10-27 種族の距離
次話は、08/04(金)に投稿予定です。
両手に花、でもなく、両手に孫を抱いて、ビアンカの前に立つと、今はもう別人になってしまったこの俺に対しても柔らかな空気と、優しい眼差しを投げかけてくれた。
「久しぶりだね。でもどうしたの? こんな夜更けなのに、お化粧も髪のセットも完璧じゃん……」
「当り前です。お母さ……私はだいたいいつもイケてます。あなたが帰ってくるっていうのに……」
ポトリ、ポトリと頬を伝って流れ落ちる大粒の涙。口元がぐにゃっと歪んで美しい澄まし顔を維持することが出来ないビアンカ。変わり果ててしまった息子の姿に言葉を失っていたところに、会話をしてみて突然、ダムの結界のような実感が押し寄せてきたのだろう。
「どうしよう、頭の中が真っ白になっちゃって、話したいこといっぱいあったのに。……いっぱいあったのに」
いつものビアンカがいつものように冷静でいられなくて、やっぱりいつものように失敗している。
「ただいま。母さん」
「んっ、おかえり……おかえりアリエル」
プロスペローのことはとりあえず横に置いといて、今夜だけは和やかに過ごすことにした。
この後ゾフィーとサオが悪だくみしたらしく、パシテーのお母さんのフィービーと、ロザリンドのお姉さんのべリンダもいきなり拉致されて連れて来られる形で呼び寄せられた。
ロザリンドとべリンダは、なんだか一つ重い荷物をやっと下せたかのような安堵の表情になり、その後はアルカディアの国がどうだというガールズトークで盛り上がっていたが、あのべリンダがゾフィーの前ではカチコチに緊張していたのが何だか笑えた。
フィービーは16年間音信不通だった娘と、その大切な娘を危険な目に遭わせた挙句守れなかった俺に怒りをぶつけ、くどくどといつもの調子で小言を言い始めた。もちろん俺は床に正座させられている。
そのせいでビアンカやトリトン、そしてレダやガラテアさんまでがフィービーに同調し、まるで思い出したかのように説教しはじめ、何度も何度も、ごめんなさい、ごめんなさいと謝るはめになってしまった。しかもグレイスの部屋には接近することすら禁止されてしまった。俺の頭の中では赤ん坊だったグレイスもいまはもう年頃なんだそうだ。
皆に一通りの謝罪を終え、正座から解放されて立ち上がろうにも立ち上がれない俺に手を差し伸べながら、ロザリンドが寂しそうな視線をサナトスに向けながらこぼした。
「ねえあなた、私なぜ人間に戻りたかったのかな。なんであんなに角や爪が嫌いだったのかな。なんで私……、角も爪も無くしちゃったのかな! こんなも大切なものだったのに……」
寂しそうというより、遠い目をしている。ロザリンドがコンプレックスに思っていた大きな角や、鋭く湾曲した爪も、実は家族の絆だったんだ。
トライトニアに戻ってきて、俺が子供時代を過ごしたこの居間に戻ってきて、ビアンカの寂しそうな目を見て、いま俺が感じたことと同じだ。
意識も記憶もアリエル・ベルセリウスのまま変わってないけれど、やっぱりこの世界の人にしてみれば、俺もロザリンドも、やっぱり別人になってしまったということなんだ。
俺たちがこの世界を発ったのはサナトスがまだ2歳の時だった。ロザリンドがサナトスの母親だというのは誰も疑わない事実だ。だけど、ベッドで眠るまで絵本を読んで聞かせてやったり、わがままを聞いてやったり、時には叱ったりしながら、サナトスをここまで立派に育ててくれたのはサオなんだ。
生みの親よりも育ての親という言葉の通り、サナトスの目にロザリンドの姿はどこかよそよそしく、サオを見る目は母親に向ける眼差しにより近いように見える。
俺がトリトンやビアンカの、その寂しそうな眼差しを送られることが耐え難いのと同じで、ロザリンドはサナトスの母親で居たかったし、べリンダの自慢の妹でありたかったんだ。
「そっか。可能性は低いけど戻りたいならジュノーに相談してみ?」
「えっ? 戻せるの? 私を魔人族に?」
「ジュノーは日本人として生まれたあとに、昔のまんまの赤髪のジュノーに戻ってるからな。でも戻ったからと言って……」
「うん。分かってる。私もこれから頑張って親子関係を修復していくしかないんだしさ……」
ロザリンドが魔人族の身体を取り戻せるかもしれないと聞いて、アイシスを抱いて寝かしつけようとしているジュノーに注目が集まった。
「んー、期待してくれてるところ申し訳ないけど、難しいという他に言いようがないわ」
「無理だとは言わないのね?」
「私の方法は単純に情報の書き換え……今風に言えば遺伝子操作の技術に近いと思う。これは自分の過去の姿を隅から隅まで知ってることが条件なんだけど……私、あなたの前世を知らないのよ。いま施術したらきっと、ちっこい常盤になっちゃうと思うんだけど」
