する」
アーヴァインの初恋、カンナの初恋、エマの初恋は、みんなまとめてゼロにリセットされてしまったけれど、これからまた長い時間いっしょに生活するのに、思い出は積み重なって行くのだろう。