「過去の姿が目の前にあればいいのか?」
「まあ、そういうことになるわね……。魔人族のDNA情報そのものは実の姉のべリンダさんがいるうちに直接いただいておくと後が楽なんだけど」
「必要なものがあれば何なりと。私にできることなら」
「過去の姿はきっとてくてくが何とかしてくれるはずだ」
「マスター、それは難しいのよ」
そう言いながらてくてくは予告も前触れもなしに、瘴気を噴出するとジュノーに向けて放った。瘴気はジュノーに触れようとすると分解されて空気に溶けてしまう。まるで水蒸気のように音を立てて。
「ん。属性反射なのよ。ジュノーは光の真祖だからアタシ程度の闇は近付くこともできないの。これは炎系の魔法に対抗する耐熱障壁が水の魔法なのと同じことなのよ……でもそうだとすると、おかしいのよね」
「さすがテックね。でもそれはもういいわ。ロザリンの姿を戻す方法はきっと別にあるからね」
ジュノーの特性に疑問を持ったてくてくの言葉を遮るようにゾフィーが制止した。
不審に思ったてくてくがアリエルの方を見たけれど、当のアリエルですらてくてくに向かって『うんうん』と頷いている。もうこの話題に触れるなという意味だろう。
てくてくがジュノーに対する疑問をグッと飲み込んだところ、ゾフィーべったりで付き人みたいになってるコーディリアがこっちの話に興味を持ったらしい。
「ねえ、属性反射を突破できればいいの?」
「心当たりでもあるのか?」
「えっと、マナの特性と魔法防御を無視してゼロにする類の神器なら知ってるかな……」
ん? ちょっとまて、それって……。
アリエルには心当たりがあった。マナの特性と魔法防御を無視して斬り裂くもの……それは、
「聖剣グラムか!」
「ピンポーン! 私はあんな恐ろしい呪いに関わりたくないんだけどね」
「いや、あれはロザリンドが根元からスパーンと……あれ? あの刀身どこへ行ったんだ?」
「んと、アルトロンドの神聖典教会総本山に戻されたんだと思う。セカの魔導学院に修復の依頼が来てたから確かだと思うよ。そしてそれは王都プロテウスの魔導学院でいまも修復作業が行われているはず」
「ロザリンドが魔人族に戻れる可能性が出てきたってことだな」
「ちょっと待って。仮に私がロザリンドの前世の姿を知って施術したとしても、身体の細胞が入れ替わるまで、まあ普通でも2年かかるかな。これは何もせずとも細胞レベルで行われる代謝で完全に肉体が入れ替わるのに頼るってことなのよ?」
「ジュノー、それはどういうこと? 私は実際にどうなるの?」
「そう、私たちは母の身体から産み落とされて、たった数年でもう別人になってしまうの。骨ですら4~5年もすれば新しいものに置き換わってしまう。それと同等の時間が必要なの。細胞が入れ替わって初めて施術が成功したかどうか分かるのよ」
さっきから少し訝しむ視線を送ってくる てくてくをチラチラと意識しながらジュノーは更に言葉を続けた。
「私は体質的な問題があって治癒魔法が効かないから自己回復に任せて10年かかってまだ95%ぐらいかな。だから仮にうまくいったとしても時間がかかるってことは覚悟してほしいわ。細胞は入れ替わっても神経細胞は再生しないから……、あ、自己再生はアリエルの得意分野だったわね」
てくてくに向けているかのように説明を続けるジュノーの話に、てくてくは突然理解した。光の女神と言われ信仰の対象になっているジュノーが、闇の精霊であるてくてくと同じ体質だなんて、その事実が指し示す答えについても……。
「ジュノー、その説明じゃコーディリアわかんないから。もうちょっとこう、ファンタジーな説明をしてやってくれないと」
「ファンタジー? えっと、これは光の魔法を進化させた外法なの。たとえば治癒の魔法を突き詰めると生命の根源に行きつくわ。そう考えてみると治癒魔法って女そのものね、新しい命を生み出しているに等しい。人は人の子として生まれてくる。これが自然の摂理よね。でも高位の回復魔法を更に突き詰めて応用すると、……たとえば、極端な例を挙げると人を獣に変えてしまうこともできる。そこまではさすがにやろうとも思わないけれど、それでも人を別人に変えてしまうことまでは成功してるわ。この私が自分の身をもってね。でも種族を変えてしまうまではやったことがないから……」
「種族を変えてしまうのは難しいってこと?」
日本生まれ日本育ちのくせして、ファンタジーな説明のほうがよく分かったような面持ちのロザリンド。
「ちょっと待ってね、どう説明すればいいかな……えっと、ロザリンド知ってるかな? 昔、日本の動物園で意図的にハイブリッドを作り出すことを目的とした異種交配が行われたの。ライオンと虎の異種交配したものをライガー、ヒョウとライオンの異種交配をレオポンと言って、どちらもオスに繁殖能力が失われているの。魔人とは言っても、人と愛し合って子を生すことが出来るということは、人もエルフも獣人もみんな近縁種なのよ。そしてサナトスはレダさんと結婚して子どもが生まれてるってことは、魔人族も獣人もエルフも人も……実は同じ種族だということを意味している。つまりアルカディアで言うところ、肌の色が違う人種の違いぐらいの差しかないって事じゃないかって私思ってるの」
「ごめ、やっぱ分かんない。かいつまんでお願い」
「えーっと、人も獣人もエルフも魔人もみんな同じ。個性によって見た目がちがうだけって意味よ。あと早まらないでね。私が元の姿に戻る方法とゾフィーの方法は違うってこと。あなたの体質は明らかにゾフィーの方に近いから、もしかするとゾフィーが今の姿に戻っている方法を教えてもらった方が手っ取り早いかもしれないわよ」
「え? 私? さあ、両親が人族でも10歳ぐらいになったら自然にエルフの姿に戻るけど?」
「ほらね聞いた? あなたも無意識のまま2メートル近い身長になってる。眼の色も、瞳孔が開いた暗闇で魔法灯の光を反射してキラリと紅い反射を見たことがあるし、少しずつ紅く変化しているのかもしれないわね。もしかすると放っておいてももうすぐツノが生えてくるかもしれないわよ。……そんなことよりもねえゾフィー、10歳でエルフに戻ったとき、家庭の夫婦仲どうなの? 絶対にモメるわよそれ」
「そうね、なんだかいつもケンカが絶えない家庭だったけど、そう言われてみると私のせいだったのかもしれないわね。でも私その頃にはもうあなたたちと合流してたし。しらないわよ」
父親にも母親にも同情の念を禁じ得ないコメントだった。人族の夫婦からエルフの娘が生まれたんだとしたら夫婦仲は険悪になって家庭崩壊待ったなしだ。絶対に離婚してると思う。
転生組3人が元の姿に戻るためには聖剣グラムを入手したほうが良いという事は分かった。
アリエルのほうもスヴェアベルムで活動する以上はアリエル・ベルセリウスを名乗った方が何かと都合がいいことも分かった。
ロザリンドもそのまんまロザリンドを名乗り、パシテーは転生して嵐山アルベルティーナという名であってもパシテーだったように、スヴェアベルムに戻っても当然パシテーのままでいることを選んだ。
アリエルは人族のままだが、ロザリンドの前世は魔人族だ。ロザリンドは魔人族に戻りたいと切に願ったがパシテーは逆の考え方を持っていた。
パシテーは同じ場所に居ながらも寂しそうに事の成り行きを見守っていたフィービーに今日初めて歩み寄って話をした。
「お母さんには申し訳ないけど、私はクォーターエルフに戻るよりも、人族で居たいの」
前世のパシテーを産んでくれた肉親、つまり肉の親であるフィービーを目の前にしてパシテーがそんなことを言い出すものだからアリエルも少し驚いたけれど、当のフィービーはパシテーの肩に手を置いて優しく頷いたのが印象的だった。
「そうですねパシテア、人族の男性を愛してしまったのなら、同じ時間を生きられる人族のほうがいいよね。私はあなたの考えを応援するわ。なんだか羨ましくもありますね。私には叶わなかった願いですから」
そしてパシテーを後ろから抱きしめるフィービーの目からは、ポトリポトリと、幾粒かキラキラと輝くものがこぼれて落ちた。
母と娘の間に横たわっていた"しこり"が、涙とともに解けて流れてゆく。
だがしかし! 現実は甘くなかった。
「ところでアリエルさん、ちょっとここに座りなさい」
「えと、はい。あの、すみません。娘さんを死なせてしまって、本当に本当に申し訳ありませんでした。今後は絶対にこのようなことのないよう、努めてゆきますので!! ほんとごめんなさい」
「座りなさいと言ったのですが? 聞こえませんでしたか?」
「ああああっ、はいっ。分かりました。座ります、座りますから……」
アリエルはその場に正座させられ、パシテーを危険な目に遭わせてしまったこと、パシテーを幸せにできなかったこと、パシテーの気持ちの応えきれていないことを指摘されてはそれをどう考えているのか問い詰められ、アリエルの受け答えがフィービーの満足のいくものでなかったため、滾々と声枯れるまで、実に2時間にも渡るお説教となった。
トリトンも便乗して説教してやろうと思ったが、フィービーの剣幕に気圧されてしまって、言葉も出なければ、アリエルに助け舟を出すことすらできなかった。




